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Ⅲ 東と西の狭間の国

触れるだけのキス

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 手足の拘束具が外された。

「……真っ赤じゃないか」
俺の手首を検め、皇帝がつぶやく。
「足も……おお、皮がむけてしまっている! 酷く暴れたと聞いたが、こんな風に扱っていいとは、朕は言っていない。薬師には罰を与えなければならない」

 手元のベルを取り上げようとする。慌てて止めた。

「いいえ、あの人は、俺の安全のために手足を拘束したのです」
「だからといって、傷つけていいわけではない。あやつには、相応の刑を与えねば。石投げの刑か、斬首か首吊りか」

「おやめください!」
喉の奥から悲鳴が漏れた。
「お願いですから、陛下。もう、これ以上……」

 収まりかけた涙が、右目からほろりと落ちた。続いて左の目からも。
「……俺の為に、……誰かを傷つけないで」

「泣いているのか?」
黒い眼が、食い入るように俺を見ている。
「君は、自分を傷つけた者の為に、罪深い悪人の為に、涙を流すというのか?」

「罪深いのは、俺です。俺は、……大切にしてくれた人を、き……、傷つけ、た……っ、」
最後の方は、嗚咽に紛れてしまう。

 皇帝の手がベルから離れた。
「わかった。薬師を罰するのは止めよう。だが、正直に話してくれ。よいか?」

 俺は頷き、恭順を示す。満足そうに皇帝は頷いた。俺の手を取り上げ、優しく甲を撫でる。

「君が傷つけたというのは、ラルフ・リールのことか?」
「はい。それと、昔の恋人も」

 オーディンの名を出すことは辛うじてとどまった。敵国の皇帝に、ユートパクスの最高司令官の名前を出さなかったのは、それは、幽かに残っていた少年の日の恋情の名残りだったのだろうか。

 ……でも彼は、俺からシャルワーヌを奪った。

 タルキアの皇帝は執拗だった。
「君が、そやつらを傷つけたと思う理由を述べよ」
「たった一人の男を愛したからにございます」
「君が愛した男とは、シャルワーヌ・ユベールか」
「はい」
「それなのに、愛を盗まれたと?」

 答えられなかった。
 あまりに辛すぎる。昔の恋人に、最愛の男を盗まれるなんて。

 「傷つけられたのは君ではないか。ほら、涙をこぼして泣いている……」
 砂漠を統べる皇帝の、乾いた声が言う。

「陛下。は、シャルワーヌを殺します」
「殺す? 奪っておいて殺すのか?」
にはその力があるのです」
「だが、……それは愛ではないな」
「……愛では、……ない?」
「そうだ。愛していたら、殺したりはせぬ」

 慈愛深い声に、耐えきれず、わっと泣き伏した。

「皇帝は、のことをご存じないのです。は、絶大な権力を握っています。愛など、関係ありません。自分の為なら、誰であろうと、簡単に殺してしまいます」

 オーディンは、彼の為に戦った兵士らを殺した。流行り病に罹った彼らを置き去りにし、或いは毒を渡して自殺を勧めた。
 彼の勝利は、兵士らの犠牲があってのことだ。長時間の行軍で疲れ果てた兵士らに、戦闘での機敏さを要求し、戦闘で勝利はしたけれども、多くの兵が過労で死んだ。

 オーディンは、彼に絶対の忠誠を誓ったシャルワーヌでさえ、上ザイードの砂漠への過酷な遠征へ送り出した……。

にとって、人は、ポーンに過ぎません。生かすも殺すも、手の内にあるのです」
「その男は、シャルワーヌ・ユベールの命を握っているというのだな?」
「はい」


 貴族であるシャルワーヌは、王族である姉を庇う為に、革命軍に残った。そしてその事実により、政府から、常に疑惑の目を向けられ続けた。

 東の国境で、亡命貴族軍と自分の属する革命軍の間で板挟みになっていた彼は、悩み苦しんでいた。革命軍として亡命貴族軍と戦えば、兄や弟、叔父や従兄弟達を自らの手で殺すことになりかねない。
 しかし、常に政府からのスパイ、派遣議員の目が光っている。中央からの指令に従わないなどということはできない。また、政府に逆らえば、自分の身はもとより、故郷の姉の身にも危険が及ぶ。

 悩んだ末、シャルワーヌは、オーディン・マークスの傘下へ入った。
 常に戦勝を重ねるオーディンは、政府に圧力をかけることができる。自分の下に逃げてきたシャルワーヌを、麾下の師団長に取り立てるなど、造作もないことだった。
 そもそもオーディン自身も貴族であったため、シャルワーヌに対し、理解があったのだろう。すぐに彼はシャルワーヌを重用し、やがて……愛するようになった。

 だがそれは、シャルワーヌにとって、諸刃の刃だ。
 もし、オーディンに憎まれたら?
 オーディンが彼を、疎ましく思ったのなら!
 シャルワーヌの命は風前の灯だ。もはや彼を助けてくれる者は誰もいない。
 政府と。
 軍と。
 この二つを敵に回し、無事でいられるわけがない。
 だから俺は……。


「シャルワーヌを諦めたのだな?」
まるで心を読んだかのように皇帝が言った。


「……皇帝。今、なんと?」

 俺は唖然とした。
 シャルワーヌの為に諦めた?
 考えてもみなかったことだ。
 だって俺は、シャルワーヌに捨てられたのではなかったか。


 リオン号でシャルワーヌは、愛の告白めいたことを口にしていた。でも俺は騙されたりしない。あんなのは口から出まかせだ。だって彼は、永遠にオーディン・マークスを裏切らない。


 「君は、シャルワーヌ・ユベールをその男に殺させないために、自ら身を引こうと決意したのだ。だが、彼への思いを諦めることができない。ラルフ・リールに対しては、もちろん君は、用心深く接したろう。しかしあれは悪辣な男だ。弱っている君に付け込んで、体を奪ったとしても、驚くに値しない」

「ラルフはそんな男ではありません!」
 弱い者から奪うなんて!

「なら、こう言おう。シャルワーヌという男をこのまま愛し続けても、君は二度と、彼と逢瀬を重ねることはできない。だから、心と体を切り離し、君はラルフ・リールに体を与えた」
「……え?」

「もう一度、考えてみるがいい。転生に際し、なぜ君は、愛した男のことを忘れたのか。シャルワーヌ・ユベールのことが記憶から抜け落ちてしまったのか」
「……」

 俺は息を飲んだ。
 皇帝が今、真実に迫ろうとしているのだと感じた。



「……」

「自分が愛し続けていると、シャルワーヌ・ユベールの身に災禍が降りかかる。そう思い、君は、身を引き、その男に譲り渡そうとした。君の意志は非常に強かった。だから、死に臨んで、彼の記憶をすっぱりと削り落としてしまった……。違うかね?」

「……」

 自分にも隠していた自分の本心に向かい合った時、人は言葉をなくす。
 今の俺は、まさにその状態だった。

 気がつくと、小刻みな呼吸を繰り返していた。息が苦しい。急に薄くなった酸素を求め、喘いだ。視界が暗くなり、頭の芯がぶれ初めた。今にも気を失いそうだ。

 わななく唇が、突然、何かが塞がれた。柔らかく湿った感触が、そのまま唇の上で留まっている。
 唇が割られることはなかった。口腔内には何も侵入してこない。
 ただ、唇同士が触れるだけ……。

 目を大きく見開いたまま、俺は固まった。息をすることさえも忘れてしまう。

 数分が流れた。
 いや、もっと短かったのかもしれない。
 塞がれた時と同じように、何の前触れもなく解放された。冷たい夜気が、暖かく潤った唇を撫でる。

「治まったか? 息はできるようになったか」
 平静な声が問うた。

 呼吸の発作は治まっていた。しばらく息を止めたことで、過呼吸が治まったのだろう。

 ……キスではなかった?

 わからない。
 ただただ混乱し、瞬きを繰り返すばかりだ。

 ランプのシェードが下ろされた。辺りを薄闇が覆う。

 「少し眠るがよい。今宵の物語は、何を所望か?」
 相変わらず感情の乱れのない、落ち着いた声が尋ねる。

「悪人の罰せられる話を。そして、悪人のいなくなった世界で、人々が幸せに暮らす話を」

 顔を隠そうとした両手を、暖かい掌が包み込んだ。
 いつまでたっても離されることはなかった。
 皇帝は話し始めようとしない。






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