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Ⅳ 祖国へ

握り合った手のぬくもり

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 こほん。
 咳払いが聞こえた。

 背中の痛みと酸欠と陶酔で半分意識を失っていた俺は、はっと我に返った。
 全力でシャルワーヌを突き飛ばす。

 まだ夢の中にいるような瞳をして、シャルワーヌが両腕を伸ばしてくる。
「やっとエドゥの気持ちがわかった……俺に対する優しく強い愛が。もう放したりするもんか!」

 「この、愚か者!」
一喝したのは姉だった。コラールは仁王立ちして、弟を睨んだ。
「そういうことは、ふたりきりの時に思う存分やりなさい。ここには小さな子どもだっているのよ!」

 「フェリシン大使!」
 兄の目隠しからようやく解放されたロロが飛んできた。俺の周りをぐるぐると走り回り、黄色い声で叫ぶ。

「大変だ。フェリシン大佐が涎だらけになってる! ユートパクスの悪魔に嘗められたんですね! どうしよう。悪魔に嘗められたら、体が溶けてしまうんだ! すぐにお風呂に入らなくちゃいけません。さっそくお湯の用意をしてきます!」

 びしっと敬礼し(そこだけは立派だった)、ロロは走り出した。
 そういえば、ジョシュアら海軍士官候補生らミッドシップメンは、シャルワーヌのことを悪魔呼ばわりしていたっけ……。

「おおい、風呂はいいよ。傷にしみるから」

 体についたシャルワーヌのにおいを洗い流したくないと言ってたら、呆れられるだろうか……。
 ロロは振り返ったが、聞こえたかどうかはわからない。そのまま、走り去ってしまった。


 こほん。
 静かになった室内で、再び、フランが咳をした。

「まず、君に尋ねたい、フェリシン大佐。オーディン・マークスの即位に、賛成か?」

「反対に決まってる」
即座に俺は答えた。
「われらが国王陛下以外の者が王位に就くなぞ、神が許される筈がない」

 無言でフランは頷いた。
「貴方は、シャルワーヌ将軍」

 シャルワーヌは俯いた。その手が、俺の手を探り、握りしめる。
「信じられなかった」
低い声が言った。

「王を追い出し、この国は共和制になった。国民すべてが平等になったのだ。王制にこだわる諸外国から、ユートパクスを守るべく、長い革命戦争を、俺たちは戦ってきた。東の国境で。未開のソンブル大陸で。だが……なぜ再び、王なのか」

「ただの王ではない。オーディンが成り上がったのは、皇帝だ」
フランが補足した。

 シャルワーヌが頷く。
「しかもその皇帝は世襲だという。皇帝即位までは、もしかしたら、許せたかもしれない。だが、世襲……それは、絶対に、あってはならないことだ」

 その時、俺の心に、暗い疑惑が灯った。
 世襲ということは、つまり、オーディンには、結婚し、子どもを作る用意があるということだ。

 シャルワーヌが非難しているのは、オーディンが、ということなのではないか……。

 その時、手が、ぎゅっと力強く握られた。すべての疑いを払拭し、不安をかき消すほどの、強く、暖かい力だった。
 揺らぎのないしっかりとしたまなざしが注がれているのを感じる。

 頬が紅潮した。
 俺は、自分を恥じた。シャルワーヌを信じ切れなかった心の弱さを。


 「ユートパクスの王位は、神から授けられた、神聖なる王権だ。我々蜂起軍は、だから、国王陛下にお帰り頂き、聖なる王位を奪還しようと……」

 言いかけたフランの言葉を、途中でシャルワーヌが遮った。
「無駄だ。あの太った王様ブルコンデ18世に、帰国の意志はない。リール代将が直接会って、確かめた」

「ラルフが?」
思わず俺は繰り返す。

「そうだ、ラルフ・リールだ。さっき言ったろ。彼は俺が療養中に訪ねてきた。姉上を連れて」

 ラルフの名前を口に出す時、シャルワーヌの掌に、鋼のような力がこめられた。骨が砕けそうなほどの力だ。

 負けないくらい強く、俺も彼の手を握り返した。ジウの手は小さく柔らかい。けれど、決して挫けることのない力で、そして、体温を超えた熱を込めて。

 何かが伝わったのか。シャルワーヌが潤んだ目を向けた。
「あの王は、当てにならない。だから俺は、本当に君が心配だったのだ、エドガルド」

「すまなかった。心配かけて」
素直に俺は頭を垂れた。

 シャルワーヌは頷き、フランに向かった。
「気の毒だが、王党派蜂起軍の戦いは、無益に終わるだろう」

フランはむっとしたようだ。

「たとえ無益であろうと、王党派には聖なる主張がある。王位は、神から授けられたものだ。俺たちが奉じているのは、神への信仰、そのものなのだ。既に大勢の仲間が、信仰の為に殺された。自分たちの主張を守る為に死んだのは、革命軍の兵士達だけではない」

「そうだな。だが、以前と同じ王が戻ってくるというのは、幻想だ。一度覆った世界は、二度と元にはもどらない。ブルコンデ18世が、この国に帰って来ることはない」

「なら、何の為に俺たちは……!」
フランが絶句した。一方で彼には、腑に落ちた面もあるようだった。

「……そうか。だから陛下は、俺たちが何度要請しても、決して、帰国の日程を教えて下さらなかったのか」
 はっと顔を上げた。

「暗殺計画は? ブルコンデ18世は、オーディン・マークス暗殺計画があると書き送ってきた。だから軍部を掌握せよ、と……」

 深いため息を、シャルワーヌはついた。

「暗殺は、失敗したよ。それが王党派の犯行であることさえ、政府は掴んでいる」
「なんだって!? で、オーディンは!? 彼は無事だったのか?」

 よく考えれば、オーディンは今、戦場にいる。彼が暗殺を免れたことは、一目瞭然だ。しかしこの時の俺は、動転していた。オーディンの無事を確かめずにはいられなかった。

 苛立たし気な眼差しをシャルワーヌが俺に向けた。
 なぜだかわからない。
 たしかにオーディンは恋敵だが、それは、俺の恋敵だ。シャルワーヌのではない。同級生の心配をしたらいけないのだろうか?

「彼は廊下に出ていて、無事だった」

 オーディンがクルスへ出陣する前、首席大臣室に、火薬の詰まった樽がおかれていたのだと、シャルワーヌは話した。
 彼も秘書官から聞いたらしい。

 樽は爆発し、気の毒に、従者と事務官数人が爆死した。

「よかった……いや、犠牲者が出たのはよくないが……」
 思わず俺はつぶやいた。
 とりあえずオーディンは無事だった……。

 再び、シャルワーヌが唇をぐっと結んだ。すぐに、何事もなかったかのように、話しだす。

「あれは、王の側近たちが企てた暗殺だ。ブルコンデ18世自身は、さほど乗り気ではなかった。しかしこれにより、王党派蜂起軍を一網打尽にする口実を、政府に与えてしまったことになる。フラン、君の軍だ」

 雷に討たれたように、フランの体が硬直した。

 すでにオーディンは、王党派に恩赦を与えている。一方で、「反抗的な王党派」、即ち自分の意に染まない王党派は、見つけ次第処刑すると明言していた。
 そしてさらに、オーディン・マークス暗殺計画……。

 俺はぞっとした。
「このまま……、このまま続くのか? 王党派と政府軍の戦いが。政府軍と諸外国との戦争が?」

「『終わらせるよ』」
 シャルワーヌは言った。東の国境での別れた時、そのままに。
「『俺が終わらせる』。エドガルド、君と共に生きていくために」

 しっかりと俺に目を据えてから、彼は目線を横に移した。その先にはコラール、彼の姉の姿があった。






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