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Ⅲ 東と西の狭間の国

ラルフの為に

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 一晩ゆっくりと眠り、目を覚ますと、体調はすっかり元に戻っていた。

 皇帝は、俺が眠りに落ちるまでそばにいた。この状態でどうやって眠れというのかと思ったが、疲れ果てていたせいか、熱が引いたら、あっという間に眠りに落ちた。 

 明るい朝の光で目覚めると、皇帝の姿はなかった。
 ほっと安堵し、それから、ゆうべの自分の痴態を思い出し、途方に暮れた。
 あろうことか、タルキア皇帝の前に発情して横たわっていたとは。

 そういえば皇帝は、外交上の取引がどうとか言ってなかったか? あれは、本当に冗談なのだろうか。
 とにかく、謁見を願い出るに限る。


 俺は、自分の過去と、現在の気持ちに気づいてしまった。

 シャルワーヌを愛している。
 勇敢で不器用なあの男を。
 困難を一身に引き受け、黙々と戦うことしかできない、あの愚か者を。
 東の国境の洞窟で、俺に必死でしがみついていたあいつを、がむしゃらなその愛を、今生でも変わらず受け入れよう。
 違う。
 ジウ、俺にこの体を譲ってくれたウテナ王子の分も加え、できうる限りの愛を、俺は彼に返したい。

 だからどうしても、ラルフの気持ちに報いることはできないのだ。
 ラルフはちっとも悪くないのに。それどころか、およそ人として能うる限りの誠意と情愛を差し出してくれているというのに。

 俺が悪いのだ。わかってる。俺がラルフに、叶わぬ夢を見せてしまったから……。
 到底、許してもらえるとは思わない。恨まれて当然だし、なるべく早く彼の前から消え去るべきだ。

 ただその前に、せめて彼から与えられた任務を全うしようと思った。


 俺の服は、衣装棚の中に吊るされていた。寝間着を脱ぎ捨てながら、よもやこれを着せたのは皇帝じゃなかろうなと思い、自分で打ち消した。きっと従者がやってくれたのだろう。

 寝間着も、その下の下着に至るまで、複雑に絡み合ったつる草の模様が刺繍されていた。タルキア皇帝の紋章だ。
 それらをすべて脱ぎ捨て、自分のシャツに袖を通す。汗で湿気ていた筈のそれは、いつの間にか洗濯され、きちんと糊付けまでされていた。

 ボタンを嵌めようと俯いた時、ぐらりと眩暈が襲った。
 よろめいた体を、ちょうど部屋に入って来た誰かが支えた。

「起き上がるのはまだ無理であろう」
 皇帝だった。そのまま抱き寄せようとする。

「失礼しました」
 ゆっくりとその手から逃れる。片膝をつき、胸に手を当てた。

 ……ラルフに報いるのだ。

 きっと目を上げ奏上した。
「ですが、皇帝。わたくしは、お返事を頂かねばなりません」
「返事?」

 怪訝そうに眉を寄せる。ラルフが大使を寄こした理由を、まるで忘れたような顔をしている。

「エ=アリュ講和条約を尊重して頂きたい。ユートパクス軍への攻撃は、何卒お控え下さいますよう」

 軍の実力者、キャプテン・アガに拒絶された請願だ。彼はユートパクス軍を捕虜にして辱め、皆殺しにしようとしている。

「ああ、その件なら了承した」
拍子抜けするくらいあっさりと皇帝は請け合った。
「出撃を取りやめさせるため、今朝早くアガが父親の元へ向かった」

「キャプテン・アガが?」
 彼の父親は、タルキアの大宰相だ。既に宰相軍は、イスケンデルに布陣している。
「彼を信じてよろしいのですか?」
 ユートパクスと和平を、という俺の言葉を、アガは鼻も引っかけなかった……。

 皇帝の顔に暗い翳が過った。
「あやつの部下達の、大使への冒瀆の数々、決して許されることではない。だがアガ自身が直接、手を下したわけではない。あれを罰することはできぬ」

「そういうことではございません」

 俺のことなどどうでもいい。問題は、ユートパクス軍の安全なのだ。いや、ラルフの名誉だ。
 どういったらわかってもらえるだろうか。

「彼はユートパクス軍を捕虜にしたがっています。上ザイードを占領された恨みを晴らす為、残虐行為を加えたがっているのです!」

「アガはラルフ・リールをひどく嫌っておるからの。大使が襲われたのも、煎じ詰めれば、彼への憎しみゆえだ」
 ショッキングな言葉を皇帝が吐いた。思わず息を飲む俺に向かい、平然と続ける。
「だがそれは、アガだけではない。外務大臣のフェンデも、閣僚のターダも同じ意見だ。三人はアンゲルの海軍将校ラルフ・リールをひどく嫌っている」

「フェンデとターダは、リオン号で、我々と共に時を過ごした大使達ではありませんか!」
 彼らがユートパクスを叩きたがっていることは予想していたことではあった。だが、ラルフを嫌っている?
「なぜ、そんなに彼を嫌うのですか? あんなに他人を愛することができる人間を」

 ラルフは、一刻も早く無益な戦争を終わらせたいと奔走している。戦争の悲惨さをよく知っているからだ。

 彼は、困った人を放っておけない。
 外国から亡命してきた俺達を、自国アンゲルの海軍将校に取り立てるよう、尽力してくれた。彼が救ったのは、俺たちだけじゃない。多くの人々の亡命に力を貸し、たとえアンゲルからの命令がなくても自分の船に掬い上げている。

 彼はまた、戦地にあっては敵味方かまわず、怪我人の救出に尽力する。自分の利益は度外視し、それどころか私財を投入して捕虜を救ったことさえあるのを、俺は知っている。
 ラルフは大きな人類愛に包まれた男だ。これは、決して、余人に真似できるものではない。

 皇帝の回答は単純だった。
「あの男がユートパクスに味方するからだよ。ユートパクスの怪我人を救い、彼らを捕虜にすることを禁じたからだ」

「戦争の災禍は計り知れません! タルキア軍の犠牲も甚大でした。エイクレ要塞はほぼ壊滅し、兵士達が大勢犠牲になりました」
 そのうちの一人が、前世の俺であったわけだが。

 だが皇帝は首を横に振った。
「一度でもタルキアを害した者は、その報いを受けねばならぬのだ。ユートパクスは我が国から、豊かなザイードを奪った。タルキアの領土まで侵攻し、惨たらしい殺戮を行った」

 オーディン・マークスの遠征だ。
 行軍に連れて行く余裕がないという理由で、オーディンは、タルキア兵の捕虜を大量に殺戮した……。

「今度は、彼らが罰を受ける番だ。ユートパクスは、死を以て報いねばならぬ。それが、ラーマ神の教えだ。アガは……アガだけではない。わが軍は、復讐の血に飢えているのだ」

 オーディンは秘密裏に帰国した。彼を信じてソンブル大陸までについてきて、そして置き去りにされた軍が、今、その責めを負わされようとしている。

「……」
 俺は絶句した。

 オーディンの所業を思えば、タルキアの怒りももっともだ。タルキア軍がユートパクス兵を捕虜にするのは、拷問の果てに殺す為だ。薄々感じていたことが改めて肯定され、体が震えた。

 大使として俺は全く無力のまま、この交渉も決裂してしまうのだろうか。
 だが、最初に皇帝は、了承したと言わなかったか?

「大宰相グラント自身も参戦派だ。戦争に反対しているのは、ひとり、朕のみである」

 俺は、皇帝の直属部隊が、キャプテン・アガの部隊を監視していたことを思い出した。宿泊棟の部屋割りまで把握し、おかげで俺は、凌辱を加えられる前に救い出してもらえた。
 あの時の皇帝の口調が気になっていた。曖昧に言葉を濁し、まるで語りたくないことがあるかのようだった。

 大宰相。閣僚達。大宰相の息子で、軍の実力者。
 もしかしたら皇帝は、政府・軍部の中枢とうまくいっていないのかもしれない。

 俺の心を透かし見たかのように、皇帝は微笑んだ。
「案ずることはない。彼らにとって朕の命令は絶対だ。それが、タルキアというこの国の大きな矛盾だ」

「矛盾?」
思わず聞き咎める。皇帝は頷いた。

「どうだ、大使。君の気分さえよければ、一緒に外を歩いてみよう」
 





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