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1巻

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   近頃のマッサージチェアは極楽


「難易度が高い……高すぎる……」

 ゲームの話ではない。人生の話だ。

「これって普通……? みんな、こんなにハードモードで生きてるの……? クリアできる気がしないんですが……」

 ひとり言を漏らしながら五センチヒールのパンプスに押し込んだ足で家電量販店の通路をヨロヨロ歩いていたら、ずらりと並ぶマッサージチェアが目についた。新製品の使い心地を自由に試せる神コーナーだ。一日中歩き回ってヘトヘトになったところでマッサージチェアになんて出くわしたら、誰でも思わず座ってしまうのではなかろうか。私なら座る。
 吸い込まれるように腰を下ろし、深いため息をひとつ。手にした紙切れを見つめた。
 ――いち、じゅう、ひゃく……
「お見積り合計額」という箇所に書かれた数字のけたすうを右側から数える。
 ――いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……
 三回くらい数え直したけど、残念ながら見間違いじゃないみたい。
 フゥーッと長いため息が漏れた。クラクラする。
 今座り込んでいるここのひとつ上の階でパソコンの入院費用を見積もってもらったところだ。
 見積書の一番下にはゼロが四つ。親からの仕送りに頼って生きている大学生には痛すぎる金額だ。
 臨時の仕送りを頼もうにも、母には頼れず、歴史学者の父ははるか遠い砂漠の国で発掘調査中。連絡をとるのは至難のわざだ。銀行口座の残高と次の仕送りまでの日数を考えると、しばらく主食は一袋二十九円の特売モヤシで決定だ。

「まいったなぁ」

 泣きっ面に蜂。弱り目にたたり目。踏んだり蹴ったり。
 今の自分の状況を表す言葉がいくつも頭に浮かんだ。
 見積書をクシャクシャに丸めてしまいたい衝動をなんとか抑え、カバンにしまおうとクリアファイルを取り出した。ファイルには先客がいる。こちらも今はあまり見たくない、ES――就職活動用のエントリーシートだ。
 見積書をESの後ろ側に挟み込み、手前のESに書かれた自分のプロフィールを眺めた。
 はやいつき、七月二十三日生まれ。性別、女。資格、英検準一級。学歴、しゅうおう大学文学部歴史学科卒業見込み。学生時代に打ち込んだこと、体操――
 フゥ、とまたため息が出る。この短い文章だけじゃ自分の今の状況はとても伝え切れない。
 幼い頃から続けてきた体操は大学最後の大会をウォーミングアップ中の怪我で棄権してあっけなく終了し、部活とリハビリで出遅れた就活は現在連敗記録を更新中で、卒論はテーマ選びの段階で完全に行き詰まっている。
 気分を少し変えようと自分で切った前髪はパンクバンドのボーカルもかくやというシャープな斜めバングスに仕上がり、直してもらおうと恥をしのんで出向いた美容院で文字通りのお手上げを食らった。
 こんなときは友達とお茶でもして元気を取り戻したいところだけど、皆が就活で慌ただしく走り回っていて、予定が合わないまま時間だけが過ぎてゆく。
 そんな矢先に、ずっと大好きだった声優が電撃結婚を発表した。それをネットニュースで見て膝から崩れ落ちたのが昨日のこと。
 母とは死別、父は三度の飯より発掘という環境の中、放り込まれた全寮制の女子校で一日の大半を体操についやし、友達と遊ぶ時間も現実の恋に落ちる暇も――いや、そもそも出会いすら――ない。そんな生活の中で、彼の優しい声と笑顔は寂しさを埋めてくれる心のオアシスだった。つまり昨日のあれは、まごうことなき失恋だった。
 ベコベコに凹み、壁に貼った彼のポスターをがすこともできないまま布団にもぐり込んで、目が覚めたら家の中なのに雨が降っていた。
 上の階の住人の不始末で起きた水漏れだった。大事な推しのポスターは湿って波打ち、彼の画像を大量に保存していたパソコンは水没、主演アニメの円盤DVDは無事を確認する勇気が出なかった。卒論はクラウドに保存していたおかげで難を逃れたものの、デスクトップに一時保存していた就活の資料はお亡くなりになった。
 トドメが今日の面接だ。水浸しの部屋から奇跡的に無傷で救い出されたスーツを着込んでなんとか面接会場におもむいたはいいものの、斜めの前髪と、泣いたせいで普段の三倍くらいにれたまぶたじゃ戦闘力はマイナスもいいところ。おまけに自室のことが気になってしまい面接中は終始上の空で、何を聞かれ、何を答えたのかも思い出せない。面接室を出る前に見た面接官は死んだ魚みたいな目をしていた。よほどひどい出来だったに違いない。
 ――なんかもう、笑えてきた。
 左手の肘置きの上に置かれていたリモコンをぼんやりと見つめ、「上半身もみほぐし」というボタンを押した。すぐに、背中の辺りで何やら丸いものがゴロゴロと動き始める。
 ――お父さんからもらったお守り、ちゃんと持ち歩いてるのに。いいことないなぁ。
 発掘にいそしむ父からは、時折思い出したように便りがある。その便りに同封されていた小さなお守りを目の前にぶら下げて振ってみた。
 手にすっぽりとおさまるくらいの小さな巾着に、ビー玉より少し大きいくらいの球体が入っている。ピカピカにみがかれた乳白色の石の玉だ。父の手紙によると『竜の涙』という名の石だという。露店で買った、願い事が叶うらしい、とテンション高めの解説が添えられていた。
 日本の道端でも売ってそう、という感想は心の中にとどめ、こちらもテンション高めのお礼の手紙を書いたけど、砂漠の真ん中にいる父のもとに無事届いたかは定かじゃない。
 マッサージチェアのもみ玉が腰の後ろを上下する。痛い、だけど気持ちいい。
 今のところ、父からもらった得体の知れない玉よりもマッサージチェアの玉のほうがいい働きをしている。さながら、RPGゲームの回復魔法のようだ。
 ――あー、極楽。
 あまりの気持ち良さに目を閉じた。
 ――やらなくちゃいけないこと全部投げ出して、砂浜かどこかで推しの声を聞きながら星空でも眺めてたいなぁ。
 完全に現実逃避な願望を心の中で唱えたその瞬間、ずるんと、おヘソの辺りを下に引っ張られたような気がした。


 目を開けると、真っ白い世界にいた。
 あ、これは夢だ、とすぐにわかった。
 もやがかかったような視界が少しずつ鮮明になって、正面に人影が見えてきた。女性がピンと背筋を伸ばして椅子に座っている。向こうからはこちらが見えないのか、手を振っても反応はない。
 ――鮮やかな服。
 女性が身につけているのは、晴れた夏の空みたいな真っ青なワンピースだった。長袖にマキシ丈、ゆったりと体をおおうデザインで、手以外の肌は見えない。頭はすっぽりとベールのような布でおおわれているので、顔の露出面積はスキー帽をかぶった強盗といい勝負だ。
 ベールの上にはつるの絡まったようなデザインのかんむりをつけていて、かんむりからは幾重も細い鎖の装飾が垂れて顔回りをおおっている。その鎖とドレスにい込まれたビーズがキラキラと眩しくて、思わず目を細めたそのときだった。頭の中で低い声が響いた。

「竜の子よ」

 ――え?
 女性にもその声が聞こえたのだろう。ハッとした様子で顔を上げ、声の主を探すようにキョロキョロしている。視界をさえぎる布をわずらわしく思ったのか、彼女はそっと顔のおおいに手をかけ、あごのところまで下げた。口と鼻をおおっていた布が取り払われ、彼女の顔があらわになる。
 低い声はゆっくりと続けた。

「そなたらの『ひとつの願い』、しかと聞き届けた」

 その声に導かれるように女性がこちらを見た。驚いて見開かれた目は、クレオパトラもかくやという濃いアイメイクにふちどられている。はっきりと目が合ったから、向こうからも私の姿が見えているに違いなかった。
 ――あ、あの顔知ってる……ラフィ王女だ。
 ラフィ・ツキ・マレ・ファレシュ。はるか昔に砂漠の国ファレシュに実在した人だ。
 ファレシュは母の故郷で、父が歴史を研究している国でもある。私も小学生まで住んでいたので、ラフィ王女の名前はよく知っていた。彼女の名をとって「ラフィ」と名付けられた子が、近所に三人もいたせいだ。それだけじゃない、父や彼の学者仲間たちからは、たびたび「樹はラフィ王女に似ている」と言われてもいた。
 大昔の人なので残っている肖像画は一枚きり。どうせ「体育の先生が西さいごうたかもりにそっくり」とかいうレベルの「似ている」に違いないとは思いつつ、実在した王女に似てるなんて言われたら、ねぇ。そりゃあ悪い気はしないし、名前くらいは覚えちゃうってもんよ。
 肖像画では明るい笑顔だったけど、目の前の彼女は物悲しい目をしている。

「……ラフィ王女?」

 私の呼びかけに答えるように王女が口を開いた。そして何か言う。でも声が聞こえない。何やら焦っているようだ。

「えっ? 何?」

 王女の声が聞こえない。おそらく私の声も、彼女に届いていない。

「王女、なんて言ってるの? さっきの低い声は何?」

 まるで分厚いガラスか何かにへだてられているみたいだ。あちら側とこちら側、互いに必死に何かを言っているのに、音がない。
 彼女の言葉を聞かなくちゃいけない。どうしてか、そんな気がする。唇の動きを読み取ろうと彼女の唇をじっと見るけど、なんと言っているのかわからない。
 王女がこちらに手を伸ばした。私も彼女のほうへ手を伸ばす。
 触れそうな距離にいるのに届かない。黒くふちどられたまぶたの間で暗い灰色の目が揺れる。
 王女はひときわゆっくりと唇を動かした。それでようやく、彼女が言おうとしていることの一部を読み取ることができた。

『――ごめんなさい』
「ラフィ王女? どうしてあやま――」

 思わずマッサージチェアから立ち上がった。
 でも、足を下ろした先に地面がない。

『巻き込んでしまって、ごめんなさい』

 ――ああ、あの口の動きは、そう言ったんだ。
 そう気づいたときには、体が下へ下へと落ちていた。



   このイケメンは有罪


 ゴロン、パキン。
 近くで硬い音がした。その音に驚いて体がビクッと揺れ、意識が浮上する。すぐに目を開けようとしたけど、やけにまぶたが重くて開かない。どうやらうたた寝をしてしまったようだ。おかげで変な夢を見た。座ったまま寝たせいだろう、首が痛い。
 こわばった筋を伸ばそうと、目を閉じたまま首をゆっくりと右に倒した。
 ――違和感。
 何か違和感があった。いや、違和感しかなかった。
 五感が先ほどまでと違う情報を拾い上げてくる。
 家電量販店の音楽が消えていた。冷房が効きすぎた店内とは打って変わって、肌をなぞる空気はぬるく、そのくせ乾いている。マッサージチェアの座面をおおうビニールの匂いが消え、遠い記憶を呼びおこす少しスパイシーで砂っぽい香りが鼻をくすぐる。その鼻はといえば、マスクのようなものでおおわれているらしく、鼻息がもわりと口の周りに広がった。
 頭を倒したときの感覚もいつもと違う。重い。疲れたときに首回りがズンとなるのとは違って、この重さはなんというのか、そう、とても物理的だ。頭にかぶさったものがすごく重いみたいな。耳の横で、しゃらしゃらと金属のこすれるような音がする。
 ――金属?
 重いまぶたをなんとか引っ張り上げて目を開けた。眩しくて、世界が色を取り戻すのに少し時間がかかる。何度か目をしょぼしょぼし、最初に視界にとらえたのはラフィ王女だった。ガラス窓の向こう側から眩しそうな顔でこちらを見ている。

「あれ」

 夢から覚めたと思ったのに。どうやらまだ、さっきの夢の続きを見ているようだ。

「ラフィ王女?」

 私が話しかけると同時に王女も何か言う。

「え? 何?」

 またかぶった。
 窓の向こうの王女は眉を寄せ、不審そうにこちらを覗き込んでくる。その動きが自分と連動していることに気づくのに、それほど時間はかからなかった。
 右手を挙げると、向こうで王女が左手を挙げる。こちらが左手なら、向こうは右手。鼻をつまめば向こうもつまむし、唇をとがらせると王女もとがらせる。同時に左右反転で全く同じ動きをしている。そう、まるで鏡の中みたいに。
 ――鏡? いやまさか、そんな。

「ラフィ様」

 横からそう声をかけられたとき、私はガラスの向こう側の王女様に向かって「ウキ」という猿のポーズをしているところだった。
 右手を頭、左手をあごに当てた「ウキ」のまま声のしたほうを見ると、近くに女性が立っていた。日に焼けた肌に、優しそうな薄茶色の目が印象的だ。彼女も髪はベールでおおわれているが、王女と違っておでこからあごまで見えている。歳は四‌、五十くらいだろうか。知らない人だ。

「ラフィ様、どうかなさいましたか」

 女性はそう言って、心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
 ――ココハドコ、ワタシハダレ。
 記憶喪失じゃないのに、この疑問文を使う場面が来ようとは。

「王女?」

 三度目の呼びかけにも答えられずに固まったままゴクンとつばを呑むと、女性は少し眉を寄せた。
 女性のほうを見ながら「ウキ」の姿勢をやめ、ゆっくりと両手を下ろした。ふとその手を見ると、きゃしゃな中指に見たことのない重たそうな指輪がはまっている。指を曲げ伸ばしした。自分の指じゃないみたいだ。自分の意志の通りに動いてはくれるけど、しっくりこない。長さも動きも、思い通りじゃない。
 ――なんじゃこりゃあ。

「一体どうなさったのです?」

 間抜けな感想を抱きながら手をにぎにぎしていたら、女性がいぶかしげな声を上げた。
 一歩、二歩。女性が近づいてくる。私は動けないまま顔だけを上げて彼女を見つめていた。
 じゃり、と彼女の足元で何かをすりつぶすような固い音がした。
 彼女が立ち止まり、足元の何かを拾い上げる。細かなガラスの破片のように見えた。彼女はじっとそれを見つめ、少ししてハッとした顔をする。

「ラフィ様、これはもしかして、竜の涙……? 割れて……?」

 女性がカッと目を見開いて私の顔を覗き込んでくる。

「ラフィ様、竜の涙をお持ちだったのですね。そして、お使いになったのですね? 一体何に……?」

 目が合った。
 とたんに、驚いていた彼女の表情が不審げなそれにとって代わった。探るように目を細め、じっと私を見つめてくる。そして、一歩、二歩、ゆっくりと後ずさった。

「もしかして……ラフィ様……ではない……? あなたは一体……」
「あの、えーと……」

 ファレシュ語を話すのなんて久しぶりだ。そのせいもあって言いよどんでいると、遠くで人の声がした。その声に突き動かされるように女性はすばやく背後を確認して、蒼白な顔で口を開く。

「時間がない。この際、あなたがどなたでも構いません。ラフィ様とお会いになったのですね?」
「ええと……まぁ、会ったと言えば会ったかな」
「それで入れ替わることになったのですね? 事情はご存じですね?」
「へ? 入れ替わる……? いや、私はただ電器屋に」
「デンキヤ?」

『何それ』って表情で、女性が問い返してくる。

「その、座ってうたた寝してたら、変な夢を……」

 ――そう、これは夢の続きだ。
 夢だとわかっていながら見る夢って、なんて言うんだったか。白昼夢? いや、それは違う気がする。推しの声聞きたさに追っかけていたアニメでそんなセリフがあったけど、思い出せない。ともかくも、これは夢だ。

「まさか……事情をご存じないのですか?」

 そんな夢の登場人物であるらしい女性が、「信じられない」って顔で問いかけてくる。

「事情って? いや、それよりも、あなた誰?」
「私はムーアと申します。ラフィ王女の側仕えをしておりました。すでに側仕えの任は解かれていますが、今日は特別な日ですので、お手伝いに」

 情報量が多すぎて、拾えたのは「ムーア」という名前だけだった。
 人の声と足音が近づいてくる。その音に一層き立てられた様子で、ムーアが早口に言った。

「いけない、もう始まってしまう」
「始まるって、何が」

 ファレシュに住んでいたのは小学生までだ。りょくもその時点で止まっている。おかげで敬語は得意じゃない。たぶん今の私は、おそろしくつっけんどんなファレシュ語を話しているはずだ。

「いいですか。あなたはラフィ王女です。王女は今晩、婚約の披露をなさる予定で、これからお披露目が始まります。そして、三日後には盛大な祝宴も予定されております」

 こんやく、おひろめ、しゅくえん。
 すぐに脳内で変換ができず、頭の整理が追いつかない。

「王女の代わりに、あなたに出ていただかなくてはなりません」
「いや、無理無理。私は王女じゃないのに、そんな」

 夢がヤバそうな展開になってきたので、気合いで目を覚ませないものかと右の頬を自分でひっぱたいてみたけど、効果はなかった。目の前の人からあわれみの視線を向けられただけだ。

「そのお姿はラフィ様です。私がお召し替えをお手伝いしたのですから間違いありません。何より、その中指の指輪はラフィ王女が肌身離さず着けておられたものです」
「いやでも、中身がちが――」
「竜の涙が力を発揮したのですね」
「竜の涙って……あの石のこと?」

 父が露店でゲットしたという、あの怪しげな。

「ええ、そうです。そこで割れている、その石です」

 彼女が指さした先を見ると、たしかに元は球体だったらしい乳白色のものが粉々に砕けて散っていた。

「竜の力で王女の願いが叶えられたのですね」
「そんなはずは……だって本当に力があれば、私の就活だって」
「シューカツというのが何かは存じませんが、どんな願いでも叶えられるわけではありません。竜がその願いを認め、叶えると決めた場合だけ」

 ムーアの言葉が記憶のどこかを刺激した。
 そうだ、あの真っ白い空間で、たしか『願いを聞き届けた』という声を聞いた。

「その竜って……もしかして、あの低い声と関係ある?」

 ムーアは確信を得たように「やはり」とうなずいた。

「竜の声をお聞きになったのですね。伝説の通りです」

 そう言って、ムーアは足元に砕け散ったカケラを拾い集めた。

「力を使うと石は砕け散ると言い伝えられていますが、私も本物を目にしたのは初めてです。まさか王女がお持ちだったとは」
「つまり……王女はその石を使って願い事をしたってこと?」
「おそらく、としか申せませんが」
「私は王女の願いでここに?」
「ラフィ様が何を望まれたのかはわかりかねますが――」

 女性の言葉をさえぎるように、扉を叩く音がした。ドンドン、という乱暴な音だ。次いで扉の向こうから大きな声がする。

「ラフィ王女。お時間です」

 ムーアが怯えた顔をした。つられてこちらの顔もこわばる。ムーアはごくりとつばを吞み、扉に向かって「少しお待ちを」と声を張り上げた。
 そして声を落とし、ぐいと顔を近づけてくる。

「どうか、お願いです。なんとしてもあなたに出ていただかなければ。大変なことになります」
「大変なことって?」

 ムーアは背後を確認して、ぶるりと震えた。事情の分からない私も、つられてぶるりと震える。

「罰を……受けることになります」
「私が?」
「ええ、あなた

 つまり、きっとこのムーアも。

「それは……穏やかじゃないね」
「この王宮が穏やかだったことなど、もう何年もございません。どうか……」

 ムーアはまっすぐにこっちを見つめている。救いを求めるような目だ。固く結ばれた唇が、かすかに震えているように見える。
 断りづらい。かなり。

「……王女の代わりに、出ればいいだけ?」

 そう問うと、彼女は身を乗り出してうなずいた。

「ええ。あとはすべてサイード様のご指示に従うだけで構いません」
「その、サイードっていうのは?」
「ラフィ王女の叔父上で、この国のせっしょうです」
「その人は味方になってくれる感じ?」

 ムーアはちぎれそうなほど激しく首を横に振った。明らかに、答えはノー。味方どころか、どうやら一番バレちゃいけない相手らしいということが、彼女の表情から読み取れた。

「決して正体を明かしてはなりません。サイード様にも、その他の者にも」
「ファレシュ語はだいぶ忘れてると思うし、敬語にあんまり自信ないんだけど、話さなくて平気?」
「ええ」
「じゃあいけると思う。顔もほとんど隠れてるしね」
「出てくださるのですね」
「出るだけだよ、ほんとに。そうしたらごめんなさい。最近、私びっくりするくらいツイてないから」

 そう言って肩をすくめたところで、部屋の扉が開いた。曲がりなりにも王女の控え室だというのに、許可もないままバァンと扉を開けられたことに驚くが、扉の向こうから現れた人は無表情だ。

「これ以上は待てません。お時間です」

 ムーアに身振りで立つように促され、ゆっくりと立ち上がった。足の感覚が違う。うまくバランスをとれず、ふら、と一瞬よろめいた体をムーアが支えてくれる。
 迎えに来たのはいかめしい装いの兵士だ。近寄ったら怪我をしそうなほどギザギザしたよろいを身につけている。よく日に焼け、服の上からでも筋肉がりゅうりゅうとしているのがわかった。男子体操部といい勝負なマッチョ具合だ。
 不安そうなムーアに見送られて部屋をあとにし、歩き出す。
 前を歩く兵のそうぼうきんと自分の脚にまとわりついてくる長い衣装のすそに気を取られていたら、長い廊下もあっという間だった。

「王女はこちらでお待ちください」

 兵の言葉にうなずき、指示された通りに大きな垂れ幕の前に立った。しゃらん、と頭の上の飾りが揺れる。
 垂れ幕の向こう側は何やらにぎやかだ。すぐ近くで演奏されているのか、大音量で流れている音楽には聞き覚えがあった。父のお気に入りで、幼い頃は子守歌代わりに聞いていたから今も口ずさむことができる。ファレシュの宮廷歌だ。ずっと昔から歌い継がれてきたものだと教えられていた。
 宮廷歌、ラフィ王女、と来れば、ここはファレシュの宮殿に違いない。


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