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第8章「夏が来りて、歌え」

第64話「彼女の奴隷」

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 コルヌイエホテルに約六十室あるスイートのうち、プレジデンシャルスイートは最上級グレードだ。
 香奈子が十日間のブッキングをしたのは、ワンベッドルームに広いリビングエリアとダイニングスペースがついている客室。室内には簡単なキッチンがついており、サンドイッチなど軽食を用意することもできる。

 清春に先導させてスイートに入った香奈子は、飛行機の移動で疲れたと言ってあっさりとベッドルームにひっこんだ。
 清春と村上は広いリビングエリアで、明日からのスケジュールチェックを始めた。

 仕事を始めてみると、村上という女性は想像以上に有能な女性だった。
 明るくにぎやかでありながらも、小さな手の爪をギリギリまで切りそろえ、いついかなる場合でも香奈子のオーダーに応じられるよう待ち構えている。
 完璧なほどに有能な秘書だ。

 香奈子とともに働くのは激務だろうが、それに見合うだけのもの支払われているのが分かる。同時に、村上が金以上に『銭屋香奈子』という人間にほれ込み、尽くしているのも感じ取れた。
 村上はふっくらとした顎をひいて話しはじめた。

「日本での滞在中は、私がビジネス上のお客様の対応をさせていただきます。井上さんには、香奈子さまの出席される社交行事の日程管理とコルヌイエホテルでの来客の対応をお願いいたします。

オンライン上の共有掲示板は、一時間ごとにご確認ください。私が、香奈子さまの思いつかれた事を次々に書き込んでまいります。情報を共有して、香奈子さまがホテルにお戻りになる前に手配を済ませていただけますか?」
「承知いたしました」

 村上は安心したように笑い、それから、

「助かりますわ。あの、一つお願いがありますの。こちらに滞在中はなるべくすぐに連絡がつくようにしていただきたいんです」

 清春はにっこりとうなずき、

「ご安心くださいませ。銭屋様のご滞在中は、わたくしもほぼコルヌイエに常駐しております。必要があればいつでもお呼びください」

 村上は、ほっとした様子を見せた。そしてわずかに口ごもり、

「あの、香奈子さまのご主人さまのについてはお聞きになっていますか?」

 清春はかぶりをふった。村上は小さなため息をついた。

「ほんとうは井上さんにも内密にしておくよう、香奈子さまから申しつかっておりますが、私の独断で申し上げます。
香奈子さまのご主人様の銭屋様は、ただいま闘病中でいらっしゃいまして――」
「さようでございますか」
「香奈子さまもご心労がたまっておられます」

 村上は痛ましそうな表情でそういった。

「現在は、香奈子さまがご主人様の代わりにビジネス上の決断もなさっていて。この一年ほどは、睡眠時間も休養時間もほとんど取れていない状態なのです」

 あり得る話だ、と清春は思った。
 ビジネスマンとしても有能な香奈子は、夫が倒れた後はすべての仕事を引き継ぐことに決めたのだろう。そしていったんやり抜くと決めたら、自分が倒れるまで激務を詰め込むのが香奈子のやり方だ。
 村上自身も少し疲れたような顔つきで清春を見た。

「私ども、香奈子さまのお近くで働いておりますものはみんな、日本での十日間でせめて少しでも香奈子さまにお休みいただきたいと思っているのです」

 清春は、ぽっと心の中が温かくなる気がした。
 競走馬のようにひたすらゴールを目指すばかりの香奈子に、こういう女性がついていると思うと嬉しくなってきたのだ。

 「村上さま。微力ながら、わたくしもできる限りのことをさせていただきましょう」
「たすかりますわ、井上さん。こんな素敵な男性にサポートしていただけるなんて、うれしくなりますわ」

 清春も苦笑するしかない。

「なんでもお申し付けください。ご滞在中は専属の奴隷とでも思っていただければ結構です」
「まあ奴隷だなんて。井上さん、その一言をぜったいに香奈子さまに言ってはなりませんよ。ほんとうに香奈子さまの奴隷にされてしまいますわ。あの方は平気で男性を踏みつけになさいますからね。
あと、わたくしのことはどうぞ”村上”とお呼びください。香奈子さまの前で”さま”付けされるなんて、お尻がむずむずしちゃって」

 ははは、とついに清春は笑い始めた。そしてすぐに笑いを納めて、

「失礼いたしました、村上さん。ゲストの前で声を上げて笑うとはホテルマンにあるまじき失態でした」
「いいんですのよ。この十日間は私と井上さんは同僚・同志です。ともに香奈子さまに立ち向かいましょう。あ、違ったわ。香奈子さまをお支えするんでした」

くすっとまだ清春は笑い声を残して答えた。

「あの圧倒的な方の前では”立ち向かう”という言葉の方が正確なようです。それではご滞在中のスケジュールの確認をいたしましょうか」

 そしてスケジュールをチェックする途中、村上があっという小さな声を上げた。

「あのう、井上さん……たいへん厚かましいのお願いなのですが、三日目の香奈子さまのお夕食のお世話をお願いできないでしょうか」
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