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電話を耳に当て、呼び出し音を聞きながら窓に歩み寄った。
カーテンを開けると、ガラスの向こう側の世界は雪で白く染まっている。眼下に立ち並ぶビル群も、はるか下の地面も、木々も。窓枠に寄るだけで冷気が足元から這いのぼってくる。
室内だというのに白い息の向こう、空には月が出ている。オムライスよりもずいぶんとふっくらした形だけど、満月ではない。下弦の月だとか上限の月だとか、中学の授業で教わったはずの知識はとっくにどこかへ吹き飛んでしまった。そのくせ私は知っているのだ。あれは膨らんでいる途中の月で、明日には満月になるということを。
耳元ではまだ呼び出し音が鳴り続けている。プルル、プルル、回数を重ねる度、少しずつ不安が募る。
――どうかしたのかな。
『もしもし』
ようやく返ってきた反応に幾分安堵しながら、こちらも同じ言葉を返した。
「もしもし」
『佳奈美?』
彼は電話で「もしもし」の次に必ず私の名前を呼ぶ。相手が私だとわかっていても、必ずだ。本人に言ったことはないけど、そのときのまろやかな声がすごく好きだ。
「うん、私。寒いね。そっちはどう?」
窓に触れた息が、すぐに水の粒に変わる。
『こっちも寒いよ。雪は降らなかったけどね』
「そう。よかった」
『そっちの積雪の影響で明日の飛行機が飛ばなかったらどうしようかと思ったけど、大丈夫そうだね』
「うん。ホテルの周りは少し積もってるけど、空港周辺は全然降らなかったって」
『安心した。これ以上離れて過ごすのは御免だ』
電話越しなのに、彼がどんな表情でその言葉を口にしたのかわかる。眉間にうすい皺を刻み、唇を片側だけを持ち上げた器用な表情を浮かべているに違いない。かつては絶対に言葉にしなかったそういう気持ちを、最近はときどき口に出すようになった。
へへ、と思わず小さな笑いが漏れた。
笑いの理由をわかっているらしい彼は、そのことについては何も言わなかった。
『佳奈美の研修はどうだった?』
「有意義だったよ。昔の同僚たちにも会えてよかった。みんな相変わらずだった」
『それはよかった』
「うん。あ、明日の飛行機、最終便だから。そっちにつくのは九時半……十時くらいになると思う」
『わかった。空港に迎えに行けなくてごめん』
彼の声にほんの少し、悔しそうなものが混じっていた。
「……ねぇ?」
『うん?』
「覚えてる? あの日私が言ったこと」
記憶力のよい彼が忘れているはずはない。
だけど、時折こうして問いかける。
かつて口にした気持ちは今でもちっとも変わっていないことを、ちゃんと彼に伝えるために。
『どれのことかな』
「全部」
もう二年も前のことになる。
あの日もたしか、今日みたいに寒かった。
***************
長く一緒にいると、わかってくることがある。
たとえば彼が、同じ病院で働くお医者さんだということ。このところ行き詰まっていた論文が学会までに何とか形になりそうで、心底安堵していること。身長は高いけど、細くてヒョロんとしているせいで職場の仲間たちから「チンアナゴ」と呼ばれていること。
そういったプロフィールはもちろんだけど、それだけじゃない。
寝相が悪いらしく、しょっちゅう首を寝違えること。寝違えた日は、どことなく気分が落ち込んで見えること。
家族のことは、あまり話したがらないこと。
サラダが大好きなこと。フレンチドレッシングはまぁまぁ好きで、胡麻ドレッシングは結構好きで、青じそドレッシングは正義だと思っていて、シーザードレッシングは苦手なこと。
口には出さないけど、動物園があんまり好きじゃないこと。
靴下は家に帰るとすぐに脱ぐ派で、真冬だろうが何だろうが、フローリングの上を裸足でペタペタ歩くのが好きなこと。
上衣をめくると、洋服の繊維がおへその中でモシャモシャしていること。
きっと他の人にとっては取るに足らない、けれど私にとっては大切な、かといって誰かに話すほどのことでもない、彼を構成するたくさんのこと。一緒に過ごしてきた三年間で見つけたそんな欠片たちを、私は宝物みたいに思っている。
ああ、そうそう。
忘れちゃいけないのがあとひとつ。
実はあまり体が強くなくて、月に一度くらい体調を崩して寝込むこと。
「古谷先生。もしかして、体調悪いですか?」
ひょろ長い後ろ姿に声をかけると、廊下を歩いていた彼が振り返った。
「あ、かな……平田さん」
「なんかヨロヨロしてますけど、平気ですか?」
「実は今朝から少し熱っぽくて」
私たちが付き合っていることは皆知っているけど、一応病院内では医師と看護師という立場を守って接するようにしている。
「古谷先生は今日……A勤でしたっけ? 夜勤は入ってないですよね?」
「はい。入ってないです」
「じゃあ、仕事終わったらまっすぐ家に帰って、水分とって暖かくして寝てくださいね」
言いながら、少しめくれている彼の白衣の襟元を直した。
「あ、ありがとう」
彼は素直にお礼を言いながら、私が直しやすいように少し体を屈めてくれる。
「平田さんはB勤ですか」
「そうです。あ、でも今夜は夜勤が。飯田ちゃんの娘さんの具合が悪くて来られなそうだからって代わることになったんです。あっ、ナースコール鳴ってる。それじゃあ失礼します」
体はナースステーションの方に向かいつつ、顔だけ彼の方に向けて早口に言った。
「古谷先生、本当に、ちゃんと休んでくださいよ」
「うん。平田さんも夜勤頑張って」
彼が穏やかに笑んだのを見届けて、足早にナースステーションに向かった。
その夜、娘さんの熱が下がったからと当初の予定通りに出勤してくれた同期の飯田ちゃんのおかげで、私は夜勤をまぬかれた。
さて家に帰ろうかと病院を出て歩き出すが、ふと思い立って彼にメールを送ってみた。
〈具合はどう?〉
B勤は二十時まで。A勤の彼は十八時で上がっているから、もう眠っている頃合いだろうとは思っていた。
彼は体調を崩してもぐっすり眠れば一晩で治るタイプらしく、たいてい翌日の朝には元気になっている。それに医者という職業ゆえなのか、人に看病されるのが好きではないらしいのだ。体調が悪いと聞くたびに看病を申し出るのだけど、その申し出が受け入れられたことは一度もなく、最近では申し出ることもなくなっていた。
だけど。
昼間の顔色は、いつもよりひどかったような気がする。いつもよりゲッソリしていたような気もする。ただでさえチンアナゴみたいに細いのに、あれがイトミミズみたいになったらどうしよう。
心配し始めたら、私の体のどこか奥底に眠っていたらしい母性のようなものが暴走を始めた。暴走したのは母性ではなく、つい最近ネット記事で読んだ「尽くす系彼女」というものへの憧れだったような気もする。
暴走に任せ、家路とは反対向きの電車に乗り込んだ。
彼の家にたどり着くまでに返信が来ることを期待していたけど、返信はなかった。
合鍵を持たない私は、彼が開けてくれない限り部屋に入ることができない。
尽くす系彼女、万事休す。と思いながらドアノブに手をかけたら、予想に反してドアノブがぐるりと回った。開いている。
もう一度言うが、鍵が開いていたのだ。
言うなれば万人ウェルカム状態である。つまり私も。
というわけで、ドアノブを回し、少しだけお邪魔することにした。
そーっと開け、中をのぞき込む。部屋の中は真っ暗だ。
「圭吾さん?」
声をかけてみたけど、返事はない。
ただ、なんとなく人の気配のようなものは感じた。
かろうじて廊下から差し込むわずかな明かりを頼りに玄関に足を踏み入れ、スイッチパネルを手で探って電気をつけた。
悲鳴を上げたかった。
上がらなかった。
人間というのは本気で驚くと声を失うらしい。
目の前に横たわっていたのだ。
キリンが。
正確には、キリンの頭部が。
「……キリン」
思わず独り言が漏れた。
「……キリン……?」
中国の伝説の生き物の麒麟ではなくて、ジラーフの方のキリンだ。まごうことなきキリンだ。
キリンが横たわっている。さして広くもないアパートの一室、長い足を窮屈そうに折りたたんで長い首を玄関まで伸ばして、横たわっている。
キリンは目を閉じていたけど、口が半開きで黒い舌が少しはみ出していた。
「キリン」
彼の家に来たはずだった。
キリンに遭遇するのは割と想定外だった。
キリンの頭の横をそっと通り抜け、長い首の横を歩いて廊下を抜け、大きな胴体が横たわる居室へ。そしてベッドを見た。
いない。
彼はいない。キリンがいる。
仮説が浮かんだ。
キリンが彼を食べた。
キリンは草食だと思っていたけど、肉食のキリンもいるのだろうか。この長い首の中を、肉の塊が落ちていくことなんてありうるだろうか。
私は一介のナースで、決してキリンの専門家ではないが、ダーウィンによればキリンは高いところの草を食べたくて首を伸ばしたんだった気がする。
決して、高いところの肉を食べたかったわけではないはずだ。というか、木に肉は成らない。
思考が「尽くす系彼女」への憧れよりもずっと厄介な暴走を始めたので、原点に立ち返って考えてみることにした。
――なぜここにキリンがいるのだろうか。
「ハァッ」
根本的な疑問に行き当たったところで、キリンの頭の方、すなわち玄関付近からため息のようなものが聞こえ、飛び上がった。目を覚ましたかと思ったけれど、キリンが起き上がる気配はなかった。
スパイよろしく壁に背を張り付けて息を殺し、忍び足でそちらに向かう。
と、今度は目が開いていた。
「あ」
長いまつ毛に縁どられた大きくて黒々しい目。
人間の目と違って白目の部分が見えない。
だからちっとも同じじゃないのに、それを見た瞬間に口に出していた。
「圭吾さんだ」
キリンが彼を食べたのではない。彼がキリンになったのだ。
説明はつかないけれど、そう思った。思ったというか、確信があった。このキリンは間違いなく彼だ。
目は潤んでいて、私を見てはいないようだった。ちょうど、熱に浮かされた患者さんが一瞬苦し気に目を開けたときのようだ。目の前で手を大きくぶんぶんと振ってみたけど反応はない。代わりにまつ毛の先にそっと触れると、目を閉じた。
ワンルームのマンション。玄関を入ると短い廊下兼台所があって、左手にはユニットバス。正面のドアを抜けたところが居室だ。
そんな小さな空間にまるで不釣り合いの大きな動物。
それが自分の彼氏だとわかったら、普通はどんな反応をするのだろうか。
いや、自信を持って言える。
これがその、普通の反応だ。
私はとりたてて度胸のある方ではないし、かといって極度の怖がりというわけでもない。頭の回転がものすごく早くもなければ、どんくさいわけでもない。順応力は人並みだ。
つまり、普通。
普通の人間は、彼氏がキリンだとわかったら、とりあえずその場に座り込むらしい。腰を抜かしているともいえるかもしれない。
壁を背にずるずると床に崩れ、キリンの顔の横に座り込んだ。そして、キリンもとい彼を観察する。
キリンは立ったまま寝るようなイメージがあったけれど、普通に横たわることもあるらしい。彼は顔を横向きにしていた。なんとなく、寝にくそうな姿勢だ。それこそ、首を寝違えそうな。
ハッとした。
彼が寝違えるのは決まって、体調が悪いと言っていた日だ。
つまり、体調が悪いとキリンになる?
いや、もしかすると、彼はもともとキリンなのかもしれない。元はキリンで、何かの力で人間の姿になっているけれど、熱が出るとその力を失ってキリンに戻ってしまうのかもしれない。
キリン型の人間なのか、人間型のキリンなのか、どちらなのか真剣に考えてみようと思ったりもしたけれど、「カレー味のうんことうんこ味のカレー、食べるならどっち」並の難問だったので、すぐに諦めた。
しばらく座り込んだまま過ごしていると、ときどき彼がさっきみたいに苦し気に息を吐いた。
具合が悪そうだ。
人間の形なら世話の焼きようもあるが、キリン型だと何をすればよいのかわからない。
なんとなく耳の後ろに手を当てて熱を測ろうとしてみたけれど、すぐにキリンの平熱を知らないことに気付いた。実家で飼っていたウサギは人よりも平熱が高かった。キリンもそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。熱があるときに冷やしてよいものかもわからない。
幾分落ち着いてきた頭を整理しつつ、熱を出したキリンの世話の方法なるものをググッてみたけれど、求めているような答えは出てこなかった。
「圭吾さん」
苦しそうな息を吐く彼に話しかけながら、おそるおそる額に触れてみた。
不思議なことに、名前を口にしながら触れていると、その存在が徐々にしっくりと私の中に馴染んできた。
毛はウサギみたいにふわふわとはしていなくて、短くて硬い。キリンといえば黄色にこげ茶色のブチだと思っていたけれど、どちらかというと白に近い薄い薄い黄色だった。でこっぱちな額の先には角が二本。反対側にたどって降りていくと、鼻の穴が二つ。上唇が少し長くてベロンとしている。
「チンアナゴじゃなくてキリンだったのか」
妙な感慨のようなものに襲われながら、彼の額から鼻先を何度か撫でさする。
彼が、ぶるるる、と大きな鼻息のようなものを漏らした。
気持ちいいのだろうか。気持ちいいのだといいな。
看護師という職業柄なのか、喜ばれるとうれしくなる。うれしくなると途端に力が湧いて、何か彼のためにできることはないかと前向きな考えが浮かんだ。
立ち上がり、彼を踏んづけてしまわないように慎重に歩いて体の方に向かう。
一応、後ろ足の間を確認した。ちょっとだけ興味があった。キリンになっても性別は変わらないらしかった。喜ばしいのか何なのか、よくわからない感動のようなものを覚えたけれど、すぐに罪悪感に取って代わった。自分の心が案外汚れていることにがっかりする。
先ほどは動揺のせいか目に入らなかったけれど、ベッドの上には昼間彼が着ていた服が丁寧に畳んで置かれていた。具合が悪い中ヨロヨロとここへ帰ってきて、服をきちんと脱いで畳む。その几帳面さに感服した。
それからしばらくウロウロと体の周りを歩き回ったものの、私にできることは何もなさそうだった。
尻尾の先のフサフサしたところをひと撫でしてみたいという軽い衝動に駆られたけど、やめておいた。尻尾を触られて喜ぶ動物にはあまり出会ったことがない。代わりに首の後ろ側に生えているたてがみをほんの少しだけ触らせてもらった。やっぱり毛は硬めだ。
それから前足を持ち上げて足の間に入り込んでみた。彼に抱きしめられている感を演出しようとしたのだけど、思った以上に足が重くて苦しかったので、すぐに這い出した。
今度はお腹にもたれかかってみた。
うん、これは悪くない。
朝になってもキリンで、朝になっても具合が悪そうだったら獣医さんを呼ぼうか。
状況をどう説明すれば、怪しく聞こえないだろうか。
彼氏の家に遊びに来たら具合の悪そうなキリンが転がっていたというのは、やはり怪しいのだろうか。
どう考えてもめちゃくちゃ怪しい。
彼氏の家にキリンを連れて遊びに来たらキリンの具合が悪くなって転がったという方が自然だ。
いや、それよりも彼氏がキリンを飼っていて、そこに遊びに来たらキリンが転がっていたという方がよりナチュラルだろうか。飼い主の彼氏がどこへ消えたのかという質問にうまく答えられれば、だけど。
彼のお腹が、呼吸に合わせて大きく上下する。
鼓動も聞こえる。
その呼吸や鼓動に寄り添っていたら、ゆるやかな眠気が襲ってきた。
今日は普段にも増してハードな一日だったのだ。一週間ほど前に飯田ちゃんの娘さんの具合が悪くなってからというもの、夜勤と日勤のリズムが不規則で寝不足だったし。
大きな欠伸をして、目尻に浮かんだ涙をぬぐう。
明日のことは明日になったら考えよう。だから今は、この大きくて暖かい動物にもたれかかって少し眠ろう、そう思った。
少しでなく随分長い時間眠ってしまったことに気付いたのは、カーテンの外がすっかり明るくなっていたおかげだった。まぶしさに目を細め、ようやく慣れてきた目を凝らす。
眠る前に抱いていた危惧は現実のものとはならず、視界にあるのはチンアナゴの背中だった。つまり、人間の。
「圭吾さん」
彼がかけてくれたらしい毛布を肩に巻き付けながら上体を起こし、彼に声を掛ける。
床で眠ってしまったせいか、肩と首が痛い。今なら、首を寝違えた日に沈んでいる彼の気持ちがよくわかる。
「いつから、ここに……?」
彼はゆっくりと振り向きながら言った。
探るような視線が心地悪かったので、早めにぶっちゃけることにした。
「キリンさんに会ったかどうかを聞いてるなら、会った」
ついうっかり出来心で後ろ足の間を確認してしまったことは黙っておくことにした。
彼は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。ちゃんと服を着ている。
「あの、勝手に入ってごめんね?」
「それはいいんだ」
「『いい』って感じじゃないけど」
「……どうして俺は鍵をかけ忘れたんだ。佳奈美には知られたくなかった」
その言葉をどう受け止めればいいのかわからなかった。
「私は、圭吾さんの秘密を知るに値しない人間だということ?」
「ちがうっ」
顔をあげてこちらを見つめる彼の眼は充血していた。
キリンの目とは、形も大きさも全然違う。
彼は別段キリン顔というわけでもない。
それなのに、やはり、昨晩見た瞳だった。
「それじゃ、どうして?」
「佳奈美を……佳奈美だけは、失いたくなかったからだ」
「失うの? どうして?」
「……失わないのか? それこそ、どうして?」
彼の瞳に浮かぶ絶望感みたいなものが少し和らいだ。
私はよっこらせと立ち上がって、彼の方へ歩み寄る。
「圭吾さんは、私が実はチンパンジーだって言ったら、私のことは愛せない?」
「え?」
「人型をしてるけど、実はチンパンジーだって言ったら?」
「佳奈美は人間だ」
「鏡を見て。圭吾さん」
言いながら、ユニットバスのドアを開けた。
トイレと洗面所とお風呂をひとところに詰め込んだ小さな空間。
曇った鏡が彼と私を映している。
「何が見える?」
「佳奈美と、俺」
「チンパンジーとキリンじゃないでしょう?」
「俺はキリンになる」
「でも、圭吾さんは圭吾さんでしょう? それなら問題ないよ」
答えを用意していたわけではなかった。
ただ、すらすらと言葉が出た。
たぶんそれは、まぎれもない本心だった。
「……ときどき、キリンになるとしても?」
「ときどき、なの?」
「満月の夜に」
ああ、なるほど。
随分前に狼人間の映画を見たことがあるけれど、狼人間は満月が近づくと体調を崩していた。
彼が月に一度体調を崩すのは、月に一度キリンになっていたからなのか。
看病を申し出ても断られていたのは、キリンを見られたくなかったからか。
そんなときに決まって一晩連絡を取れなくなるのは、キリンになっていたからだったのか。
彼が毎年、月の満ち欠けの載っているムーンカレンダーを買うのはそのせいか。
納得のほうが大きくて、巨大な謎はそっちのけだった。
「……佳奈美、聞かないの?」
「何を?」
「どうしてキリンになるのか」
「あっ」
狼人間がどうして狼人間になるか、私は知っている。
スパイダーマンがどうして蜘蛛人間になったのかも、私は知っている。
「キリンに噛まれたんでしょう」
正解を確信してドヤ顔で言ったけど、彼は首を横に振った。
「いや。噛まれたことはない。わからないんだ」
「じゃあ、『どうして』って聞いてもしょうがないじゃない」
「それでも、普通は知りたがるものだろうと思って。現に俺も、知りたくてたまらなかったし」
廊下に突っ立ったまま話をしていることに気付いて、彼の手を取った。ぴくりと彼の肩が動いたけど、拒まれはしなかった。
黙って彼の手を引き、並んでベッドに腰掛ける。
彼が何を話しだそうとしているのかわからなかったけれど、これから彼の秘密が語られるのかもしれないと思うと、恐怖みたいなものは全然なくて、むしろワクワク感すらあった。はじめて彼のおへそにたまった洋服の繊維を見つけたときみたいな、不思議な感覚だ。
「初めてキリンになったのは中学のときだ」
彼はぼそぼそと話し始めた。
我らがチンアナゴ先生は、患者さんへの説明が明朗でわかりやすいと評判なのに。
「突然?」
「そう。突然。そのときはキリンになっている自覚はなかったけどね。部屋で宿題をしてた。気付いたら朝だった。首がものすごく痛くて、机の上にあったものが床に散乱していた。解き終わったはずのプリントが、数枚なくなっていた」
「キリンになってるときは、人間の意識はないの?」
彼は頭を深く深く垂れた。
「そうみたいだ。何も覚えてない。最初は寝ている間に暴れてるのかと思ったけど、毎月のように起こるので不思議に思っていた。たしか五度目くらいだったかな。弟が夜中に俺の部屋でキリンを見つけた」
家族も、私みたいに座り込んだだろうか。
握ったままになっていた手に、彼がぐっと力を込めた。
「大騒ぎだったよ」
口調が苦しそうだったから、私は彼の顔を覗き込んだ。
家族みんなが実はキリンで、「ようこそ、めくるめくキリンの世界へ!」とならなかったことだけは、彼の表情から見て取れた。
「いいよ。話したくなかったら」
「その……何て言えばいいのか、うちは……古い一族で」
「つまり、お金持ちってこと?」
「まぁ、うん。地主というか、そんな感じの。そんな家に化け物が生まれたことを両親は恥じた。弟も怯えてた」
「化け物? キリンが? 動物園の人気者なのに」
問いながら、彼がどうして動物園に行きたがらないのか分かった気がした。
そして彼がさきほど、『佳奈美だけは失いたくなかった』と言った意味も。
他の人を失った経験があるということだ。
「少なくとも、家族の中で俺が人気者になることはなかったな。数日後には、俺の引っ越しが決まってた」
「圭吾さんだけ?」
「うん。母方の遠縁のおじいさんの家にね。遠い田舎に住んでる偏屈な老人で、一族からつまはじきにされているような人だった」
「そう」
それ以外になんと言っていいのかわからなかった。
「一緒に暮らしてたっていっても、ほとんどまともに口をきいたことはなかった。保護者面談とかでどうしても必要な時だけ来てくれた。それ以外は、親のサインが必要な書類にも全部自分でサインをした。おじいさんとは食事のときに顔を合わせるだけだった。高校を卒業してその家を出てから一度も連絡を取ることなく、数年前に亡くなった」
言葉が見つからないから、相槌は少し荒めの鼻息になった。
「家族のもとを追い出されるときにまとまった金額の入った通帳を持たされていたから、その金で医学部に進学した。自分のこれが病気だとしたら、治したかったから。でも、今までのところ、なにもわかってない。染色体の数が普通の人間よりも一つ多いこと以外はね。ただ、医者になってよかったこともある。睡眠薬を手に入れやすくなったから、夜が来る前に薬を飲んで寝てしまうんだ。そうしたら、寝ている間にキリンが何かをしでかすことはない」
「そっか」
「驚かないの?」
「どこに?」
「どこだろう。俺にもよくわからないけど」
「その環境で医学部に合格した精神力と才能には驚いてる。それに、自分を見失わなかったことにもね」
病院にはいろんな人が来る。
入院しても誰もお見舞いに来ない人も少なくない。そんな人は決まってどこか寂しそうで、中には自棄になっている人もいる。用事もないのにナースコールを連打して、わがままを言ったりする。
彼にはそういう、ひねくれたところが少しもなかった。
いや、私に見えていなかっただけなのかもしれない。長いこと一緒にいて、彼をわかっているつもりになっていただけで。
「さみしい?」
問いかけると、彼が顔を上げた。濡れたような黒い瞳がこちらをじっと見つめている。
昨晩のキリンと同じ瞳を見ていたら、ふいに、そんなことはどうでもよいのだと気づいた。
「そうじゃない。ちがう。ちがうの。圭吾さんが一人で寂しくなかったとしても、私は圭吾さんがいないと寂しい。だから、これからも傍にいてもいい?」
私を見つめる黒い瞳が揺れる。
「ねぇ圭吾さん、いいでしょう?」
「……月一でキリンになるのに?」
「私も月一でライオンになるよ」
月のものがやってくると決まって機嫌が悪くなる私は、家族にその様子を「ライオン」と言われたことがある。彼にもその話をしたことがあったから、彼はすぐに微笑んだ。
「そうだったね」
こらえきれなかったみたいに、フ、という笑いが混じっていた。
「……笑った」
「え?」
「やっと笑った。よかった」
彼がずっと険しい顔をしていたのがほどけて、嬉しくて仕方なかった。
彼を励ますとか慰めるとか元気づけるとか、やらなくちゃいけないことは山ほどあったはずなのに、私のほうが泣き出してしまった。彼の胴にしがみついて。
「キリンの胴体は大きくてね、寄りかかって寝るにはちょうど良かったけど、腕を巻き付けるにはちょっと大きすぎたの」
おいおい泣いている背中を、彼が撫でてくれた。
いつまでも、いつまでも。
とびっきり優しい私のキリン。
それから何度か彼のキリンと私のライオンが通り過ぎていった。
そして迎えた春、私と彼は連れ立って、彼が中学高校時代を過ごした田舎の村を訪れた。緑の豊かなきれいな村だった。
「おじさんが亡くなったこと、しばらく知らされていなくて、一か月も経ってから手紙が届いたんだ。手続きは全部近所の人がしてくれるから、俺は何もしなくていいとも書いてあった」
どんな顔をして聞けばよいのかわからないことを、どんな顔をして話せばよいのかわからないらしい彼が淡々と口にする。
彼の住んでいた家は古くて木造で、前には広い広い田んぼと畑が広がっていた。そして、裏には山があった。
青い空と、豊かな緑と。心洗われるようなこの風景を、彼はどんな気持ちで眺めているのか。
「あれ、お前さん」
大自然の中に二人で突っ立っていたら、畑のわきの小さな道から、しわがれた声が飛んできた。
「玄さんとこの子だろ」
玄さんというのが、亡くなった彼の遠縁のおじいさんのことなのだろう。
彼は固まっていた。
「あんたに手紙出したの、あたしだよ。玄さんから頼まれてたんだ。お医者さんになる試験が近いはずだから、死んでもすぐには言うなって言われててね。本当は三か月くらい経ってから言えってことだったけど、さすがにと思ってね。一か月後に出した。立派になったね。よかった」
つないだ手が、固く握られる。
「玄さんは具合悪くなっても病院になかなか行かなくてね。金がないなら山を売ったらいいのにって何度言っても、絶対に首を縦に振らないんだ。『この山は売らない。家も売らない』って。『あいつの帰ってくるところだから』ってさ」
手を、握り返した。
声をかけてきたおばあさんは、空を見上げて目を細めた。
「これはひと雨くるよ。家に入ったほうがいい」
預言者みたいなおばあさんと別れて少しすると、ぽつぽつと水滴が地面を打つ音がした。
雨だと思ったけど、彼の涙だった。
「不器用だったのかな」
中学生の彼も。その、玄さんも。
その春をきっかけに、私たちはほどなくして村に移り住んだ。村唯一の小さな診療所が後継者不在のために閉鎖されると聞き、その場所を継ぐことになったのだ。
毎月首を痛めていた彼は、今は満月の夜を裏山で過ごすようになった。キリンの間は人間の意識を失っているらしい彼だけど、山にいると嬉しそうに見える。葉っぱをもしゃもしゃと食んだり、首を木にこすりつけたり。少なくとも、アパートの一室で転がっているよりは、随分と健康によさそうだ。
そして、私も。キリンになった彼と一緒に山に入る。キリンの彼は山に夢中で私にそれほど注意を払うことはないけれど、追い払おうともしない。
キリンと私。
それはそれで、不思議な友情のようなものが出来上がっている。
***************
「そろそろ寝ようか」
明日には会えるというのに、すっかり話し込んでしまった。
話しながら無意識に指で描いたキリンの落書きが窓に浮き上がっている。
『そうだな』
「明日は満月だね」
『うん』
「帰ったら……裏山に会いに行くね」
『うん』
クスクス、小さな笑い声が聞こえた。
「どうしたの?」
『いや……』
彼はいったん言葉を切って、ゆっくりと言った。
『首を長くして待ってる』
カーテンを開けると、ガラスの向こう側の世界は雪で白く染まっている。眼下に立ち並ぶビル群も、はるか下の地面も、木々も。窓枠に寄るだけで冷気が足元から這いのぼってくる。
室内だというのに白い息の向こう、空には月が出ている。オムライスよりもずいぶんとふっくらした形だけど、満月ではない。下弦の月だとか上限の月だとか、中学の授業で教わったはずの知識はとっくにどこかへ吹き飛んでしまった。そのくせ私は知っているのだ。あれは膨らんでいる途中の月で、明日には満月になるということを。
耳元ではまだ呼び出し音が鳴り続けている。プルル、プルル、回数を重ねる度、少しずつ不安が募る。
――どうかしたのかな。
『もしもし』
ようやく返ってきた反応に幾分安堵しながら、こちらも同じ言葉を返した。
「もしもし」
『佳奈美?』
彼は電話で「もしもし」の次に必ず私の名前を呼ぶ。相手が私だとわかっていても、必ずだ。本人に言ったことはないけど、そのときのまろやかな声がすごく好きだ。
「うん、私。寒いね。そっちはどう?」
窓に触れた息が、すぐに水の粒に変わる。
『こっちも寒いよ。雪は降らなかったけどね』
「そう。よかった」
『そっちの積雪の影響で明日の飛行機が飛ばなかったらどうしようかと思ったけど、大丈夫そうだね』
「うん。ホテルの周りは少し積もってるけど、空港周辺は全然降らなかったって」
『安心した。これ以上離れて過ごすのは御免だ』
電話越しなのに、彼がどんな表情でその言葉を口にしたのかわかる。眉間にうすい皺を刻み、唇を片側だけを持ち上げた器用な表情を浮かべているに違いない。かつては絶対に言葉にしなかったそういう気持ちを、最近はときどき口に出すようになった。
へへ、と思わず小さな笑いが漏れた。
笑いの理由をわかっているらしい彼は、そのことについては何も言わなかった。
『佳奈美の研修はどうだった?』
「有意義だったよ。昔の同僚たちにも会えてよかった。みんな相変わらずだった」
『それはよかった』
「うん。あ、明日の飛行機、最終便だから。そっちにつくのは九時半……十時くらいになると思う」
『わかった。空港に迎えに行けなくてごめん』
彼の声にほんの少し、悔しそうなものが混じっていた。
「……ねぇ?」
『うん?』
「覚えてる? あの日私が言ったこと」
記憶力のよい彼が忘れているはずはない。
だけど、時折こうして問いかける。
かつて口にした気持ちは今でもちっとも変わっていないことを、ちゃんと彼に伝えるために。
『どれのことかな』
「全部」
もう二年も前のことになる。
あの日もたしか、今日みたいに寒かった。
***************
長く一緒にいると、わかってくることがある。
たとえば彼が、同じ病院で働くお医者さんだということ。このところ行き詰まっていた論文が学会までに何とか形になりそうで、心底安堵していること。身長は高いけど、細くてヒョロんとしているせいで職場の仲間たちから「チンアナゴ」と呼ばれていること。
そういったプロフィールはもちろんだけど、それだけじゃない。
寝相が悪いらしく、しょっちゅう首を寝違えること。寝違えた日は、どことなく気分が落ち込んで見えること。
家族のことは、あまり話したがらないこと。
サラダが大好きなこと。フレンチドレッシングはまぁまぁ好きで、胡麻ドレッシングは結構好きで、青じそドレッシングは正義だと思っていて、シーザードレッシングは苦手なこと。
口には出さないけど、動物園があんまり好きじゃないこと。
靴下は家に帰るとすぐに脱ぐ派で、真冬だろうが何だろうが、フローリングの上を裸足でペタペタ歩くのが好きなこと。
上衣をめくると、洋服の繊維がおへその中でモシャモシャしていること。
きっと他の人にとっては取るに足らない、けれど私にとっては大切な、かといって誰かに話すほどのことでもない、彼を構成するたくさんのこと。一緒に過ごしてきた三年間で見つけたそんな欠片たちを、私は宝物みたいに思っている。
ああ、そうそう。
忘れちゃいけないのがあとひとつ。
実はあまり体が強くなくて、月に一度くらい体調を崩して寝込むこと。
「古谷先生。もしかして、体調悪いですか?」
ひょろ長い後ろ姿に声をかけると、廊下を歩いていた彼が振り返った。
「あ、かな……平田さん」
「なんかヨロヨロしてますけど、平気ですか?」
「実は今朝から少し熱っぽくて」
私たちが付き合っていることは皆知っているけど、一応病院内では医師と看護師という立場を守って接するようにしている。
「古谷先生は今日……A勤でしたっけ? 夜勤は入ってないですよね?」
「はい。入ってないです」
「じゃあ、仕事終わったらまっすぐ家に帰って、水分とって暖かくして寝てくださいね」
言いながら、少しめくれている彼の白衣の襟元を直した。
「あ、ありがとう」
彼は素直にお礼を言いながら、私が直しやすいように少し体を屈めてくれる。
「平田さんはB勤ですか」
「そうです。あ、でも今夜は夜勤が。飯田ちゃんの娘さんの具合が悪くて来られなそうだからって代わることになったんです。あっ、ナースコール鳴ってる。それじゃあ失礼します」
体はナースステーションの方に向かいつつ、顔だけ彼の方に向けて早口に言った。
「古谷先生、本当に、ちゃんと休んでくださいよ」
「うん。平田さんも夜勤頑張って」
彼が穏やかに笑んだのを見届けて、足早にナースステーションに向かった。
その夜、娘さんの熱が下がったからと当初の予定通りに出勤してくれた同期の飯田ちゃんのおかげで、私は夜勤をまぬかれた。
さて家に帰ろうかと病院を出て歩き出すが、ふと思い立って彼にメールを送ってみた。
〈具合はどう?〉
B勤は二十時まで。A勤の彼は十八時で上がっているから、もう眠っている頃合いだろうとは思っていた。
彼は体調を崩してもぐっすり眠れば一晩で治るタイプらしく、たいてい翌日の朝には元気になっている。それに医者という職業ゆえなのか、人に看病されるのが好きではないらしいのだ。体調が悪いと聞くたびに看病を申し出るのだけど、その申し出が受け入れられたことは一度もなく、最近では申し出ることもなくなっていた。
だけど。
昼間の顔色は、いつもよりひどかったような気がする。いつもよりゲッソリしていたような気もする。ただでさえチンアナゴみたいに細いのに、あれがイトミミズみたいになったらどうしよう。
心配し始めたら、私の体のどこか奥底に眠っていたらしい母性のようなものが暴走を始めた。暴走したのは母性ではなく、つい最近ネット記事で読んだ「尽くす系彼女」というものへの憧れだったような気もする。
暴走に任せ、家路とは反対向きの電車に乗り込んだ。
彼の家にたどり着くまでに返信が来ることを期待していたけど、返信はなかった。
合鍵を持たない私は、彼が開けてくれない限り部屋に入ることができない。
尽くす系彼女、万事休す。と思いながらドアノブに手をかけたら、予想に反してドアノブがぐるりと回った。開いている。
もう一度言うが、鍵が開いていたのだ。
言うなれば万人ウェルカム状態である。つまり私も。
というわけで、ドアノブを回し、少しだけお邪魔することにした。
そーっと開け、中をのぞき込む。部屋の中は真っ暗だ。
「圭吾さん?」
声をかけてみたけど、返事はない。
ただ、なんとなく人の気配のようなものは感じた。
かろうじて廊下から差し込むわずかな明かりを頼りに玄関に足を踏み入れ、スイッチパネルを手で探って電気をつけた。
悲鳴を上げたかった。
上がらなかった。
人間というのは本気で驚くと声を失うらしい。
目の前に横たわっていたのだ。
キリンが。
正確には、キリンの頭部が。
「……キリン」
思わず独り言が漏れた。
「……キリン……?」
中国の伝説の生き物の麒麟ではなくて、ジラーフの方のキリンだ。まごうことなきキリンだ。
キリンが横たわっている。さして広くもないアパートの一室、長い足を窮屈そうに折りたたんで長い首を玄関まで伸ばして、横たわっている。
キリンは目を閉じていたけど、口が半開きで黒い舌が少しはみ出していた。
「キリン」
彼の家に来たはずだった。
キリンに遭遇するのは割と想定外だった。
キリンの頭の横をそっと通り抜け、長い首の横を歩いて廊下を抜け、大きな胴体が横たわる居室へ。そしてベッドを見た。
いない。
彼はいない。キリンがいる。
仮説が浮かんだ。
キリンが彼を食べた。
キリンは草食だと思っていたけど、肉食のキリンもいるのだろうか。この長い首の中を、肉の塊が落ちていくことなんてありうるだろうか。
私は一介のナースで、決してキリンの専門家ではないが、ダーウィンによればキリンは高いところの草を食べたくて首を伸ばしたんだった気がする。
決して、高いところの肉を食べたかったわけではないはずだ。というか、木に肉は成らない。
思考が「尽くす系彼女」への憧れよりもずっと厄介な暴走を始めたので、原点に立ち返って考えてみることにした。
――なぜここにキリンがいるのだろうか。
「ハァッ」
根本的な疑問に行き当たったところで、キリンの頭の方、すなわち玄関付近からため息のようなものが聞こえ、飛び上がった。目を覚ましたかと思ったけれど、キリンが起き上がる気配はなかった。
スパイよろしく壁に背を張り付けて息を殺し、忍び足でそちらに向かう。
と、今度は目が開いていた。
「あ」
長いまつ毛に縁どられた大きくて黒々しい目。
人間の目と違って白目の部分が見えない。
だからちっとも同じじゃないのに、それを見た瞬間に口に出していた。
「圭吾さんだ」
キリンが彼を食べたのではない。彼がキリンになったのだ。
説明はつかないけれど、そう思った。思ったというか、確信があった。このキリンは間違いなく彼だ。
目は潤んでいて、私を見てはいないようだった。ちょうど、熱に浮かされた患者さんが一瞬苦し気に目を開けたときのようだ。目の前で手を大きくぶんぶんと振ってみたけど反応はない。代わりにまつ毛の先にそっと触れると、目を閉じた。
ワンルームのマンション。玄関を入ると短い廊下兼台所があって、左手にはユニットバス。正面のドアを抜けたところが居室だ。
そんな小さな空間にまるで不釣り合いの大きな動物。
それが自分の彼氏だとわかったら、普通はどんな反応をするのだろうか。
いや、自信を持って言える。
これがその、普通の反応だ。
私はとりたてて度胸のある方ではないし、かといって極度の怖がりというわけでもない。頭の回転がものすごく早くもなければ、どんくさいわけでもない。順応力は人並みだ。
つまり、普通。
普通の人間は、彼氏がキリンだとわかったら、とりあえずその場に座り込むらしい。腰を抜かしているともいえるかもしれない。
壁を背にずるずると床に崩れ、キリンの顔の横に座り込んだ。そして、キリンもとい彼を観察する。
キリンは立ったまま寝るようなイメージがあったけれど、普通に横たわることもあるらしい。彼は顔を横向きにしていた。なんとなく、寝にくそうな姿勢だ。それこそ、首を寝違えそうな。
ハッとした。
彼が寝違えるのは決まって、体調が悪いと言っていた日だ。
つまり、体調が悪いとキリンになる?
いや、もしかすると、彼はもともとキリンなのかもしれない。元はキリンで、何かの力で人間の姿になっているけれど、熱が出るとその力を失ってキリンに戻ってしまうのかもしれない。
キリン型の人間なのか、人間型のキリンなのか、どちらなのか真剣に考えてみようと思ったりもしたけれど、「カレー味のうんことうんこ味のカレー、食べるならどっち」並の難問だったので、すぐに諦めた。
しばらく座り込んだまま過ごしていると、ときどき彼がさっきみたいに苦し気に息を吐いた。
具合が悪そうだ。
人間の形なら世話の焼きようもあるが、キリン型だと何をすればよいのかわからない。
なんとなく耳の後ろに手を当てて熱を測ろうとしてみたけれど、すぐにキリンの平熱を知らないことに気付いた。実家で飼っていたウサギは人よりも平熱が高かった。キリンもそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。熱があるときに冷やしてよいものかもわからない。
幾分落ち着いてきた頭を整理しつつ、熱を出したキリンの世話の方法なるものをググッてみたけれど、求めているような答えは出てこなかった。
「圭吾さん」
苦しそうな息を吐く彼に話しかけながら、おそるおそる額に触れてみた。
不思議なことに、名前を口にしながら触れていると、その存在が徐々にしっくりと私の中に馴染んできた。
毛はウサギみたいにふわふわとはしていなくて、短くて硬い。キリンといえば黄色にこげ茶色のブチだと思っていたけれど、どちらかというと白に近い薄い薄い黄色だった。でこっぱちな額の先には角が二本。反対側にたどって降りていくと、鼻の穴が二つ。上唇が少し長くてベロンとしている。
「チンアナゴじゃなくてキリンだったのか」
妙な感慨のようなものに襲われながら、彼の額から鼻先を何度か撫でさする。
彼が、ぶるるる、と大きな鼻息のようなものを漏らした。
気持ちいいのだろうか。気持ちいいのだといいな。
看護師という職業柄なのか、喜ばれるとうれしくなる。うれしくなると途端に力が湧いて、何か彼のためにできることはないかと前向きな考えが浮かんだ。
立ち上がり、彼を踏んづけてしまわないように慎重に歩いて体の方に向かう。
一応、後ろ足の間を確認した。ちょっとだけ興味があった。キリンになっても性別は変わらないらしかった。喜ばしいのか何なのか、よくわからない感動のようなものを覚えたけれど、すぐに罪悪感に取って代わった。自分の心が案外汚れていることにがっかりする。
先ほどは動揺のせいか目に入らなかったけれど、ベッドの上には昼間彼が着ていた服が丁寧に畳んで置かれていた。具合が悪い中ヨロヨロとここへ帰ってきて、服をきちんと脱いで畳む。その几帳面さに感服した。
それからしばらくウロウロと体の周りを歩き回ったものの、私にできることは何もなさそうだった。
尻尾の先のフサフサしたところをひと撫でしてみたいという軽い衝動に駆られたけど、やめておいた。尻尾を触られて喜ぶ動物にはあまり出会ったことがない。代わりに首の後ろ側に生えているたてがみをほんの少しだけ触らせてもらった。やっぱり毛は硬めだ。
それから前足を持ち上げて足の間に入り込んでみた。彼に抱きしめられている感を演出しようとしたのだけど、思った以上に足が重くて苦しかったので、すぐに這い出した。
今度はお腹にもたれかかってみた。
うん、これは悪くない。
朝になってもキリンで、朝になっても具合が悪そうだったら獣医さんを呼ぼうか。
状況をどう説明すれば、怪しく聞こえないだろうか。
彼氏の家に遊びに来たら具合の悪そうなキリンが転がっていたというのは、やはり怪しいのだろうか。
どう考えてもめちゃくちゃ怪しい。
彼氏の家にキリンを連れて遊びに来たらキリンの具合が悪くなって転がったという方が自然だ。
いや、それよりも彼氏がキリンを飼っていて、そこに遊びに来たらキリンが転がっていたという方がよりナチュラルだろうか。飼い主の彼氏がどこへ消えたのかという質問にうまく答えられれば、だけど。
彼のお腹が、呼吸に合わせて大きく上下する。
鼓動も聞こえる。
その呼吸や鼓動に寄り添っていたら、ゆるやかな眠気が襲ってきた。
今日は普段にも増してハードな一日だったのだ。一週間ほど前に飯田ちゃんの娘さんの具合が悪くなってからというもの、夜勤と日勤のリズムが不規則で寝不足だったし。
大きな欠伸をして、目尻に浮かんだ涙をぬぐう。
明日のことは明日になったら考えよう。だから今は、この大きくて暖かい動物にもたれかかって少し眠ろう、そう思った。
少しでなく随分長い時間眠ってしまったことに気付いたのは、カーテンの外がすっかり明るくなっていたおかげだった。まぶしさに目を細め、ようやく慣れてきた目を凝らす。
眠る前に抱いていた危惧は現実のものとはならず、視界にあるのはチンアナゴの背中だった。つまり、人間の。
「圭吾さん」
彼がかけてくれたらしい毛布を肩に巻き付けながら上体を起こし、彼に声を掛ける。
床で眠ってしまったせいか、肩と首が痛い。今なら、首を寝違えた日に沈んでいる彼の気持ちがよくわかる。
「いつから、ここに……?」
彼はゆっくりと振り向きながら言った。
探るような視線が心地悪かったので、早めにぶっちゃけることにした。
「キリンさんに会ったかどうかを聞いてるなら、会った」
ついうっかり出来心で後ろ足の間を確認してしまったことは黙っておくことにした。
彼は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。ちゃんと服を着ている。
「あの、勝手に入ってごめんね?」
「それはいいんだ」
「『いい』って感じじゃないけど」
「……どうして俺は鍵をかけ忘れたんだ。佳奈美には知られたくなかった」
その言葉をどう受け止めればいいのかわからなかった。
「私は、圭吾さんの秘密を知るに値しない人間だということ?」
「ちがうっ」
顔をあげてこちらを見つめる彼の眼は充血していた。
キリンの目とは、形も大きさも全然違う。
彼は別段キリン顔というわけでもない。
それなのに、やはり、昨晩見た瞳だった。
「それじゃ、どうして?」
「佳奈美を……佳奈美だけは、失いたくなかったからだ」
「失うの? どうして?」
「……失わないのか? それこそ、どうして?」
彼の瞳に浮かぶ絶望感みたいなものが少し和らいだ。
私はよっこらせと立ち上がって、彼の方へ歩み寄る。
「圭吾さんは、私が実はチンパンジーだって言ったら、私のことは愛せない?」
「え?」
「人型をしてるけど、実はチンパンジーだって言ったら?」
「佳奈美は人間だ」
「鏡を見て。圭吾さん」
言いながら、ユニットバスのドアを開けた。
トイレと洗面所とお風呂をひとところに詰め込んだ小さな空間。
曇った鏡が彼と私を映している。
「何が見える?」
「佳奈美と、俺」
「チンパンジーとキリンじゃないでしょう?」
「俺はキリンになる」
「でも、圭吾さんは圭吾さんでしょう? それなら問題ないよ」
答えを用意していたわけではなかった。
ただ、すらすらと言葉が出た。
たぶんそれは、まぎれもない本心だった。
「……ときどき、キリンになるとしても?」
「ときどき、なの?」
「満月の夜に」
ああ、なるほど。
随分前に狼人間の映画を見たことがあるけれど、狼人間は満月が近づくと体調を崩していた。
彼が月に一度体調を崩すのは、月に一度キリンになっていたからなのか。
看病を申し出ても断られていたのは、キリンを見られたくなかったからか。
そんなときに決まって一晩連絡を取れなくなるのは、キリンになっていたからだったのか。
彼が毎年、月の満ち欠けの載っているムーンカレンダーを買うのはそのせいか。
納得のほうが大きくて、巨大な謎はそっちのけだった。
「……佳奈美、聞かないの?」
「何を?」
「どうしてキリンになるのか」
「あっ」
狼人間がどうして狼人間になるか、私は知っている。
スパイダーマンがどうして蜘蛛人間になったのかも、私は知っている。
「キリンに噛まれたんでしょう」
正解を確信してドヤ顔で言ったけど、彼は首を横に振った。
「いや。噛まれたことはない。わからないんだ」
「じゃあ、『どうして』って聞いてもしょうがないじゃない」
「それでも、普通は知りたがるものだろうと思って。現に俺も、知りたくてたまらなかったし」
廊下に突っ立ったまま話をしていることに気付いて、彼の手を取った。ぴくりと彼の肩が動いたけど、拒まれはしなかった。
黙って彼の手を引き、並んでベッドに腰掛ける。
彼が何を話しだそうとしているのかわからなかったけれど、これから彼の秘密が語られるのかもしれないと思うと、恐怖みたいなものは全然なくて、むしろワクワク感すらあった。はじめて彼のおへそにたまった洋服の繊維を見つけたときみたいな、不思議な感覚だ。
「初めてキリンになったのは中学のときだ」
彼はぼそぼそと話し始めた。
我らがチンアナゴ先生は、患者さんへの説明が明朗でわかりやすいと評判なのに。
「突然?」
「そう。突然。そのときはキリンになっている自覚はなかったけどね。部屋で宿題をしてた。気付いたら朝だった。首がものすごく痛くて、机の上にあったものが床に散乱していた。解き終わったはずのプリントが、数枚なくなっていた」
「キリンになってるときは、人間の意識はないの?」
彼は頭を深く深く垂れた。
「そうみたいだ。何も覚えてない。最初は寝ている間に暴れてるのかと思ったけど、毎月のように起こるので不思議に思っていた。たしか五度目くらいだったかな。弟が夜中に俺の部屋でキリンを見つけた」
家族も、私みたいに座り込んだだろうか。
握ったままになっていた手に、彼がぐっと力を込めた。
「大騒ぎだったよ」
口調が苦しそうだったから、私は彼の顔を覗き込んだ。
家族みんなが実はキリンで、「ようこそ、めくるめくキリンの世界へ!」とならなかったことだけは、彼の表情から見て取れた。
「いいよ。話したくなかったら」
「その……何て言えばいいのか、うちは……古い一族で」
「つまり、お金持ちってこと?」
「まぁ、うん。地主というか、そんな感じの。そんな家に化け物が生まれたことを両親は恥じた。弟も怯えてた」
「化け物? キリンが? 動物園の人気者なのに」
問いながら、彼がどうして動物園に行きたがらないのか分かった気がした。
そして彼がさきほど、『佳奈美だけは失いたくなかった』と言った意味も。
他の人を失った経験があるということだ。
「少なくとも、家族の中で俺が人気者になることはなかったな。数日後には、俺の引っ越しが決まってた」
「圭吾さんだけ?」
「うん。母方の遠縁のおじいさんの家にね。遠い田舎に住んでる偏屈な老人で、一族からつまはじきにされているような人だった」
「そう」
それ以外になんと言っていいのかわからなかった。
「一緒に暮らしてたっていっても、ほとんどまともに口をきいたことはなかった。保護者面談とかでどうしても必要な時だけ来てくれた。それ以外は、親のサインが必要な書類にも全部自分でサインをした。おじいさんとは食事のときに顔を合わせるだけだった。高校を卒業してその家を出てから一度も連絡を取ることなく、数年前に亡くなった」
言葉が見つからないから、相槌は少し荒めの鼻息になった。
「家族のもとを追い出されるときにまとまった金額の入った通帳を持たされていたから、その金で医学部に進学した。自分のこれが病気だとしたら、治したかったから。でも、今までのところ、なにもわかってない。染色体の数が普通の人間よりも一つ多いこと以外はね。ただ、医者になってよかったこともある。睡眠薬を手に入れやすくなったから、夜が来る前に薬を飲んで寝てしまうんだ。そうしたら、寝ている間にキリンが何かをしでかすことはない」
「そっか」
「驚かないの?」
「どこに?」
「どこだろう。俺にもよくわからないけど」
「その環境で医学部に合格した精神力と才能には驚いてる。それに、自分を見失わなかったことにもね」
病院にはいろんな人が来る。
入院しても誰もお見舞いに来ない人も少なくない。そんな人は決まってどこか寂しそうで、中には自棄になっている人もいる。用事もないのにナースコールを連打して、わがままを言ったりする。
彼にはそういう、ひねくれたところが少しもなかった。
いや、私に見えていなかっただけなのかもしれない。長いこと一緒にいて、彼をわかっているつもりになっていただけで。
「さみしい?」
問いかけると、彼が顔を上げた。濡れたような黒い瞳がこちらをじっと見つめている。
昨晩のキリンと同じ瞳を見ていたら、ふいに、そんなことはどうでもよいのだと気づいた。
「そうじゃない。ちがう。ちがうの。圭吾さんが一人で寂しくなかったとしても、私は圭吾さんがいないと寂しい。だから、これからも傍にいてもいい?」
私を見つめる黒い瞳が揺れる。
「ねぇ圭吾さん、いいでしょう?」
「……月一でキリンになるのに?」
「私も月一でライオンになるよ」
月のものがやってくると決まって機嫌が悪くなる私は、家族にその様子を「ライオン」と言われたことがある。彼にもその話をしたことがあったから、彼はすぐに微笑んだ。
「そうだったね」
こらえきれなかったみたいに、フ、という笑いが混じっていた。
「……笑った」
「え?」
「やっと笑った。よかった」
彼がずっと険しい顔をしていたのがほどけて、嬉しくて仕方なかった。
彼を励ますとか慰めるとか元気づけるとか、やらなくちゃいけないことは山ほどあったはずなのに、私のほうが泣き出してしまった。彼の胴にしがみついて。
「キリンの胴体は大きくてね、寄りかかって寝るにはちょうど良かったけど、腕を巻き付けるにはちょっと大きすぎたの」
おいおい泣いている背中を、彼が撫でてくれた。
いつまでも、いつまでも。
とびっきり優しい私のキリン。
それから何度か彼のキリンと私のライオンが通り過ぎていった。
そして迎えた春、私と彼は連れ立って、彼が中学高校時代を過ごした田舎の村を訪れた。緑の豊かなきれいな村だった。
「おじさんが亡くなったこと、しばらく知らされていなくて、一か月も経ってから手紙が届いたんだ。手続きは全部近所の人がしてくれるから、俺は何もしなくていいとも書いてあった」
どんな顔をして聞けばよいのかわからないことを、どんな顔をして話せばよいのかわからないらしい彼が淡々と口にする。
彼の住んでいた家は古くて木造で、前には広い広い田んぼと畑が広がっていた。そして、裏には山があった。
青い空と、豊かな緑と。心洗われるようなこの風景を、彼はどんな気持ちで眺めているのか。
「あれ、お前さん」
大自然の中に二人で突っ立っていたら、畑のわきの小さな道から、しわがれた声が飛んできた。
「玄さんとこの子だろ」
玄さんというのが、亡くなった彼の遠縁のおじいさんのことなのだろう。
彼は固まっていた。
「あんたに手紙出したの、あたしだよ。玄さんから頼まれてたんだ。お医者さんになる試験が近いはずだから、死んでもすぐには言うなって言われててね。本当は三か月くらい経ってから言えってことだったけど、さすがにと思ってね。一か月後に出した。立派になったね。よかった」
つないだ手が、固く握られる。
「玄さんは具合悪くなっても病院になかなか行かなくてね。金がないなら山を売ったらいいのにって何度言っても、絶対に首を縦に振らないんだ。『この山は売らない。家も売らない』って。『あいつの帰ってくるところだから』ってさ」
手を、握り返した。
声をかけてきたおばあさんは、空を見上げて目を細めた。
「これはひと雨くるよ。家に入ったほうがいい」
預言者みたいなおばあさんと別れて少しすると、ぽつぽつと水滴が地面を打つ音がした。
雨だと思ったけど、彼の涙だった。
「不器用だったのかな」
中学生の彼も。その、玄さんも。
その春をきっかけに、私たちはほどなくして村に移り住んだ。村唯一の小さな診療所が後継者不在のために閉鎖されると聞き、その場所を継ぐことになったのだ。
毎月首を痛めていた彼は、今は満月の夜を裏山で過ごすようになった。キリンの間は人間の意識を失っているらしい彼だけど、山にいると嬉しそうに見える。葉っぱをもしゃもしゃと食んだり、首を木にこすりつけたり。少なくとも、アパートの一室で転がっているよりは、随分と健康によさそうだ。
そして、私も。キリンになった彼と一緒に山に入る。キリンの彼は山に夢中で私にそれほど注意を払うことはないけれど、追い払おうともしない。
キリンと私。
それはそれで、不思議な友情のようなものが出来上がっている。
***************
「そろそろ寝ようか」
明日には会えるというのに、すっかり話し込んでしまった。
話しながら無意識に指で描いたキリンの落書きが窓に浮き上がっている。
『そうだな』
「明日は満月だね」
『うん』
「帰ったら……裏山に会いに行くね」
『うん』
クスクス、小さな笑い声が聞こえた。
「どうしたの?」
『いや……』
彼はいったん言葉を切って、ゆっくりと言った。
『首を長くして待ってる』
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