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第6章「夜の女王のアリア」

第52話「きみの身体に、おれの子供が宿っていなくて残念だった」

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 煙草とライターを取りに戻ろうかと考えて、首を振った。佐江に見つかる危険をおかしたくない。清春はため息をついて、歩き始めた。
 駅は目の前だが、電車を待って乗り込むのが、ひどくおっくうに感じる。この時間は電車のほうが早く自分のマンションに着けるとわかっていても、清春は車を拾いたくなった。
 車道ぎわに立ってタクシーを待つ。すぐに空車のタクシーがやってきたので、清春は車を止めて乗り込もうとした。
 そのとき、ピリリという鋭い電子音が聞こえた。同時に自分の胸ポケットのなかでスマホが振動しているのも感じる。
 コルヌイエホテルからか?と清春は内ポケットに手をやりつつ、タクシーのドライバーに声をかけた。

「少しだけ、待ってください」

 ポケットからスマホを引き抜いた瞬間、

「キヨさん!」
 という声がした。

 振り返るのと、柔らかくいい匂いのする女の身体が腕の中に飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。

「佐江?」
 清春がそう呼ぶと、佐江は腕をきつくつかんだまま、息を切らせてものも言えない様子だった。デパートから走ってきたのだろう。呼吸を整えることもできずに、ただ息を荒げてしがみついてきた。
 清春はつとめて穏やかな声を出す。

「佐江。落ち着いてまず息を吐けよ」

 パニックになっている女を落ち着かせるには、低く静かな声で話しかけ続けるのが一番いい。清春は声のトーンをキープしたまま、佐江に話しかけ続けた。

「息を吸う前に、吐くんだ。全部吐ききってからゆっくりと息を吸え。そう、それでいい」

 清春の声に従って、佐江は呼吸を整えはじめた。佐江の秀でた額には、かすかに汗がにじんでいた。
 この汗を舐めとりたいと清春が思ったとき、タクシーの運転手が、

「お客さん、どうします?」

清春は、

「すいません、乗れなくなりました」

 と言って、ぐいと腕の中の佐江を抱きなおす。
 タクシーがいってしまう音を聞きながら、さらに強く佐江を抱きしめた。
 このいい匂いのする女を手放す理由は、清春にはどこにも見つからない。

 いつまでも路上で佐江を抱きしめているわけにもいかないので、清春はしぶしぶ身体をはなした。

「少し、歩こうか」

 二人で何も言わずに新宿御苑まで歩いた。御苑の前で、清春はふと中に入ってみたくなった。振り返り、

「きみ、まだ時間は良い?」

 佐江は黙ってうなずいた。

 新宿御苑の入り口近くには、見事なハクモクレンの木が若葉をいっぱいに伸ばしていた。
 おだやかな風の中、緑の葉が静かに揺らぐ。清春はそれを見ながら

「真乃から、手紙を受けとったよ。妊娠、しなかったんだな」

 佐江は軽く目を伏せ、

「そんな気がしていました。お騒がせして、すみません」
 佐江のメモにあった『なにごとも、ありませんでした』と言う文字は、清春の思ったような深刻な意味ではなかったらしい。佐江は文字どおり、妊娠していなかったというだけのことを伝えたかったのだ。

 清春は少しほっとした気持ちで答えた。

「きみのせいじゃないでしょう。騒いだのはおれだ」

 ハクモクレンを見上げる清春は、小刀で削ったような切れ長の目をかすかにそばめた。

「これできみも、安心だね」
「キヨさんもでしょう?」

 ああ、と清春は答えた。そう言う以外に、何が言えるだろうか。

 きみの身体に、おれの子供が宿っていなくて残念だったとでも? 
 
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