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背中の傷

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 「ダメですよ。何もしませんからね」

 書斎に戻ると最初に念を押した。ドアを閉め、足音を忍ばせて近づいてきたヴァーツァは、がっくりと肩を落とした。

「だって、君は俺が好きなんだろ?」
 誰がそうです、なんて言うか。
「バタイユがすっ飛んで帰って来ます」
「だから、見られても平気だって言ったろ?」
「平気なのはあなただけです!」
「バタイユも平気だ」

 俺はため息をついた。変態兄弟め。

「傷はもう、すっかりいいんですか? 熱が出たり、傷が痛んだりすることは、もうないんですか?」
「心配してくれるのか? 嬉しいなあ」
「一番大きな背中の傷は? 本当なら致命傷になったんでしょう? バタイユがいなかったら」

 何気なく言うと、ヴァーツァははっとしたような顔になった。
「背中の傷? 違う。一番大きいのは、胸の傷だ」
若干上ずった声で言い募る。俺は首を傾げた。
「胸の傷は完治していますよね? 最後まで貴方を苦しめていたのは、背中の傷だ」

 この館でヴァーツァは、俺が見る限り、いつも横向きかうつ伏せで寝ていた。仰向けの寝姿は見たことがない。
 それは、背中の傷が治らないからだ。

 ガラスの柩、もとい、養生箱の中では、ヴァーツァの下には紫の薔薇が敷き詰められていた。バタイユの話では、紫の薔薇は奇跡の花で、養生箱の花々には、さらにバタイユの魔力が封じ込まれていたという。
 ヴァーツァの背中はその薔薇を下に敷いていた。恐らく、魔力が最も取り込められるようにという配慮だったのだろう。

「胸の傷はもう、治ったんでしょ? 前に僕が貴方の胸を叩いた時、貴方は少しも痛がらなかったし、胸を庇おうともしなかった」

 使用人からろっ骨を取る取らないで言い争った後、ヴァーツァは、そんなことよりもっと大事なことがあると言って、俺を抱きしめようとした。腹を立てた俺は、彼の胸を思いっきり叩いたわけだが、ヴァーツァは痛がりもしなかった。

「どうしていつもいつも、貴方は胸の傷ばかりを強調するのか、不思議に思っていました。痛いのは、背中の傷でしょう?」
「…………」

 饒舌なヴァーツァにしては珍しく、彼は口を噤んでいた。じっと俺を見つめている。紫色の目が激しく葛藤しているのが見て取れた。

「あ、いいんですよ? 言いたくなければ無理していわなくても」

 前に自分が言われたことを繰り返した。軍を辞めた理由を問われた時だ。あの時ヴァーツァの声は、とても優しかった。人には、踏み込んでいけない領域があるんだ。それは、守らなくちゃいけない。

「いや、」
ヴァーツァは首を横に振った。
「俺は嬉しいんだ。シグモント、君は随分よく、俺のことを見ていてくれるんだね」
「べ、別にそういうつもりじゃ」
声が上ずった。本当にこのきれいな男は!

 ヴァーツァは、俯き、それからすぐに顔を上げた。俺の目線を捉え、一直線に見つめ返してくる。

「だから、俺も正直に話すよ。もう、君を騙したりしない」
「騙そうとしてたんですか?」

 ヴァーツァになら騙されてもいいけど、でも、騙されてばかりはいやだ。

「うーん、騙すは言い過ぎかな。恥ずかしかったんだ。背中の傷ってそういうもんだろ?」
「?」
「軍においては」
「ああ!」

 ……背中の傷は、後ろから襲われた証。勇気ある戦士なら、敵に後ろを見せたりしない。

「でも、そうとばかりは限らないでしょ。卑怯な騙し討ちだってあるし、敵に囲まれてしまった場合だってあり得る」
「確かに敵に包囲されてはいたが……。でも、背後を襲われたことに代わりはない」
「ちょうどいい。僕は、戦争の報告書を書くんですよね。その時のこと、詳しく話してください」

 カルダンヌ公の戦死については、当時まだ王子だったアンリ陛下を庇って死んだ、ということしか伝わっていない。

 ……ああ、こうやって俺は、ヴァーツァの仕事を引き受けてしまうのだな。また、なし崩し的に彼の傍にいるわけだ。
 ちらっとそう思った。
 けど、後の祭りだ。もとい、本当は嬉しい。自分の希望ではなく、ことが。

 ヴァーツァは、不安と希望の入り混じった顔をしていた。この人の心を少しでも軽くできたらいいな、と思う。






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