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Ⅳ 祖国へ

ロロの密航 1

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 恐怖も心配も憂いも。
 嫉妬も悲しみも怒りも。
 すべてを置き去りにして、船はイスケンデルから出向した。

 空は晴天、波穏やかな、またとない門出だ。
 そうだ。門出だ。王の為に全てを捧げるのだ。


 俺はいつまでも甲板に残って、遠く離れていくザイードの岸辺を眺めていた。

 この大陸で、一回死んで、再び生き返った。全くの別人の体を借りて。そして、自分にとって、最も大切なものを失った。それなのに、むしろ晴れやかな気分でいる自分に驚いている。

 解放された気分だった。それに、安堵。だって俺はシャルワーヌを、考えられる限り、最も安全なところへ送り込んだ。オーディン・マークス、ユートパクスの首席大臣となった男の元へ。

 この戦乱の時代を、とりあえずシャルワーヌは、生き延びていってくれるだろう。その為なら、オーディンとの関係など、二の次だ。

 シャルワーヌの無事、そして生存。それ以上のことを、俺は望まない。


「フェリシン大佐」
 舷側にぶつかり白くはじけ飛ぶ波頭を眺めていると、タルキアなまりのガラガラ声で呼びかけられた。この船の船長、シャルキュ太守の部下だ。

「密航者が忍び込んでいたぞ」
「密航者だって!?」

 驚いて振り返ると、項垂れていた小さな頭が持ち上げられた。屈強な海の男たちに羽交い絞めにされていた少年が、負けん気の強い目をして、唇を噛みしめている。

「ロロじゃないか!」

 ラルフの士官学校候補生ミッドシップマン、ロロだった。ラルフの甥ジョシュアの、新しい悪友だ。

「なぜここに?」

 敢えて厳しい声で問い掛ける。特に海の上では、規律は守られねばならない。ほんの小さな叛意が、重大事故に繋がるからだ。ことは、命に関わるのだ。

「リール代将から手紙を書くよう言われました。西海岸のフラン将軍……僕の兄へ」
 張りつめた声が答える。

「君が書いた手紙は受け取った。リール代将ラルフの秘書官を通じて」
「お願いです、フェリシン大佐。僕も連れて行って下さい。兄さんに会いたい」
「だが、リール代将からは許可が下りていない。君がしたのは、密航だ。密航は重罪だぞ?」

 気持ちはわからないでもないが、けじめは必要だ。いくら幼くても、海軍の掟には従ってもらわなくてはならない。

「そやつは、厨房の倉庫に忍び込んでいたのだ」

「ひえぇーーーーっ、お許しください!」
 船長が言うが早いか、男たちの後ろの方で悲鳴が聞こえた。前へ突き出されたのを見ると、船のコックだった。
 泣きながらコックは喚いた。

「ラム酒の樽に忍び込んでいたのでございます!」
「ラム酒だと? おい、酒の方はどうなった?」

 俄かに船長が慌てだす。酒は、樽一杯に詰め込まれる。少年が忍び込んだとあらば、当然、その酒は外へ出されたわけで……。

「ご安心ください。単純に樽がひとつ、積み荷に追加されただけでございます」
「一つ増えた樽に気づかず、船に運び込んだというのか?」
「気がつかなかったのでございます。他の二人の少年に気を取られていて……多分、あの時でございます。この子が入った樽が追加されたのは!」
「気がつかなかったで済むか! 管理不行き届きである」

 怒り冷めやらぬ船長が怒鳴り散らす。今にも三日月刀を振り回しそうな彼を、俺は制した。
 他の二人の少年? 嫌な予感しかしない。

「待て。いったいどういう状況だったんだ?」

 ようやく話を聞いてもらえると思ったのか、コックは一気に話し始めた。

「出航間近のことでございました。生鮮食料の荷積みをしておりましたら、アンゲル人の少年が二人、やってきたのでございます。彼らは船乗りだと自己紹介して、うらやましそうに、野菜の入った籠を見ておりました。なんでも彼らの船では、ろくな食べ物が出されないそうで……特に、新鮮な果物や野菜が。そのうちの一人は、くるくるした金色の巻き毛に青い瞳の、大層、可愛らしい少年でした」

 俺は頭を抱えた。
 ジョシュアだ。金髪に青い目。叔父ラルフにそっくりの甥だ。間違いない。

「ただでさえ、アンゲルの料理はまずいのに、まだ年端もいかない子どもがろくなものを食べさせてもらえないと聞くと、もう気の毒で……。つい、食べ物を与えてしまったのです。なに、野菜の切れ端です。どうせ港へ捨てていく屑です」
 慌ててコックは言い添える。

「少年たちは大喜びでした。ああ、あの天使のような笑顔! 船長様がご覧になったら、きっと私めのしたことを褒めて下さったでしょう!」

「褒めんわ! 太陽神ラーマは、少年に手を出すことを禁じていることを忘れたか!」
船長が吐き捨てると、コックは慌てた。

「誓って、よこしまな気持ちは一切ございませんでした。純粋に、育ち盛りにも関わらず、食べられればいいというレベルの料理で腹を満たす少年たちが気の毒で……」

「なら、その金髪碧青眼の少年が悪魔だったと申すのか? 彼の方から、お前を誘惑しようとしたのだな?」

 船長は意外と、真実を突いている。確かにジョシュアは悪魔だ。もっとも、船長が言っているような意味ではないが。

「いえ、彼はやっぱり天使だったようです。なぜなら、ラーマ神の制裁は、もう一人の藁色の髪の少年に下ったからです。久しぶりに食した新鮮なキャベツが当たり、彼は、腹を下したのでございます」
「なんだと! 船に積む糧食の前でか!?」
「いえ、最悪の事態は回避しました。私は彼を港の厠に連れて行き……」

 その隙にジョシュアが、もう一人の友人ロロの入った樽を、積み荷の中に混じり込ませたのだ。

「お前への罰は後で考える」

 船長が告げると、コックは絶望的な顔になった。
 思わず俺は割って入った。

「斬首はダメだ。投石などの死刑も、もちろん。ムチ打ちもしてはいけない」
「俺の船の中で起きたことに口を出すな」

 すごい迫力で船長がどやしつけてきた。ロロが怯えたように首を竦める。
 成人したとはいえ、俺も未だ少年のような体つきをしている。だが、前世の俺は軍人だ。罵声ごときに怯むわけがない。
 冷静に指摘した。

「ことが起きたのは、港の荷積み場だ。船の中ではない」
「それは……そうだが」
「それに、コックは巻き込まれただけだ。彼が密航を企てたわけではない」
「うん、そうだな」
「第一、腕のいいコックがいなくなったら、君らだって困るだろ? 拷問で体が利かなくなっても同じことだ。彼は、シャルキュ太守の自慢のコックだというぞ?」

 俺を乗せるに当たり、シャルキュ太守は、ことさらに腕の立つコックを乗り組ませてくれた。彼のせいいっぱいの好意と、はなむけだという。

「慣れない航海でのハプニングだ。今回のことは不問に付してやれ。いいな」
「……わかった」

 しぶしぶと船長は頷いた。コックは拘束を解放され、ほっとしたように厨房へ戻っていった。






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