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9 カイロからダミエッタへ
しおりを挟むドゼがいなくなってからも、上エジプトは穏やかな日々が続いていた。シェリフたちの指導の元、フランス軍の築いた平和が維持された。マムルークのムラド・ベイは、表立って協力することはなかったが、以前のように略奪に来ることもなくなった。逆に盗賊やメカン(アラブ人のイスラム教徒)を征伐したりしていた。(※)
上エジプトでは、全てがうまくいっていた。
間もなく、ドゼの副官3名が、首都に呼ばれた。一緒に召使の同行が許された。その中に、俺とイスマイルも入っていた。
俺達を呼び寄せたくせに、カイロに着くと、ドゼは留守だった。ダミエッタにオスマン常備軍が上陸し、その討伐に派遣されていたのだ。
しかし、彼が到着した時、既に戦闘は終わっていたと手紙が届いた。ヴェルディエ将軍が、1000の手勢で8000のトルコ軍を破ったという。ちなみに、彼の奥さんは、夫の行く先には必ず同行するので有名だ。女性同伴は不可のはずのエジプトにも、一緒に来ている。
せっかくダミエッタに来たのにやることがなくなってしまったから、メンザレ湖(現スエズ運河にある)とブルロス湖を回って帰ると手紙が来た。
ドゼらしいと俺は思った。彼は旅が好きなのだ。
ところでカイロから港町ダミエッタまでは、水路ですぐだ。そして地中海に出てしまえば、シドニー・スミスの戦艦ティグル号が航行している。フェリポーだった俺が死ぬまで共に戦った同志の船が。
彼の元には、王党派の仲間も何人かいる。
シドニー・スミスと接触したいと思った。
上エジプトを出てから、俺とイスマイルは大抵、一緒にいた。だがある日、彼に内緒で、カイロの町へ出ていった。
ボナパルトのシリア遠征の余波はこの町にも伝わり、町は不穏な雰囲気に満ちていた。フランス軍への反感も、日ごとに高まっている。
埃じみた砂色の低層の建物が延々と連なり、大きな甕を頭に乗せ、ヒジャブ(布)で顔を隠した女性が通り過ぎていく。
カイロでは、去年の秋にも大規模な反乱があった。ボナパルトは市民を含め、暴徒の多くを処刑した。表面は従順だが、この町は決して、フランスの支配を認めてはいない。
船着き場で、俺は、海へ向かう商船を見つけた。けれど船に乗るには、船賃が必要だ。上エジプトで暮らしていた身では現金など持ち合わせがない。
途方に暮れたが、ふと船主が、じっと俺の胸元を見ているのに気がついた。彼は、服に縫い付けられたボタンを見ていた。
エジプトの現地人たちは、ボタンに熱狂していた。そういえば、上エジプトのフランス兵の中には、軍服の前がだらしなく開いていたやつがけっこういた。司令官自身が、服装に頓着しないので、あまり目立たなかったけど、あれは、酒や嗜好品などとの交換で、ボタンを現地人に渡してしまったのだろう。
そういうわけで、河風に服をひらひらさせながら、首尾よく俺は、港町ダミエッタに到着した。
だが、これからどうしよう。いつ、シドニー・スミスのティグル号またはテセウス号は、ダミエッタに寄港するのか。
郵便局の前まで来た時だ。
見覚えのある男がいた。
フランス人だ。
「ド・トロムリャン!」
背後から声を掛けると男は飛び上がった。
「驚かせて済まない。俺だ。フェリポーだ」
「……………………」
見たこともない、自分とは人種の違う少年が、秘密の仲間の名を名乗ったのだ。トロムリャンの顔は、猜疑に歪んだ。
「どうせまた、奥さんの手紙が来ていないか確かめに来たのだろう? 手紙なら、直接ティグル号に届けられると、シドニーが言ったじゃないか」
「だって彼女はフランスにいるんだよ? もしかしたら、普通のルートで手紙を出したかもしれないじゃないか」
反射的に言い訳してから、彼は、まじまじと俺を見つめた。
「シドニー・スミス卿に会いたい。ティグル号に連れて行ってくれ」
断固として俺は要求した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
※この後ムラド・ベイは、クレベール(ボナパルトの後任の最高司令官)から上エジプトを任せられます。彼はフランス軍に味方し、イギリスとトルコ皇帝からの協力要請には応じませんでした。為にインドから来たイギリス軍の増援部隊は、紅海から上エジプトの砂漠を横切るルートを使えず、苦戦を強いられました。(その後、フランスが負けそうになると、トルコ大帝にとりなしてくれるよう頼んだシドニー・スミス宛ての手紙をベドウィンに託します。その手紙を書いた3日後、彼はペストで亡くなりました)
ムラド・ベイは、エジプトで行われたドゼの葬儀式典に参加したそうです。
◇シリアの地図です
◇バキルもイスマイルもハーレムの女の子たちも実在しますが、バキルが単身ダミエッタへ向かったというのはフィクションです
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