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第1章「ロンリーカナリア」

第8話「——この子が欲しいの、何があっても。でも洋輔は子供なんか欲しくない」

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(Photo by Jill Sauve on Unsplash)

 
 真乃(まの)は、コルヌイエホテルのダブルルームでくったりと座っている。清春は異母妹に向かい、
「——どうするんだ。産むのか?」
 真乃はうつむいた。

「わからない」
「産むか産まないか。今ならまだ、おまえが決められるぞ。産まないつもりなら、洋輔に知られる前に、行動しろ。遅くなればなるほど、やっかいな事になる」
 清春の言葉に、真乃はようやくいつものようにニヤリと笑ってみさえた。

「なんだか、やけにリアルな話ね。キヨちゃん、女を妊娠させたことがあるみたい」
 清春は苦笑して
「あのな、おれが女と寝るときは、妊娠の可能性なんか1%も残さないよ。おれのおふくろは愛人だった。あの人は、望まなかった妊娠のせいで一生を棒に振ったんだ。しかしまあ、人生にはいろいろあるからな。
まずは、おまえの意志が重要だ」

 真乃はようやく身体を起こして、話しはじめた。
「昨日ね、佐江にはもう話したの。彼女は、産んだほうがいいって言ったわ。あたしも28歳だし、この子供をあきらめたらもったいないって。そうね、もし妊娠したのが佐江なら、彼女はきっと産むでしょうよ」

 ”佐江(さえ)”という名前に、清春の耳が反応した。昨日見たばかりの、清廉な岡本佐江の姿が頭に浮かぶ。
 同時に、自分を襲った魔のような激しい欲情がよみがえった。有無を言わさず清春を引き倒したあの欲情は、いったい何だったのか。
 そんなことに関係なく、真乃の話は続く。

「佐江なら、うっかり妊娠なんてしない。そもそも、うっかり男と寝るなんて絶対にしないから。彼女は昔から、自分がやっていることを完璧にコントロールしているのよ。あら、こういうところ、キヨちゃんと佐江は似ているわよ」
 岡本佐江が、男と寝る?
 清春の顔が、はっきりとしかめ面に変わった。
 清春は彼女のことを、誰とも話したくない。たとえそれが、血のつながった妹であっても。
 あるいは、血のつながった妹だからこそ、話したくないのかもしれない。

 清春は、静かに言った。
「真乃、少しでも迷いがあるなら、産むな。生まれてくる子供のことを考えろ。産むってことは、おまえが母親になるってことなんだ」

 こういいながら、清春は自分をあざ笑っている。
 おまえ自身は、父の苗字さえ与えられなかった愛人の子のくせに、何を偉そうに話しているんだ。
 清春は、真乃の小さな頭をぽんぽんとたたいた。

「まあ、いい。洋輔に知られたくないなら、あと一日、おとなしく部屋にこもっていろよ。おれは明日の日勤シフトに入っているから、何かあれば、言え」
 うん、と素直に真乃はうなずいた。そして兄を見上げて
「ねえ、キヨちゃん」
「なんだ?」
「——この子が欲しいの、何があっても」
 ささやくように、真乃はそう言った。

 清春は、思わず目を見開いて妹の小さな身体を見た。
 身のうちに、清春の親友の子供を抱いている妹だ。

「あたしは、この子が欲しいのよ。だって、洋輔の子供なのよ。でも洋輔は、子供が欲しくない。だから、迷うんじゃないの」

 真乃は、そそけだったような表情で、足元の絨毯を眺めていた。
 その表情を見て、清春は簡潔に言った。
「じゃあ、産むんだな」

 真乃の意思が産む方向に向かっている以上、清春に言えることはもうなかった。

「洋輔にばれないように、産めよ。産めば、あとはおれが何とかしてやる」
 清春がそう言うと、真乃はくくくっと苦しげに笑った。

「なんだよ? おれは本気だぞ」
「うん、分かってる。キヨちゃんがまかせろっていう時は、100%たよりにできるって、ことだもん。おかしかったのはね、佐江も同じことを言ったからよ」

 清春は、ようやく笑顔を取り戻した妹の顔を、まじまじと見た。
「——なんだって?」
「だから、佐江も、あたしが子供を産んだら何とかしてくれるって言ったのよ。
ねえ、あなたたち二人、事前に打ち合わせたわけじゃないわよね?
独身ふたりが、いったいどうやってあたしと子供を助けてくれるつもりなのかしら」

 と真乃は言葉を切り、何かから解放されたかのように笑いはじめた。

「ねえ、キヨちゃん。あなたいっそ、佐江と結婚したらどう? あたしと洋輔よりは、よっぽど似合いの夫婦になるわよ」

 清春は、とめどなく笑い続ける妹をみて、うんざりしたように言った。
「もういいよ、おまえは自分のことだけを考えろ。身体を大事にしろよ」
「キヨちゃん、いろいろありがとう」
「おまえは妹だ、仕方がないよ」
「あたしがキヨちゃんなら、こんな妹、助けようなんて思わないわ。キヨちゃん、人が良すぎる」
「おまえに言われたくない」

 すっかり苦い顔になった清春は、ホテルルームを出た。客室のドアを閉めても、まだ、真乃の軽やかな笑い声が聞こえてきた。


★★★
 翌日、清春は午後からのシフトで勤務に入った。
 ホテルマンは時間が不規則だ。慣れないうちは戸惑うが、やがてカレンダーは単なる数字表になり、自分のシフト表だけが生活を支配するようになる。

 清春はダークスーツ姿で、シルバーフレームの眼鏡をなおしながらコルヌイエホテルのロビーに入った。

 レセプションカウンターの中でスタッフを打ち合わせている時、深沢洋輔の華やかな姿がロビーを横切っていくのが見えた。清春は反射的に時計を見た。
 午後四時半、バーテンの洋輔が職場にいて、おかしくない時間だ。

 この時間なら、真乃も用心しているから、ロビーに出てこないはずだ。
 清春がそう思ったとき、あわただしく客用エレベーターに駆け込む真乃の姿を見た。時間を気にした真乃は、とりいそぎ、エレベーターに乗り込んでしまえばいいと思ったらしい。身を隠すこともせず、ただ急いでエレベーターに向かっていた。

 真乃のきゃしゃな身体がエレベーターに消えた瞬間、洋輔がちらりとそちらを見た。そして、わずかな時間だが動きを止めた。
 清春の背中に、イヤな予感が走る。
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