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第6章「夜の女王のアリア」
第49話「我を忘れるほど欲しかった女」
しおりを挟むスイートのゲストが乗り遅れたチケットをなんとか別の出発便に振り替えてから、清春はようやく長い息を吐いた。清春だけでなく、レセプション全体が安どのため息をついた。
今日の昼シフトに入っている後輩のアシスタントマネージャー峰(みね)が声をかけてきた。
「井上さん、ありがとうございました」
「礼を言うのは、トラベルデスクに対してでしょう。指示が的確だったので助かりましたね。これからトラベルデスクによって、そのまま上がらせてもらいます」
おだやかに笑って、そのままホテル二階にあるトラベルデスクへまわる。優雅に一礼すると、トラベルデスクのスタッフはにっこり笑った。
「お礼なら井上さんと飲みに行かせてくださいよ。うちのスタッフ全員が、井上さんに興味津々なんですから」
清春は軽く笑って
「そんなものでいいんですか? では、場をセッティングしましょう。皆さん、お目当てはきっとほかのレセプションスタッフですね。生きのいい連中を数人見つくろっておきますよ」
にこやかに話しながら、清春の耳は、時計の音を聞きつけている。
早くしないと、佐江が行ってしまう。
あの仕事が大好きな女は、清春がわずかでも遅れたらあっという間にコルヌイエホテルを出て行ってしまうだろう。猫が後ろ足で砂をかけるようにして。
そして清春はもう二度と、佐江の顔を見られなくなる。
トラベルデスクでの会話を切り上げて、清春は真乃のスイートに向かった。
本来なら、この先はプライベートな時間だ。いつもの清春ならいったん退勤の手続きをしてから行く。だが時間がギリギリだ。
本当は、走っていきたい。
しかし勤務中のホテルマンとして、ゲストや他のスタッフに慌てているところを見られてはならない。清春は、たとえ身体に火がついていてもゲストの目があるところではゆったりと歩くよう訓練されている。だから客室フロアを優雅に見えるギリギリのスピードで歩いていく。
真乃のスイートは十二階だ。そのフロアに入った瞬間から清春の目は佐江を探していた。
ほっそりとした長身の女。シャープなスーツを着て、背筋を伸ばして高雅に歩く美しい女。
清春が、欲しくて欲しくて理性も正気も投げ出している女がどこかにいるはずだ。
しかし真乃が通年借りているスイートルームのドアベルを鳴らしても、何の反応もない。清春はわずかな時間も惜しんで、すぐさまダークスーツの胸ポケットからプラスチックのルームキーを引き抜いた。
開錠し、ドアを開ける。
「佐江?」
スイートの中に入り、清春は佐江を呼んだ。
がらんとした客室には清春の声が響くばかりで、返答がない。清春はムダと知りつつもベッドルームをのぞき、バスルームのドアを開けた。
バスルームのドアを開けた瞬間、ふわりと佐江の使っているトワレの甘い匂いがした。なぜか清春は、この香りをかいだ瞬間に佐江がもうコルヌイエにいない事を了解した。
かすかに息を吐き、スイートのソファに座り込む。
「間に合わなかったか」
座り込んだまま、きれいに整えてある髪に指を突っ込み、くしゃくしゃにする。
腕時計を見ると、もう十時半だ。佐江の勤務時間のことを考えれば、彼女はとっくにコルヌイエを離れていると考えるのが当然だった。
清春が我を忘れるほど欲しかった女は、時間とともに、ためらいもなく彼のもとを離れてしまった。
二回目のため息が終わらないうちに、スイートのドアベルが鳴った。あわててドアに駆け寄って開く。
目の前に、妹の小柄な姿があった。
「——真乃か」
「おあいにくさま、佐江じゃないわよ」
真乃は客室内に入ってきて、ポケットから封筒を取り出した。やや黄色みがかった上質紙の封筒は、コルヌイエホテルのゲストルームに備え付けてあるものだ。
「佐江は時間どおり十時に仕事に出て行ったわ。その時に預かったのよ」
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