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Ⅲ 東と西の狭間の国

オーディンの回想(エドガルドとの再会1)

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 密かにザイードを脱出し、ユートパクスに帰り着いたオーディン・マークスは、軍を率いてクーデターを起こした。革命政府を転覆させ、ユートパクスの権力を掌握した。
 今、彼は首席大臣を名乗っている。

 そのオーディンの元へ、かつてこの国を治めていた王の弟グザヴィから、使者が送り込まれてきた。

 革命で処刑されたブルコンデ16世の弟グザヴィは、いち早く、国外へ亡命した。諸国を転々と逃げ回った彼は、ブルコンデ18世を名乗り、ユートパクス亡命王朝をてていた。17世は、行方不明の兄の息子の為に、空位となっている。


 「ブルコンデ18世陛下におかれましては、オーディン・マークスのご功績を深く讃えておられます」

 グザヴィの使者は口上を伸べた。オーディンのことを、首席大臣とは呼ばなかった。

 使者は、美しい公爵夫人だった。革命前の王朝の優雅さを湛えた彼女は、腰に帯びた剣を殺伐と響かせ、王宮を歩き回る軍人たちに流し目をくれた。呆気に取られている彼らに、オーディン・マークスの私室からの退出を命じた。

 オーディンが頷くのを確認し、衛兵らは退出していった。


「ブルコンデ18世陛下は、マークス将軍の働きに、大変満足しておられます。富も名声も、お望みになるものは何なりとお授けになろうとおっしゃっておられますわ」
 現在の権力者オーディン・マークスと二人きりになると、公爵夫人は嫣然と微笑んだ。

「何なりとですか?」
乾いた声が尋ねる。

 オーディンの耳元へ口を寄せ、公爵夫人は囁くように、けれど、しっかりと請け合った。
「ええ。元帥杖げんすいじょう(軍の最高ランクを表す元帥の象徴)でも、豊かな公国でも、あるいはその両方を」

 すらりと外套を肩から落とす。その下には、薄物をまとっただけだった。彼女は、オーディンの手を取り、豊かな自分の胸へと導いた。

「お望みの物は、全て」

 ちらりと、奥に見える寝台に目を向ける。首席大臣の執務室には、仮眠用のベッドが置かれていた。

 公爵夫人の手の中で、よく手入れされた手が、幽かに痙攣した。膨らみに触れた途端、その手が、彼女の胸から引っ込められる。
 些か、性急な仕草だった。

 オーディン・マークス、この国の新しい支配者は、まるで不浄なものにでも触ってしまったかのように、ハンカチーフで自分の手を拭っている。

「失礼、マダム。貴女はお子様を母乳で育てられなかったのですね?」

「何ですって!?」

「ご主人の公爵との間には、お子さんがいらっしゃると聞きました。そのお子様を、貴女はなぜ、ご自身の乳で育てなかったのか、と、お聞きしたのです」

 嫌悪に満ちた眼差しが、不躾にも、公爵夫人の豊かな胸元を見つめている。形の良い二つの乳房が盛り上がり、それは到底、子どもに乳を与えた女の胸ではない。
 公爵夫人の口が、ぽかんと開いた。

「子どもは国の宝です。特にここ数年の革命戦争で、ユートパクスは多くの命を失いました。しかし、そんなものはシテ首都の一夜で、充分、補充が利くでしょう。私が一番尊敬する女性は、子どもをたくさん産む母親なのですよ。私の母のようにね」

 優雅な公爵夫人の体が、わなわなと震えた。
 国の最高権力者にくるりと背を向け、足音荒く、彼女は退出していった。




 ……公国だと? 元帥杖だと!
 ……馬鹿な。俺の野心は、そんなものよりずっと高く遠くにある。

 一人になった部屋で、オーディンは嘯いた。ハンカチにウィスキーを垂らし、入念に手指を消毒する。
 革命前の貴婦人の、強烈な香水の匂いがまだ部屋に漂っていた。それが彼の神経を逆撫でした。

 さっき、彼女の胸に触れさせられた時、その柔らかな感触に、オーディンは吐きそうになった。弾力があるようでない、脂肪の塊が、心底不快だった。

 ……ブルコンデ18世は、阿呆だ。革命をなかったものにしている。

 さもなければ、首席大臣である自分を取り込もうなどとは考えるまい。グザヴィブルコンデ18世は、オーディンが王の為にクーデターを起こし、革命政府を潰したと思っているのだ。

 ……まるで、ポエムを信じる乙女のようじゃないか。
 オーディンは、心の中で嘲笑った。

 だが、阿呆の王も、すぐにわかる。自分、オーディン・マークスは、彼の敵だ。なぜなら、王に代わって、この国を、いやユートパクスだけではない。世界を支配しようとしているのだから。

 ……革命の果実をこの手に。

 ユートパクスが払った犠牲は大きかった。処刑された王族はもちろん、貴族や政治家も大勢殺された。そして、諸外国との戦争で死んでいった兵士達。

 革命政府に叛旗を翻し、弾圧されて死んだ農民らも多かった。徴兵制で夫や息子を取られ、働き手のいなくなった畑地は荒れ果て、農家は困窮していた。また、革命が宗教を否定したことも、彼らには不満だった。今までちょっとした村の相談役だった神父が追放され、田舎の住民たちは、心のよりどころをなくしてしまった。

 農民たちは神の名の元に寄り集い、さらに悪いことに、王党派の貴族達と結びついた。神と国王の名において、大規模な蜂起が起こった。革命政府は強力な弾圧軍を派遣、これを鎮圧した。王党派の貴族はじめ、蜂起軍のリーダー達は、その多くが革命軍に捕まり、処刑された。

 にもかかわらず、今でも国内各地で、王党派が暗躍している。特に、西の海岸の蜂起軍には注意を払わなければならない。フランとかいう元貴族がリーダーとなり、かつての領民たちを率いて反乱を起こしている。

 彼らの標的は、今や、オーディンその人に向けられている。クーデターで革命政府を倒した、軍人支配者に。

 ……あの男は、帰ってきただろうか。
 オーディンが決して許すことのできない男。士官学校の同窓生、エドガルド・フェリシン。


 最後に彼に会ったのは、タルキア遠征の時だった。エイクレ要塞包囲戦の際、敵方のアンゲル軍の司令官ラルフ・リールに送り込まれてきた大使が、彼だった。

 亡命貴族のエドガルド・フェリシン。まさか、アンゲル海軍にいたとは。

 士官学校を卒業してから、14年ぶりの再会だった。アッシュブロンドの髪は心なしか色が濃くなり、柔らかだったグレーの瞳には、息を飲むような鋭さが増していた。鋼球に似た眼差しが、弾丸のように、オーディンの心を射抜いた。

 会見は堅苦しかった。

 オーディンはアンゲル海軍の提案した休戦を拒んだ。当たり前だ。オーディンにとって撤退は負けを意味する。たとえそれが一時的な休戦であったとしても。

 オーディン・マークスに負けは許されない。なぜなら、ひたすら勝利をもぎ取ることだけが、彼の存在意義だったから。敗北した瞬間、ユートパクスにおける彼の人気は衰え、国民の支持は失われるだろう。

 休戦を受け入れられないことは、アンゲル軍には織り込み済みのようだった。ついでのように、エドガルドは、ウィスタリア帝国軍の復活と、ツアルーシ、タルキア両国の、対ユートパクス同盟への参加を付け加えた。つまりユートパクスは、多数の同盟国を敵に回している、と。

 オーディンは深い危惧を覚えた。
 祖国ユートパクスは、彼がザイード遠征に出掛ける前に獲得した領土のほぼ全てを失おうとしていた。


 「なぜ、そのような情報を俺に伝える」
 敵の大使エドガルドにオーディンは尋ねた。
「君らアンゲル海軍は、メドレオン海を封鎖し、我々を孤立させたのではなかったか」

「忘れたか。俺もユートパクス人だ。母国の苦境を救いたいだけだ」

 アンゲル大使となったエドガルドの言葉に、オーディンは目を剥いた。
 自分に、ユートパクスの窮状を救えと言っているのか?
 俄かには信じられない。

 ふっと、エドガルドが笑った。
「疑うのなら、これを渡そう。ユートパクスの新聞だ。祖国の新聞に書かれたことなら、君も信じることができるだろう?」

 差し出された新聞を、半ば無意識にオーディンは受け取った。
 彼はエドガルドに気を取られていた。自分を組み敷いた、初めての男、エドガルドに。

 オーディンは、その場にいた副官に、貰ったばかりの新聞を渡した。
「しばらく二人きりで話をしたい」

 エドガルドは武器を携帯していなかった。総司令官を敵の大使と二人きりにしても危険はないと判断したのだろう。副官は衛兵を連れて退出していった。







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