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Ⅲ 東と西の狭間の国
誘惑
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その日から、自由は奪われた。
常に見張られている気配を感じる。部屋のどこかにのぞき穴があるのだと思う。
それまで通り、部屋を出ることはできる。しかしどこへ行くにも、衛兵がついてくる。
今までと変わらず、皇帝は、足繁く、通ってきた。
相変わらず、異国の珍しいおとぎ話を語り、変わった形の楽器を奏でる。時に俺の手を握り、唇の端を指で撫でたりする。
まるで、ペットか何かにするように。
それ以上、彼が何か仕掛けてくることはなかった。先夜のあれだって、キスなんかではなかったのだと、改めて思う。過呼吸を止めてくれただけだ。だって皇帝は全く平静だったし……。
それにしては、もう少し別のやり方があったのでは? と思わないでもないが。
だが、かりにも一国の皇帝だ。すでにご結婚もしておられるし、側室も多く抱えていらっしゃる。
皇帝は、国を変えていくとおっしゃったが、今はまだ、タルキアでは、表立っては同性同士の恋愛は禁じられている。
男である俺に、性的な意味で、皇帝が手を出すなどということが、あるわけがない。
タルキアの皇帝の、ある意味、献身的ともいえる看護の元で、けれど、俺の気持ちは最低辺まで落ちていた。
愛する男を、かつて愛した男に奪われ。
そうしてできた心の傷を、自分を大切にしてくれる人に己の欲望をぶつけることで、埋めようとした。
俺は、最低だ。
疑いもなく、人間の屑だ。
なぜ生きているのかわからない。
そうだ。
俺は死んだのではなかったか。
エイクレ、あの砂漠の要塞で、他ならぬオーディン・マークスからの砲撃を受けて。
死は、救済であるのかもしれなかった。オーディンは、俺に休息を齎してくれたのかもしれないのに。
シャルワーヌへの執着を断ち切り、彼を独裁者の庇護の下に預け、そして、これ以上ラルフを傷つけることはない……はずだったのに!
何より、俺自身にとって、死は、深い安らぎだ。
もう、何も考えなくてよいのだから。自分を責め続けなくてもいいのだから。
なのに、生き返るなんて。
ジウ……健気な異国の王子の体を奪ってまで、なぜこの時間、この世界に蘇ってしまったのだろう。
異国の調べが突然止んだ。思慮に富んだ黒い瞳が見つめている。
「生きていることが、何より大切なのだ」
「なぜ陛下がそのようなことをおっしゃるのか、全く理解できません」
俺のことなんか、何も知らないくせに。
傲慢で身勝手で、平気で人を傷つける、悪魔よりもまだ非道な人間だというのに!
「君が死んだら、泣く者がおろう」
亡命時代からの仲間のビスコやラビック、ラルフの相棒のルグラン、士官候補生のやつら……。エドガルド・フェリシンの死に際し、彼らは泣いてくれたという。
そして、決して泣くことはなかったが、誰よりも悲しんでくれたラルフ……俺が最期まで受け容れなかった男。
「彼らは騙されているのです。俺は、罪深い人間です」
必死の告白だったのに、皇帝は微笑んだだけだった。
「人とは罪深いものだ。人から欲や本能、悪意を拭い去ってしまったら、何も残らぬものよ」
「陛下は、俺の本当の姿をご存じないのです」
勝手なことを言わないでほしかった。東と西の狭間の国の叡智など、くそくらえだ。俺が生きるに値しない人間であることは、どうしようもない事実だ。
「さよう。朕としては、君がずっとここにいてくれればそれでよい。思い煩う君は……また一段と美しい」
白く長い指が伸びてきて、頬をかすった。
「シャルワーヌ・ユベール。ラルフ・リール。そしてオーディン・マークス」
息を飲んだ。
俺はいつ、オーディンの名を口にした?
ユートパクス軍最高司令官の名を。
クーデターを起こし、その国を掌握した者の名を!
熱に浮かされ、その名を口にしてしまったのか……。
タルキアの皇帝は平然としている。
「皆、過去の男達よ。君の前世を汚した男たちだ。彼らはいずれも、これから先、永遠にこのタルキアに足を踏み入れることはない」
「過去などではありません!」
今も彼らは同じ世界に存在し、敵対し、あるいは絶対的な献身を誓っている……。
「君は生き返ったのだ。無垢で清浄なウテナの王子に。ならば新たな生を生きればよい」
「そんなことはできません!」
「なぜ?」
決まってる。俺は……。
だが、続きが出てこない。頭が真っ白になり、言葉を失った。確かにあったはずの強い意志が、意識に浮んでこない。
代わりに皇帝が口を開く。
「君は恋を失った。これ以上、誰かを傷つけたくないと思っている」
その通りだ。
俺がこの命を賭しても欲しかった恋は、もう二度とこの手には戻ってこない。
いや、この手で触れてはいけないのだ。
それが、あの男、シャルワーヌを守るたったひとつの道だ。
再び皇帝の指が伸びてきた。口の端を押し、唇の形をなぞる。何度も何度も。
音楽を愛する皇帝の繊細な指の感触は、触れられるだけで陶酔を誘う。
頭の芯が痺れた。
「君は生まれ変わった。今では全く別の人間だ。もうよいではないか。自分にかけた呪縛を解き放つのだ。タルキアは、東と西の要、麗しの国ぞ。再び与えられた命を、なぜ、楽しもうとせぬ?」
そうじゃない。
俺は思った。
人生は、楽しむにはあまりに短い。
俺にはやらねばならぬことがある。
神聖で大切な、何世代にも亙って一族に受け継がれてきた……、
目の前が翳った。
唇に唇の感触が重なる。
かぐわしい潤いが、かさついた心にまで染み渡っていく。
「君は、いつまでもここにいるのだ。ここは桃源郷。永遠の都、ティオン」
けれど、俺にはあった……、
……はずだ。
とても重要な……
命を賭けて……
あった……はず……、
……。
常に見張られている気配を感じる。部屋のどこかにのぞき穴があるのだと思う。
それまで通り、部屋を出ることはできる。しかしどこへ行くにも、衛兵がついてくる。
今までと変わらず、皇帝は、足繁く、通ってきた。
相変わらず、異国の珍しいおとぎ話を語り、変わった形の楽器を奏でる。時に俺の手を握り、唇の端を指で撫でたりする。
まるで、ペットか何かにするように。
それ以上、彼が何か仕掛けてくることはなかった。先夜のあれだって、キスなんかではなかったのだと、改めて思う。過呼吸を止めてくれただけだ。だって皇帝は全く平静だったし……。
それにしては、もう少し別のやり方があったのでは? と思わないでもないが。
だが、かりにも一国の皇帝だ。すでにご結婚もしておられるし、側室も多く抱えていらっしゃる。
皇帝は、国を変えていくとおっしゃったが、今はまだ、タルキアでは、表立っては同性同士の恋愛は禁じられている。
男である俺に、性的な意味で、皇帝が手を出すなどということが、あるわけがない。
タルキアの皇帝の、ある意味、献身的ともいえる看護の元で、けれど、俺の気持ちは最低辺まで落ちていた。
愛する男を、かつて愛した男に奪われ。
そうしてできた心の傷を、自分を大切にしてくれる人に己の欲望をぶつけることで、埋めようとした。
俺は、最低だ。
疑いもなく、人間の屑だ。
なぜ生きているのかわからない。
そうだ。
俺は死んだのではなかったか。
エイクレ、あの砂漠の要塞で、他ならぬオーディン・マークスからの砲撃を受けて。
死は、救済であるのかもしれなかった。オーディンは、俺に休息を齎してくれたのかもしれないのに。
シャルワーヌへの執着を断ち切り、彼を独裁者の庇護の下に預け、そして、これ以上ラルフを傷つけることはない……はずだったのに!
何より、俺自身にとって、死は、深い安らぎだ。
もう、何も考えなくてよいのだから。自分を責め続けなくてもいいのだから。
なのに、生き返るなんて。
ジウ……健気な異国の王子の体を奪ってまで、なぜこの時間、この世界に蘇ってしまったのだろう。
異国の調べが突然止んだ。思慮に富んだ黒い瞳が見つめている。
「生きていることが、何より大切なのだ」
「なぜ陛下がそのようなことをおっしゃるのか、全く理解できません」
俺のことなんか、何も知らないくせに。
傲慢で身勝手で、平気で人を傷つける、悪魔よりもまだ非道な人間だというのに!
「君が死んだら、泣く者がおろう」
亡命時代からの仲間のビスコやラビック、ラルフの相棒のルグラン、士官候補生のやつら……。エドガルド・フェリシンの死に際し、彼らは泣いてくれたという。
そして、決して泣くことはなかったが、誰よりも悲しんでくれたラルフ……俺が最期まで受け容れなかった男。
「彼らは騙されているのです。俺は、罪深い人間です」
必死の告白だったのに、皇帝は微笑んだだけだった。
「人とは罪深いものだ。人から欲や本能、悪意を拭い去ってしまったら、何も残らぬものよ」
「陛下は、俺の本当の姿をご存じないのです」
勝手なことを言わないでほしかった。東と西の狭間の国の叡智など、くそくらえだ。俺が生きるに値しない人間であることは、どうしようもない事実だ。
「さよう。朕としては、君がずっとここにいてくれればそれでよい。思い煩う君は……また一段と美しい」
白く長い指が伸びてきて、頬をかすった。
「シャルワーヌ・ユベール。ラルフ・リール。そしてオーディン・マークス」
息を飲んだ。
俺はいつ、オーディンの名を口にした?
ユートパクス軍最高司令官の名を。
クーデターを起こし、その国を掌握した者の名を!
熱に浮かされ、その名を口にしてしまったのか……。
タルキアの皇帝は平然としている。
「皆、過去の男達よ。君の前世を汚した男たちだ。彼らはいずれも、これから先、永遠にこのタルキアに足を踏み入れることはない」
「過去などではありません!」
今も彼らは同じ世界に存在し、敵対し、あるいは絶対的な献身を誓っている……。
「君は生き返ったのだ。無垢で清浄なウテナの王子に。ならば新たな生を生きればよい」
「そんなことはできません!」
「なぜ?」
決まってる。俺は……。
だが、続きが出てこない。頭が真っ白になり、言葉を失った。確かにあったはずの強い意志が、意識に浮んでこない。
代わりに皇帝が口を開く。
「君は恋を失った。これ以上、誰かを傷つけたくないと思っている」
その通りだ。
俺がこの命を賭しても欲しかった恋は、もう二度とこの手には戻ってこない。
いや、この手で触れてはいけないのだ。
それが、あの男、シャルワーヌを守るたったひとつの道だ。
再び皇帝の指が伸びてきた。口の端を押し、唇の形をなぞる。何度も何度も。
音楽を愛する皇帝の繊細な指の感触は、触れられるだけで陶酔を誘う。
頭の芯が痺れた。
「君は生まれ変わった。今では全く別の人間だ。もうよいではないか。自分にかけた呪縛を解き放つのだ。タルキアは、東と西の要、麗しの国ぞ。再び与えられた命を、なぜ、楽しもうとせぬ?」
そうじゃない。
俺は思った。
人生は、楽しむにはあまりに短い。
俺にはやらねばならぬことがある。
神聖で大切な、何世代にも亙って一族に受け継がれてきた……、
目の前が翳った。
唇に唇の感触が重なる。
かぐわしい潤いが、かさついた心にまで染み渡っていく。
「君は、いつまでもここにいるのだ。ここは桃源郷。永遠の都、ティオン」
けれど、俺にはあった……、
……はずだ。
とても重要な……
命を賭けて……
あった……はず……、
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