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1巻

1-2

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 掻っ攫われた少女のほうは、少し離れた木立で、小太りの女性と向き合って立った。

「奥様、ですか? それとも……」

 女性は少女の顔をじっとのぞきこんだ。

「あ、わかった。おばさん、ポマさんでしょう」

 そう言って少女がぽんと一つ手を打つ。

「トマ、です」

 トマ、という名前は、あのショールの女性が少女に「面倒をみてくれますからね」と教えた人物だ。どうやらこの小太りのおばさんがトマであるようだ。

「はじめまして。あたし、リー!」

 少女はトマの手を握ってぶんぶんと振った。手を引きちぎろうとしているように見えるが、これは少女にとって親愛の情をこめた握手であるらしい。力いっぱい上下に腕を振り、吃驚びっくりした相手が言葉を失っていることに気づかない。

「あ、あの……それでは、受けてくださったのですね。替え玉の話を。つまり、あなたはこれからレティーシア様として生きていくという……」

 引きちぎられそうな手をなんとか少女から救い出し、トマは言った。

「ああ、あの人、レティーシアっていう名前だったんだ! きれいな名前だねぇ!」
「ちょ……、こ、こちらへ!」

 にぱっと邪気なく笑った少女に、事態は思っていたよりも難儀だと気づいたトマは少女の腕を引っつかんで木立を突っ切った。屋敷の階段を二段とばしで駆け上がり、奥の奥のそのまた奥まった部屋に少女を引っ張りこんでドアに鍵を掛ける。それからようやくほーっと息を吐いたあと、ドアを背に、ずるずるとしゃがみ込んだ。

「あの、事情はご存じなのですよね……?」

 しゃがみ込んだまま、疲れきった表情でトマが少女を見上げる。少女はきょろきょろと部屋を見回しながらこくこくと数度うなずいた。

「うん。あの人は家出したい。けど、騒ぎになると困るから、あたしはあの人のフリをしてここにいればよくて、事情を知ってるのはここでは侍女頭をしているトマさんだけなんでしょう」

 家出……フリ……間違ってはいない、間違ってはいないのよ……とトマはぶつぶつとつぶやきながら額に手を当てた。一方、リーと名乗った花売り少女は高額紙幣をにすかしてへらへらと嬉しそうに笑っている。

「ずっとこの家にいなくてはならないというのもお聞きになりましたか?」
「あ、ずっとなの?」

 少女の返答にトマはまぶたを開いた。

「お聞きになっていなかったのですか……?」
「うん。でもまぁ、今聞いたよ」

 そりゃそうだが、期間とかそういうのは少女にとってどうでもいいのだろうか。替え玉というだけでかなりのワケあり感が漂っているのに、期間も知らずに引き受けるなんて、相当なおろか者か強者つわものかのどちらかである。

「よろしいのですか……?」
「別にいいよ。あたし、ぼっろいところに住んでてさぁ。今の季節、寒いんだよねぇ。お腹も空いてたし、ちょうどよかった! まさかこんなに大きいお屋敷に住めるんだとは思わなかったけど」

 どうやら少女はラッキーだと思っているらしく、顔をほころばせた。それから両手を広げて「腕を伸ばしてもまだまだ余るくらい広いね!」と嬉しそうに言う。
 愚か者と強者の二択では前者の色合いが濃そうだ。

「ずっと、というのは、ずっと、ですが?」
「うん、だって別にあたし、用事なんてないし」
「ご家族は?」
「いないよ。ひとりぼっちだもん」

 トマは驚いた顔で、花売りの少女をじっと見つめる。

「ひとりぼっちなのですか?」
「そうだよ」
「その……いつから……?」

 トマは聞きづらそうに尋ねた。

「さぁ。あんまり小さいときのこと覚えてないから」

 少女はこともなげに、ひょいと肩を上げる。

「本当にいいのですね?」
「だってもうお金もらっちゃったからさ。ちゃんとあの人のフリするよ」
「そうですか。私もできるだけサポートいたしますので」
「うん、ありがと」
「それでは、まずは部屋着に着替えていただかなくてはなりませんね。ご希望のお色はございますか? それとも、こちらでお選びしても?」

 トマの言ったことが何一つ理解できなかったと見え、少女はぽかんと立ち尽くす。そんな少女の様子に、トマは外出着と部屋着の違いを懇切丁寧に説明し、少女の外出着を脱がせようとスカートのすそをたくし上げた。
 そこで、トマは金切り声を上げた。長いスカートに隠れて見えなかったリーの足が恐ろしいほど汚いことに気づいたのだ。短時間であの女性そっくりに仕立て上げなければならなかったため、手だとか顔だとか、見えるところしか取りつくろっていなかった。
 結局少女は風呂場に連れて行かれ、足の皮がひんけるほどの勢いで足を擦られた。しかし少女はそれを気にするふうでもなく、ときおり「痛い痛い」と言いながら目に涙をためたものの、きょろきょろと風呂場の装飾を観察して「きれいだねぇ」と平和な声を上げる。
 たっぷりと時間をかけて色んな意味で一皮剥かれた少女は、若草色の部屋着を着せられ、部屋の中央にある豪奢ごうしゃ椅子いすに浅く腰かけた。その周りをトマがウロウロウロウロと歩き回る。

「こげ茶色の豊かな髪……深い緑色のんだ瞳……アーモンド形の目……小さい鼻……花びらみたいな唇……薄いそばかす……白い肌……きれいな鎖骨……細い指……」

 呪文のように繰り返しながら様々な角度から少女を見つめ、ようやく満足したのか、トマは腕を組んで鼻息をふんと出した。

「うん、文句なしね」
「あの人、私とそっくりだったもんねぇ」

 リーは頭の後ろをぽりぽりとき、間の抜けた声を出す。

「あとは、所作が……言葉遣いも……なんとかしなくては……」

 頭痛を抑えるように額に手を当てて、トマは悩む。
 ところがリーのほうは、その言葉を耳にした瞬間、すいと背を伸ばした。

「あら、わたくしもそれくらいはできましてよ? トマはわたくしを随分みくびっているのね?」

 少女が突如ツンとあごを上げて告げたので、トマは口をあんぐりと開けて、「え……奥様……?」とつぶやいた。

「あたしの唯一の特技はモノマネなんだよ。道でたくさんの人を見てきたから、色んな人のマネができるんだ」

 少女は笑い、トマを喜ばせた。
 喜んでいたのはトマだけではない。
 豪壮なお屋敷の窓から見える庭園はそれはそれは広く、丁寧に刈り込まれた木々が立ち並ぶ様はずっとながめていても見飽きることがないくらい美しい。呆れるほど大きなクローゼットを開ければ、あふれんばかりのきらびやかなドレスが並ぶ。その上、トマ以外の侍女や女中たちも「奥様、奥様」とちやほやしてくれるのだ。
 ほんの数刻前まで大声を張り上げて花を売っていた少女には、天国のようだろう。少女は何度も自らのほおをつねり上げては嬉しそうに「痛い痛い」と声を上げ、笑顔を振りまいていた。

「替え玉って随分といいご身分!」

 これがこの物語の、そしてすべてのはじまりだった。



   1 旦那様のご帰還


 リーがお屋敷に着いた翌朝。
 大きな寝台で手足を存分に伸ばしてすやすやと眠っていた彼女は、侍女に優しく揺り起こされた。ぼんやりとしているうちに夜着をひんかれ裸にされても動じず、リーは楽しそうにニコニコと笑う。
 花売りの朝はたいそう早い。自分で遠くの花畑まで行って花をんでくることもあれば、市場で馴染みの問屋に掛け合って安く売ってもらうこともある。そうして一日中、花を売り歩く。
 リーも長らくそんな生活を送ってきた。
 そこから一転、夜は手足を伸ばしてもはみ出ない寝台で爆睡し、朝は日がすっかり昇ってから目覚める。そうして、「奥様、今日のお召し物はどれにいたしましょうか?」と広げられた色とりどりのドレスの中から服を選び、「寝ている間に少し汗をかかれたようですから」とお湯を含んだ温かな布で全身をいてもらい、二人がかりで丁寧に服を着替えさせてもらう。そんなの、夢心地に違いない。
 トマ以外の女中の前ではできるだけ奥様然としていなければならないことをリーはちゃんと自覚しているらしい。「ご苦労でした。下がってよろしい」という偉そうな言葉で自分を起こしにきた女中をねぎらって、部屋から追い出した。女中と入れ替わりに「おはようございます奥様」とトマが部屋に入って来る。リーは顔を輝かせた。

「夢かと思ったけど、やっぱり夢じゃないんだね!」
「ええ、奥様」

 トマはリーの頭のてっぺんからつま先までじっくりと観察し、満足げに小さく息をつく。少女は相も変わらず、あの奥様にそっくりである。

「やだ、二人のときはリーでいいって」

 片手を口に当て、もう片方の手をぶらんと振ったリーの姿は、市井しせいのおばさんそのもの。
 トマはなんとも形容しがたい渋い顔をしたあと、「これから先、あなたは奥様として生きていくのですから、その名は捨てていただきませんと……」と申し訳なさそうに告げた。
 昨日から、リー自身よりトマのほうがリーの置かれた状況について心を痛めているようだ。

「あ、そっかそっか」

 そうだよねぇあたし奥様だもんねぇと嬉しそうに緑色の瞳を輝かせるリーに、トマは釈然としない顔をした。実際、人が入れ替わっているのだからトマのように心配するのが普通だが、リーのニッコニコ顔のせいで全然大したことじゃない雰囲気になる。
 そんな能天気丸出しのリーが突然「あっ」と言って真面目な表情になった。

「な、なんですか」

 トマはスッと身を引く。

「そうそう、一つ聞いときたいことがあったんだった」

 リーがトマにぐっとにじり寄って、その耳元でささやいたので、トマはついに最初の難題にぶち当たるのかと、覚悟を決めた。

「なんでしょうか」
「奥様の名前、なんだっけ」

 ひそりと告げられたリーの質問に答えたのは、トマとは明らかに違う、つややかで朗々とした声だ。

「私のレティーシア!」
「あ、そうそう、それだった、それだった!」

 リーはぽんと手を打った。がすぐに、自分の疑問に答えたのがトマではないことに気づき、くるりと声のほうを向く。
 そのリーの視線の先に立っているのは、すらりと伸びた体に小さな頭をのせて優雅に微笑ほほえむ茶色い瞳の美男子であった。歳のころは三十といったところ。リーよりも十歳以上は年長にみえる。その年齢にふさわしく、若々しさと余裕のある落ち着きをあわせ持ち、大人の魅力がたち上っていた。

「ああ私のレティーシア、今帰ったよ!」

 そう言って美男子は足音をたてることなくリーにけ寄る。そして大げさな動きでリーの腰に腕を回して体をかかえ上げ、くるくるとその場を三度ほど回った。床から浮いたリーの足がこころもとなく外側に跳ね上がり、侍女に着せてもらったばかりの春色のドレスが風を含んでふんわりと広がる。
 その光景は、誰もがどこかで目にしたことのある、うふふふふーあははははーなあのシーンなのだが、残念ながらきらきらしい笑顔なのは美男子ただひとり。
 リーの背後ではトマがピシリと音をたてて固まり、リーはリーで「この人誰ですか」という表情を顔に貼りつけて男性を凝視している。さすがのリーも、突然抱え上げられて空中をぐるぐると回されながら笑うほどの能天気さは持ち合わせていないらしい。

「だ、旦那様、お帰りは明日の予定では……?」

 トマが息を吹き返し、泣きそうになりながら美男子に問いかけた。体の後ろに隠された手が、それはそれはわかりやすいほどに震えている。
 どうやら美男子はこのお屋敷のご主人であるらしい。
 旦那様と呼ばれたその人は、抱え上げたリーのちょうど胸の辺りに顔をうずめて大きく息を吸いこんでから、「可愛いレティーシアが昨日街へ出かけたと聞いて、いても立ってもいられなくなって、帰って来たんだよ! ああ無事に愛しいレティーシアが屋敷に帰りついていてよかったよ! いなかったらまちじゅうを駆けずり回って探し出さなければと思っていたのだ!」と言った。

「それにしても私のレティーシア。君の香りがいつもと違うように思うのだが、なぜだろう。街へ出かけたせいで変わってしまったのだろうか」

 旦那様は嘆かわしげに大きく首を振る。相当の美男子なのに、大げさに嘆きながらぶるんぶるんと顔を振っているせいで、うるわしい顔が台無しだ。

「街になど行くな、といつも言っているのに! 買い物なら御用聞きを呼びつければいいのだ。君はこの屋敷にずっといればいいのだよ! 外には危険と誘惑が山ほど転がっているのだから!」

 そう言ってリーの腰に回した腕にぐっと力を込める。
 突然の攻撃に一瞬ぐえっとなったリーは、トマが旦那様の背後で必死で何かを伝えようとしているのに気づき、彼女の口を読みとりながらマネた。

「はい、その……とおり……です? だんな……さま」
「うん、うん。わかればいいのだよ、愛しいレティーシア!」

 リーの言葉を聞いて旦那様は満足げに微笑ほほえみ、リーをふわりと地面に下ろした。

「さぁ、おかえりのキスをしてくれたまえ!」

 腰をかがめ、リーの顔の高さにほおを突き出し、目を閉じてスタンバっている旦那様。彼をじっと見つめたリーは、トマの「行け」という無言の圧力に負けてその頬に本当に軽い、触れるようなキスを落とした。ついばむというレベルですらなく、顔の産毛の先に触れるか触れないかくらいの軽さである。
 ところが、旦那様はそれだけでも感動しきりといった様子で再びリーを力いっぱい抱きしめた。
 そして、愛情のこもった声で妻の名を呼ぶ。

「ああ、可愛いレティーシア!」

 旦那様はため息交じりに、悲劇的な口調で続ける。

「せっかく久しぶりに愛しいレティーシアに会えたというのに、どうして仕事なんてしなくてはならないんだ。君のそばを離れたくないよ、可愛いレティーシア」

 しかし嘆いている最中に迎えに来た執事に首根っこをつかまれて、旦那様はつむじ風のように部屋から連れ去られた。

「旦那様がいたんだね。あの人には」

 旦那様が去ったあと、リーは扉を見つめながらぽつりと言う。
 トマはちょうどそのとき「ああ、恐ろしや」と言いながら、未だ止まらぬ手の震えを抑え込もうとしていた。しかしリーの言葉を聞くなり、その震えはすっかり止まる。目をカッと見開き、ずいと身を乗り出した。

「それはいったい……」
「旦那様がいたんだなぁと思って」

 この娘はいったい何を言うておるのか、とトマは額を押さえる。

「奥様、と呼ばれているのですからね。つまり旦那様がいらっしゃるということですよ」
「そっか。あたし、家出っていったら厳しいお父さんとお母さんのせいでするものとばかり思ってたから」

 リーは少しだけ残念そうに言った。

「あたし、お父さんもお母さんも知らないから。厳しくてもお父さんとお母さんができるのって、ちょっといいなって思ったんだよね」

 続いた言葉に、トマは小さく鼻から息を吐き出す。

「……旦那様ではお嫌ですか?」
「ううん。結婚もしてみたかったから別にいいよ。旦那様かっこいいし。ちょっとしつこいけど」

 トマはリーの「ちょっと」という言葉にくいと眉毛を吊り上げた。リーはそれに気づく様子もなく、ベッドの端に腰かけてふらふらと揺れる。

「っていうか、旦那様ってご領主様なの? 前に偶然、街で見かけたことあるんだけど」

 その言葉に、トマはふーとため息をつく。

「それもご存じなかったのですか。ここは領主シルヴァスタイン様のやかたでございますよ」
「ご領主様のおうちが丘の上の森の中にあるってことは聞いたことあったけど。近くに来たことなんてなかったし、街からは森が邪魔でお屋敷は見えないし」

 さらにリーは、馬車の内装に感心したきり外を見ていなかったので、馬車が丘を上ってきたことにすら気づいていない。つくづく不用心な娘である。

「お屋敷を見ただけじゃ、ここがご領主様のおうちだなんて全然わかんないよ」
「そうでしたか」

 旦那様ことジュール・シルヴァスタインは郷紳ジェントリと呼ばれる地位にある。爵位こそ持たないが、その穏やかな性格と堅実な施策で領民から大変厚く支持されているよき領主だ。
 その領主が若い奥方に対してはこんな様子であることを知っているのは、領主の館で働くほんの一握りの人間だけ。緘口令かんこうれいが敷かれているわけではない。だが、旦那様の偏愛ぶりを口に出すのをはばかってか、立派で愛され続ける領主の醜聞しゅうぶんを誰も口にしたくないのか、はたまたその支持の厚さから領民の誰も信じなかったからか。ともかく、その話が領内に広まることはなかった。
 リーは不思議そうに問う。

「トマさん、あの人なんで家出したの?」

 トマは一瞬ぽかんと口を開けてリーを見つめた。

「奥様からお聞きになっていないのですか……?」
「うん。家出したいからマネしてほしいっていうのは言われたけど」
「いったいどうして一番はじめにその質問をしなかったのか不思議でなりませんよ……じきにあなたにもわかると思いますが……」

 トマは語る。

「旦那様は、奥様を愛しすぎているのです」

 トマの言葉にリーはゆっくりと首をかしげた。連動して、トマの首もかたむく。

「それって悪いこと?」

 首を斜めにしたままリーが言い、トマも斜めのまま答えた。

「いいえ? ただ、度がすぎますとね」

 そう言いながらトマは何か恐ろしいことを思い出したらしく、肉付きのよい背をわかりやすいほど大きく震わせる。

「度?」
「ええ、ご覧になったでしょう?」
「何を?」
「旦那様ですよ」
「見たけど?」

 リーの首はどんどんかたむいてゆき、トマもそれにならうものだから、二人の首はもうほとんど地面と平行になっていた。

「旦那様があんなご様子なので、奥様は疲れ果ててしまわれたのですよ」
「え? どうして?」

 そこでトマの首が限界を迎え、彼女は片手で首を押さえながら顔を元の角度に戻す。

「四六時中あのご様子ですからね。それに、奥様には……」

 トマは浅いため息をついた。

「人の気持ちというものは、周囲がとやかく言ったところでどうしようもないものですから」

 つまるところ奥様は、あの旦那様の暑苦しさに嫌気がさしてこのお屋敷を出て行ったということだ。そして、あの様子から察するに、黙って奥様を見送ってくれる旦那様ではないだろう。そこで奥様はやむなく、替え玉を立てて逃げ出すことにしたらしい。

「ふうん? 持ち上げてぐるぐるされるのに疲れちゃったの?」

 リーは依然として不思議そうで、よくわからないというようにつぶやく。
 持ち上げてぐるぐるという行為一つが問題ではない。旦那様の言動、すべてが鬱陶うっとうしすぎるのだ。
 しかし、これ以上どうやって説明すればいいのかわからなくなったトマは小さく首を振った。

「じきにわかりますよ」

 トマは、痛ましいものでも見るように顔をゆがめる。
 リーのことが心配になったのだろう。なんたって、リーはこれからそれを経験することになるのだ。本物の奥様が、替え玉を立ててまで逃げ出すくらいに嫌がった、このお屋敷での生活を。
 トマの心配をよそに、リーはうーんっとのんきな声を上げ、伸びをした。

「いいのかなぁ、こんな広いお屋敷に住めて、あんなにかっこいい旦那様までもらって」

 あ、でも抱きしめる力をちょっと弱めてくださいってお願いしないと背骨がいつか折れちゃいそうだなぁ、と笑う娘を相手に、トマは一度大きく身震いをした。そして、なんとかして現状をわからせなくてはとリーの細い両の肩を力強くつかむ。

「いいですか。覚悟をお決めいただかなければなりません。旦那様が領内の視察からお帰りになった今、平和な時間は終わりを告げたのですから」

 トマの表情はすっかりおびえきっていた。大きな目は見開かれ、唇はめくれあがり、リーの肩を掴む手はぶるぶると震えている。
 そんなトマを見たリーもおびえはじめて、「もしかして旦那様はひどくムチ打ったり折檻せっかんをなさったりするのでごじゃりましょうか」とおかしなことを口走った。
 トマは一気に脱力する。

「折檻……まぁ、近いものがあるかもしれませんが……。夜の旦那様といったら、全く野獣……私がうまくしておきますから、数日はなんとかなるでしょうが……」

「野獣」という言葉を聞いた途端、リーの顔が恐怖にゆがんだ。

「夜……野獣! トマさん、それってまさか……!」

 急に蒼白あおじろい顔になって震えはじめたリーの背中をトマは優しくでた。
 しかし、「うわぁどうしよう、血、足りるかな……吸血鬼っていったいどれくらい血を飲むんですか」というリーの言葉に動揺し、はからずもリーの背に力強い一撃を加えてしまったのだ。
 ――こほっ。
 リーが涙目でせきみ、ようやく自分のやったことに気づいたトマは、「申しわけございません、つい」と言いながら、すまなそうにその背中を再び撫でた。

「でも、吸血鬼だなんてそんなメルヘンなものではないのです」
「吸血鬼のどこがメルヘンなの」

 リーの疑問はもっともである。
 だがまぁ、夜になるとかんおけから這い出て人の血を吸う、生きてるんだか死んでるんだかわからない奴を「メルヘン」と言い切ってしまうのだから、旦那様の恐ろしさたるやして知るべし。

「だいたい、どうして吸血鬼が出てくるのですか」
「だってあたし、野獣っていったら吸血鬼か狼人間しか……はっ、まさか……」

 また明後日な理由であおめた娘に、トマは呆れていた。

「旦那様は狼人間でもありません」
「そっか、よかった」

 なぜかリーはほっとした顔をする。
 何が「よかった」のか全くわからない。この娘はこの世の怖いものというと吸血鬼と狼人間しか知らないのか。

「どうして吸血鬼と狼人間なのですか」
「小さいころにしてもらったお話に出てきた怖い怪物がその二つだったから」

 随分とバリエーションの少ない怪物である。物語に登場する怪物ならば、ほかにもドラゴンとか魔女とかミイラ男とか、たくさんいるというのに。

「そう……ですか」

 もはやどこから突っ込んだものかと、トマは額に手をやった。

「……今にわかりますよ」

 頭からつま先まで、ぶるぶるっと震えあがったあとトマは言う。
 しかし、街で突然声をかけられ、簡単に替え玉を引き受けてしまうくらいだから、リーの能天気さもまた、推して知るべしである。リーはそれ以上何も尋ねず、「ふうん、そっか」で話を打ち切ってしまった。

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