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第2章「もう跳ぶまいぞ、この蝶々」

第21話「恋も快楽も、すべて身代わり」

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(Med AhabchaneによるPixabayからの画像 )

 井上清春は、ふだんからあまり寝起きが良くない。今朝も、むっとしたまま目を開けた。
 それから、傍らにいる女の体温に気が付いた。
 清春の胸に頭をつけ、少女のように眠りこけているのは、妹の親友の岡本佐江だ。

 清春は、懸命に記憶を呼びさます。
 昨夜は、駅前の“白楽天”で飲んだ。真乃と洋輔、岡本佐江が一緒で、真乃と洋輔が帰ってから、佐江が泣き出した。そのあとタクシーでコンノードに連れてきて……。

 ああ、コンノードのスイートだ。
 ようやく、清春は自分の今いる場所を理解した。同時に、なぜ腕の中に岡本佐江がいるのかということも、思い出した。

 昨夜の、佐江の見せた可愛らしい媚態が清春を微笑ませる。たとえ昨夜のことが佐江にとっては嘘であっても、清春にとってはまぎれもない現実だった。
 佐江を起こさないように、そっと彼女の髪にキスをする。雨の匂いは残っていなかった。

 音もたてずにベッドから降り、時計を見た。時間は、朝の六時だ。
 どうも三時間ばかり眠ったらしい。
 清春は佐江を起こさないように、バスルームでシャワーを浴び始めた。まずは、この頭を使えるようにせねばならない。

 身体に当たる熱めの湯が、清春の思考回路をまともに動かし始めた。そして昨夜からの行動を時系列で追って行って、清春はあっと小さな叫び声をあげた。

 ——おれはほんとうに、岡本佐江のかたわらで三時間も眠っていたのか?
 これまでのどんな女とも、五分だって一緒に眠れなかったのに。


 シャワーの湯を止めてタオルで乱暴に身体を拭くと、清春はシャツを手に取った。シャツからは、佐江の残り香がふんわりと甘く香った。
 ぎりっと奥歯をかみしめる。


 シャツを着ないままバスルームを出て、リビングに向かった。クローゼットに置いたブリーフケースの中に、着替えとして常に持ち歩いているクリーニング済みのワイシャツが入っている。
 清春は新しいシャツを取り出すと、佐江の香りのするシャツを乱暴にかばんにつっこんだ。

 これを持っている限り、清春は佐江に向かって尻尾を振っている犬のような気分になる。なによりも気に入らないのは、尻尾を振っている自分が幸せそうに見えることだ。
 清春は、舌打ちをした。

 井上清春は、これまで誰に対しても、風下に立たないよう周到に行動してきた。なぜなら、清春はもう二度と、どんなものからも支配されたくないからだ。
 それなのに、岡本佐江に対してはどこかで、従属しても屈服してもいいと思っている。
 あの女の温かい身体を手放さずに済むのなら、どんな代償を払ってもいいと思っているのだ。

 そう思っている自分に、腹が立つ。
 今さら、女の言いなりになってどうする。昨日のことは、なかったことにすればいい。佐江にとっても、決して喜ばしい夜ではなかったはずだ。
 もっとも、彼女の身体は清春が成り代わった真乃に歓んでいたけれど。


 そこまで考えて、ふと清春は手を止めた。


 そうだ、おれには彼女に対して差し出せるものが一つだけある。
 真乃に成り代わってする、セックス。

 佐江があの幻のような悦楽をもう一度味わいたいと思うなら、清春は妹のふりをして、もう一度、佐江の身体を手に入れることができる。


 手に入れることはできるが、それで、いいのか?
 リビングの壁にかかる鏡の向こうから、まだシャツを羽織っただけの清春が、痛いような顔で見つめ返してきた。

 妹の代わり。
 恋も悦楽も、すべて身代わりだとは――。
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