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両肩に掛けられた手

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 「シグモント! 帰ってきたんだね。よかった!」
「ただいま、シュテファン。まだ起きていたの?」

 シュテファンは、大家の婆さんの孫だ。俺とそう年齢が変わらない。

「俺を年寄り扱いするなよ? そうそう早寝してたまるか。夜はいつも、君のことを思って遅くまで起きているのだ」

 そう言ってシュテファンは胸を張った。要するに、夜更かしの言い訳だ。大家の婆さんは、ランプの油代がもったいないから、孫の夜更かしをひどく嫌っている。

「そんなことより、シグモント、無事でよかった。今まで一体どこへ行ってたんだい?」
「ちょっと仕事」

 嘘ではない。俺は除霊の仕事でエシェク村へ行って、それから……。

 シュテファンが俺の背後に目を走らせた。そこには、隠隠滅滅とした気配を漂わせ、トラドが立っていた。
 シュテファンが俺の耳に口を寄せた。

「彼は誰だい? 随分陰気な人だね。陰気っていうより、もういっそ化け物じみているというか……」
「怖がらせてしまってすみません」

 内緒話のつもりがしっかり聞かれてしまい、シュテファンは飛び上がった。

「この人は、トラドさん。僕をここまで送ってきてくれたんだ」
俺が紹介すると、暗く陰気にトラドは頭を下げた。
「それでは私はここで」
馬車に戻ろうとする。

「いやいや。もう夜遅いでしょ。泊まっていきなさいよ。空いてる部屋を用意するから」
 シュテファンが引き留めた。
「いえ、私は夜の移動の方が楽なのです」
「けれど、王都は治安が悪くなってますよ。賊や盗っ人にでも襲われたら大変だ」
「平気です。返り討ちにしますから」
 無表情でトラドが言い、シュテファンはたじたじと後じさった。

 トラドが送ってくれると言った時、正直、俺は怖かった。だって、ヴァーツァに捨てられたら、トラドに襲われるのだから。

 彼と同じ馬車に乗せられ、道中、気が気ではなかった。けれどトラドは、一度も俺を襲おうとしなかった。それどころか礼儀正しく御者台に座っていて、客車の方には全く顔を出さなかった。
 今も、俺を長屋に送り届けるや、即座に屋敷へ戻ろうとしている。

 シュテファンが大あくびをしながら、別棟にある自分の家に帰っていくのが見えた。

「トラド。君は俺を吸血鬼にするんじゃなかったの?」
 御者台へ登ったトラドに近づき、小声で尋ねた。
「ええ、その時が参りましたなら」
 御者台から、トラドの気の滅入るような暗い声が降ってくる。
「今が、その時なのでは?」

 重ねて問う。だって俺は、ヴァーツァに追い出された。
 憂鬱そうな声が返ってきた。

「何をおっしゃいますやら。シグモント様は依然、ご主人様のものでいらっしゃいます。トラドには、貴方様の両肩に、ご主人様の手が掛かっているのが見えます」
「怖っ!」

 思わず自分の両肩を確認してしまった。もちろんそこに、ヴァーツァの手なんか、見当たらない。
 というか、ヴァーツァは俺を追い払った。それはもう、完全に。

 そもそも二人の間には何もなかったのだけれど。
 けど、それは何の慰めにもならない。

「比喩でございます。私は、強引に貴方を仲間に引きずり込んで、ご主人様の不興を買いたくありません。そんな恐ろしいこと……ゾンビ共にも叱られます」

 ゾンビというのは、カルダンヌ家の使用人たちのことだ。

「彼らが平和に暮らせるのは、貴方様がいらっしゃるからこそ。カルダンヌ公爵の御心を鎮めるのは、シグモント様にしかできません。それなのに、公爵様の手から貴方を奪い取るなど、一介の吸血鬼にできるわけがありません」

 謎のような言葉を残すと、トラドは馬に鞭を宛てた。

「それでは、また、シグモント様。いずれ私と同じ命を生きられますよう、どうか神にお祈りを捧げておいてください」
「神だって?」

 なぜここに神が? というか、吸血鬼が神に祈れ、だって?

「わたくしが祈ると嫌がられますから」
「君は、他力本願の権化だね」

 俺の皮肉が聞こえたかどうか。不意に、トラドがみじろぎをした。

「そうだ。さっきの彼にご注意ください」
「さっきの彼? シュテファンのこと?」
「はい。それと、もう一方ひとかた、王都警備軍の詰め所にいらっしゃる方にも」

 誰だそれは? もしかして、ジョアン?

「それ、どういう……」

 俺の言葉はトラドには届かなかったようだ。彼を乗せた馬車は、あっという間に、夜の闇に紛れて行った。






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