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第6章「夜の女王のアリア」
第53話「きみがここにいるなら、おれは、どこへも行かない」
しおりを挟む清春の腕にふわっと、佐江の小さな温かい手が乗せられた。頭上の若葉を見上げたまま佐江の手を握り、どうしようもないという顔で笑った。
「おれは君に恋している。
きみの頭も身体も全部がおれの妹でいっぱいだと、わかっていても、どうにもならない」
さえ、と清春は呼んだ。
「おれと、つき合わないか」
唐突な言葉に、佐江は戸惑ったような声を上げた。
「つきあう?」
「うん」
清春は隣にいる佐江を見た。
ひんやりした美貌。清春を拒絶するような、高い頬骨。女性にしては低い声。すべてが入りまじり、岡本佐江という女を作っていた。
清春が、生まれてはじめて魅了された女だ。
うしないたくない、なにがあっても。
清春は口を開いた。
「きみは、真乃のことを抜きにして、井上清春って男を知りたくないか?」
佐江はアーモンド形のきれいな目を見張り、清春をまっすぐ見ていた。それからまじめな顔で、首を振った。
「——あたしには、無理です。あなたを見るときは、いつも真乃のことを考えてしまう。真乃を、抜きにはできません」
「できるよ。きみがそうしたいと思うならね」
清春は佐江の髪に手を添えて、飛んできた若葉を取り除いてやった。生き生きと風に舞う、明るい予感のような若葉だ。
「できるよ、佐江。
おれはこの先、もうどんな手練手管もきみに対しては使いたくないんだ。そのままの、生のままの、おれでいたいんだ――そんなこと、これまでにやったことがないけれど」
ささやくように清春は言った。
「しばらくも間だけでもいい。おれを、きみの隣においてみないか」
佐江は考え込んでから、清春を見上げた。綺麗な目が、明確な拒絶を浮かべていた。
「無理です。あたしたち二人では、ここからどこにも行けないわ」
「きみがここにいるなら、おれは、どこへも行かない」
清春は静かに身体をかがめた。佐江の唇はゆるやかなカーブを描いて清春の手の内にある。
青葉の下のキスは、鮮やかな予感と佐江の戸惑いで輝いていた。
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