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第8章「夏が来りて、歌え」

第69話「溺れるよりほかに、手があるだろうか」

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 その夜、清春は少しでも早くコルヌイエを出ようと思いつつ、十八時になってもまだ香奈子のスイートにいた。
 つぎつぎにやってくるプライベートな来客をさばくのに、香奈子の秘書・村上ひとりでは手が足りなかったのだ。
 それでも十九時すぎには来客の波が切れた。清春はひそかに安どの息を吐き、村上に辞去する旨を伝えた。
 村上はにこやかに、

「お疲れさまでございます。一晩だけで申し訳ございませんが、井上さんもゆっくりとおやすみになってくださいね」

 清春は一揖《いちゆう》して、プレジデンシャルスイートを出た。

 コルヌイエホテルから清春のマンションまでは電車で一本だ。乗り換えもいらず三十分で自宅と職場を行き来できる。この利便性が、あのマンションを購入した最大の理由だ。
 おれの生活は仕事だけで出来上がっているようだ、と清春は駅で電車を待ちながら思った。仕事帰りに親友で同僚の深沢洋輔と飲みにいく以外は、清春はほとんど出かけない。

 休日はほぼ眠っており、出かける先と言えばエクササイズジムのプールか、昔なじみの”バー・トリルビー”だけ。そもそも休みをほとんどとらずに働いているのだから、行動範囲が狭いのは当たり前だ。
 そう思うと、恋人の佐江とごくたまに出かけることだけが清春の貴重な外出だ。

 佐江と付き合い始めて、どれくらいたった? 清春は頭の中で日数を数えた。
 せいぜい二カ月。
 たったこれだけの時間で、清春の生活は佐江に乗っ取られた。

 佐江の存在は海の潮が満ちるように生活に広がり、いつの間にか清春の足元の砂をそっくりえぐり取ってしまった。
 広い海の中に、浮き輪ひとつ持たされずに放り出された清春。
 もはや溺れるよりほかに、打つ手はあるだろうか?

 『——おれはどうかしている』
 清春が駅に降りたとき、ふと数メートル先を歩く、佐江の背中を見つけた。


 岡本佐江は姿勢がいい。
 今日の佐江は、五センチ程度のローヒールに初夏らしくネイビーのジャケットと白いワンピースを合わせていた。
 百六十九センチにという長身をまっすぐに伸ばして歩く姿は、まるでランウェイを行くモデルのようだ。

 そのくせ、佐江にはモデルのような「非日常感」はない。地に足がついているしっかりした歩き方だ。その歩き方にはいつでも強い意志がにじんでいる。
 自分の目的を知り、最短距離を選んで一心不乱に歩く姿。

 清春は佐江の背筋の伸び方を見て微笑みつつ、彼女の数メートル後ろをついて歩いた。
 佐江のプライドと緊張感と一心不乱な歩き方が、清春をひきつけて放さない。
 同時にあの緊張感が崩れる一瞬が見たいだけのことで、清春は夜じゅう佐江のほっそりした体を責めさいなむことになるのだ。

 今夜はどんなふうにしてやろう。
 片手に持ったワインバッグを軽く握りなおして、清春は考える。

 すきのないスーツの下にある佐江の身体を、彼女のまとっている殻《から》ごと引きはがして、佐江が泣き出すまで責め立てたい。
 佐江の鋭敏な体がどんな形で清春にこたえるか考えるうちに、全身が反応しはじめる。

 あれは『おれの女』だ。

 清春の目がくらい欲情に彩《いろど》られるうちに、佐江はマンションについた。彼女がエントランスできちょうめんにベルを鳴らすのを見て、清春は顔をしかめる。

 『なぜ、あれほど言ったのに鍵を使わないんだ』

 背後の清春の不機嫌を知らずに、佐江はエントランスでしばらく待ってからバッグのなかの鍵を取り出した。

 今夜の佐江のバッグはいつもより一回り大きい。
 清春の部屋で泊まる夜、佐江は必要なものをすべてカバンに詰め込んで来る。着替えとメイク道具はそっくりカバンにおさまってしまい、佐江とともにやってきて、佐江とともに消える。
 
 だから佐江が去った後、部屋には彼女の残り香しかない。

『女が泊りだすと、あれこれと物を置いていきたがるんだ。あれは一種のマーキングだな』

 先日泊まりに来た親友の深沢洋輔の一言は、佐江には当てはまらない。
 女は、惚れてもいない男の部屋に物を置いていかないものだ。佐江にとって、清春はマーキングする値打ちもない男なのだろう。
 清春が考え込んでいるうちに、佐江ののったエレベーターはマンションの十二階に上がってしまった。

 ちっ、と舌打ちをして後を追う。
 エントランスを抜けてエレベーターを待ち、十二階のフロアに降りると清春の惚れた女はまだ玄関先でもたもたとベルを鳴らして待っている。

『早く鍵を使え』

 清春は佐江の後ろに近づきながら思った。

 佐江が、さっき使ったばかりの合鍵をあらためてバッグから取り出す。かちりと鍵穴に差し込む。
 やっと、部屋の鍵が開いた。
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