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第一章 蛍邸
3 光る玉
しおりを挟む「小式部には見えたのよ」
再び、ひそひそと、百合根が囁く。
「小式部……私の前任の方ですね」
沙醐は身体を硬くした。前任者の女房は、心を病んで、お邸を退いたと聞く。
百合根は、大きくうなずいた。
「あの子、いろいろ、言ってたのよね。一の姫の局が毛虫でいっぱいだとか、二の姫が、空に舞い上がって、踊ってたとか。……馬鹿げた冗談よ。そんなこと、ある筈がないでしょ。それが、先月の雷の日、お庭に青鬼が落ちたと叫んで、それっきり……」
「それっきり?」
「実家に逃げ帰っちゃったのよ」
「するとその、小式部という方は」
「頭が弱かったのね」
あっさりと百合根は言って、碗を下に置いた。
「男出入りも激しかったし。あなた、通ってくる殿方とか、いらっしゃる?」
「いえ、私は、そんな」
沙醐は顔を赤らめた。
男に頼るのは嫌いだが、恋愛はしてみたい。
沙醐は、いつか、たったひとりの誰かに会える日がくると信じている、結構まじめに。
「あら、残念」
トウの立ち切った百合根が、さらっと言った。
「あんまりたくさんの殿方との同時進行は困るけど、一人二人なら、いらした方がいいのに。このお邸は、マトモな殿方に縁がなくてね。ま、姫さまたちがあのようでは、仕方がないのかもしれないけど」
沙醐は、さっき見た、丈の高い雑草に覆われた荒れた庭を思い出した。あれでは、どんなに美人がいても、外から見えよう筈もない。
恋は、垣間見から始まるのに。
透垣が、あのように、隙間だらけに竹や板を組んであるのは、その為だ。
中の美女がよく見えるように。
……でも、このお屋敷の透垣は、崩れかけてたわ。
垣間見どころか、丸見えである。ちらと見えるから、いいのである。全部見えたら、興ざめだ
……だから、お庭を、草ぼうぼうにしてあるのかしら。
しかし、いずれにしろ、このような荒れたお屋敷に、美女がいると思うだろうか。
その時、几帳のかたびらが割られ、白く光るものが飛び込んできた。
「百合根さま、百合根さま」
一向に動ぜず、白湯のおかわりなどを継ぎ足している百合根の袖を、沙醐は強く引いた。
「ただいま、何かが几帳の内に、入り込んでまいりました」
「え? 何が?」
百合根は、おっとりと構えている。
「何か、光る白い玉のようなものが……」
「気のせいじゃないの?」
百合根の声に被さるように、ぱたぱたという軽い足音が聞こえた。渡殿を渡って、近づいてくる。
「マロの生き須玉はどこ!」
飛び込んできたのは、まだ年端もいかぬ、垂れ髪の童だった。完膚なきまでに着崩してはいるが、直衣と袴を着用し、彼が、ただならぬ身分であることを示している。
「うぬ、見慣れぬ奴。何者!」
沙醐の姿を認め、間髪を入れず、左手に持った補虫網を差し向ける。太刀でも差し向けるような、仰々しい物腰である。
振り上げられた棹の先から、目の細かい網が、だらんとたれ下がった。
よく見ると、右手には、虫かごも下げている。
「まあ、若さま。無粋でございますぞ」
落ち着き払った様子で、百合根がたしなめた。しかし、その百合根の手が、がたがた震えているのに、沙醐は気づいた。
「蛍に触られたら、御手をお洗いになりましたか」
「蛍じゃない、生き須玉だ。大きいかごに移そうとしたら、飛んで逃げちゃったんだ」
「お手は? お手は、おきれいですか?」
「……手は、まだ洗ってない」
「では、これで、お拭きなさいませ。水で、湿らせてございます」
いつの間に用意したのか、濡らした手拭布を差し出だす。
子どもは素直に布を受け取り、両手を拭い始めた。
「こちらは、沙醐。新しい女房です」
「沙醐にございます。どうぞ、よろしゅう……」
沙醐は慌てて頭を下げた。
……それでは、この方が、若様……。
邸には、他に、二人の姫君がいるはずだ。
「一睡じゃ。見知りおけ」
男の子は、言い放った。百合根に対するのとは違い、ひどく尊大な態度だ。
彼は、几帳のうちを、きょろきょろと見渡した。
「ここに、生き須玉が飛んできた筈だけど」
「生き須玉というのは、あの、白く光る玉のことでございますか?」
おずおずと、沙醐は尋ねた。
「お前、見えるじゃないか。百合根は、見えないと言うんだ」
「何をおたわむれを」
ゆったりとした口調で、しかし、その眼はどうにも落ち着きを欠いて、百合根が口を挟んだ。
「それより、一睡様。甘いものでもいかがですか? 干し柿がございます」
戸棚をごそごそと探っている。
「干し柿。うん、ちょうだい」
その時、几帳の隅から、白い光がぱっと飛び立った。
「あ、あそこに!」
沙醐が指差したのと、一睡と名乗った少年が飛び上がったのは、ほぼ同時だった。
「こら、生き須玉。待て!」
几帳から垂れた絹布を割って、白い玉が、続いて補虫網をふりかざした少年が、元気よく飛び出していった。
「百合根さま……」
振り返った沙醐は、びっくりした。百合根が、両手にしなびた干し柿をしっかり握り締め、口から泡を噴いて倒れていたのだ。
「百合根さま、百合根さま。誰か、誰かー!」
ここが平安貴族の邸宅だということも忘れて、沙醐は、力いっぱい叫んでいた。
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