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Ⅲ 東と西の狭間の国
一刻も早く
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結局のところ、親戚のコネを使ってラルフが得たものは、彼の署名した通行証を持つ者の帰国許可のみだった。
エ=アリュ条約は反故にされ、ユートパクスとタルキアの和平はおろか、いざ戦闘となれば、アンゲル海軍はタルキアと協力して、ユートパクス軍と戦わなければならない。
なんとも気の重いことだった。
それでも、シャルワーヌ・ユベール、あの不快な害虫をいち早く帰国させることはできるわけで、つまり、エドガルドの身辺から彼を駆除するのには成功したことになる。その点だけは、ラルフも深い満足を覚えた。
エ=アリュ講和条約が復活されないのは辛かったが、これ以上は何の成果も得られそうにない。早々に、ザイードへ戻ることにした。
というより、エドガルドの元へ。
兵を引き上げるよう、タルキアの皇帝の元へ頼みに行った彼が心配だった。
エドガルドを信じていないわけではない。けれど、相手が悪すぎた。知性があり音楽に秀でた皇帝、などというものが、この世に存在すること自体が間違いなのだ。
とにかく一刻も早くエドガルドの元へ帰りたい。彼は(ヴィレルに促されて)、ラルフを愛していると言ってくれた。耳元で囁かれたあの言葉は、万金にも値する。
ラルフには危惧があった。シャルワーヌと対峙した時の、エドガルドの態度だ。
頬が紅潮したり、脈が速くなったり、そういうのは、ジウ王子の残存意識によるものだということは、ラルフにもわかっている。なんといっても、エドガルドの体は、ジウのものだったのだから。
しかし、ジウは、アソムと一緒に天上に旅立っていったはずだ。死に際のアソムが、確かにそう言っていた。
にもかかわらず、それ以後も、シャルワーヌを見るエドガルドの顔は紅潮している。士官候補生たちが、熱があるのではないかと心配するくらいに。
これは、どう解釈したらいいのだろう。
それはジウの意識のなせる業だとエドガルドは言っている。少なくとも彼はそう信じているようだ。とすると、まだ少しは、ジウは体の中に残っているのか。
ラルフはそう思うことにした。だって彼は、エドガルドを信じている。
何の問題もないはずだ。
愚か者のシャルワーヌはオーディン・マークスの召喚を優先させ、アンゲルからの通行許可が届き次第、文字通り尻に帆をかけて、ユートパクスへ向かうだろうし。
そう思うそばから、自分への不甲斐なさを感じる。
剣舞の際、エドガルド(ジウ)から刃を向けられたシャルワーヌは、これをしっかりと受け止めた。もしあの時、彼がエドガルドだと知っていたなら、ラルフだって、決して逃げることはしなかったろう。
つまりラルフは、ジウとエドガルドをはっきりと分けて認識していた。未だに、異国の少年の姿にはっとさせられることがある。
シャルワーヌは違う。あの男の頭の中がどうなっているのか知らないが、彼は、ジウの延長上にエドガルドを見ている。
問題は、エドガルド自身が、ジウを忘れないで欲しいと願っていることだ。ジウと自分と、二人ながら受け容れて欲しいというのが、そもそもの彼の希望だった。
ラルフにはそれが、どうしてもできないでいる。だって自分が愛しているのはエドガルドなのだ。どうして異国の王子を愛することができよう。
しかしそれは、エドガルドの希望に逆らうことなのではないか。もしかしたら……もしかしたら、彼にふさわしいのは、シャルワーヌの方なのかもしれない。
そう考え、激しく首を横に振る。
エドガルドのいない人生など、もう考えられない。彼にふさわしかろうがなかろうが、手放すつもりはない。
一方でラルフは、シャルワーヌに対して負い目があった。
だって、彼は知っている。シャルワーヌは、間違いなく、前世のエドガルドの恋人だった。ラルフより先に彼と出会い、恋に落ちた……。
エドガルドもまた、シャルワーヌを愛していた。ラルフとの仲は体だけの関係でいいかと念を押すほど。ラルフとの情事の最中に、シャルワーヌの名を呼んでしまうほど。
幸い、転生したエドガルドはシャルワーヌに関する全てを忘れてしまっていた。彼は、ラルフこそが、前世からの恋人だと思い込んでいる。前世の彼にとっては、体だけの関係だったなどとは、考えたこともなかろう。
いいや、自分にとって彼は、体だけの関係なんかじゃない。ラルフは、エドガルドの全てが欲しかった。
だから、口を噤んでいる。
前世のエドガルドとシャルワーヌの関係、そして自分の立ち位置など、断じて口にするつもりはない。
エドガルドにもシャルワーヌにも、真実を教えるつもりはない。永遠に。
(そういえば、あのあつかましいシャルワーヌが、この頃、なぜか急に自信を失ったように感じられ、ラルフは不思議に思っている。愛について考察していたシャルワーヌが、自分が前世のエドガルドを強姦した可能性に思い当たったことを、ラルフは知らない)
だが、もし万が一、エドガルドが記憶を取り戻したら? 自分はエドガルドから、何か大切なものを奪うことになりはしないか。何より、知っていて隠したことを、彼に責められるのではないか。
それで、シャルワーヌと「紳士同盟」を結んだ。彼に手を出させない代わりに、自分も手を出さない、というものだ。
エドガルド、というか、ジウ王子が18歳になるまで。
成人云々は言い訳だ。シャルワーヌに一定のチャンスを与える。18歳までとしたのは、それが、自分が我慢できる限界だったから。
エドガルドから、なぜシャルワーヌと同盟を結んだのかと問われた時は、どきりとした。恋人同士でもない男を牽制する必要はないという彼の言い分はもっともだった。その上エドガルドは、彼とシャルワーヌの関係について、ラルフが何か知っていると、推測までしていた。
……「前世の俺は、シャルワーヌとの関係について、君に話したのだろう?」
その時のラルフには、素知らぬ顔をするのが精いっぱいだった。ジウ王子がシャルワーヌの庇護の元にいたことを思い出させてようやく話をそらせたのだが、本当に冷や汗をかいた。
……エドガルドが人を信じやすい性格でよかった。
あの時のエドガルドの輝くような笑顔を、ラルフは思い出した。前世の自分とシャルワーヌの間には何の関係もないと、改めて信じた時の、ほっとした表情。
その単純さ、人の好さも含め、ラルフは彼を愛している。一刻も早く彼に会いたくてたまらない。
……明日早朝にでも出航しよう。
彼の18回目の誕生日が近づいていた。
もう一日だって待てない。その日には、朝から彼と共にありたい。
邪魔なシャルワーヌは、オーディン・マークスの召喚命令を優先し、ユートパクスへ帰るはずだ。ラルフの親戚である戦争大臣の許可が届き次第。
だか、執念深いあの男のことだ。万が一ということもある。
船の点検は終わった。ザイードへ持って帰る武器弾薬の荷積みも済んだはずだ。とにかく一刻も早くエドガルドの元へ帰って、その日を共に迎えよう。
船へ戻る歩調を速めたその時だった。
「ラルフ!」
誰かが名を呼んだ。
「デュドネ!」
王党派の知人だ。彼はユートパクスの貴族で、処刑寸前でアンゲルへ亡命した。亡命には、ラルフも少しばかり手を貸している。
「久しぶりだな、ラルフ。ザイードから帰国したと聞いて、どこかで会えないものかと探していたんだ」
「連絡しなくて悪かった。今回はちょっと、時間がなくて」
「わかってる」
訳知り顔でデュドネは頷いた。
「だが、お茶を飲む時間くらいはあるだろう?」
アンゲルに足を踏み入れた途端、ユートパクス人も紅茶党になったらしい。
「もちろんだよ、デュドネ」
どうせ明日の朝までは身動きができない。古い友人の近況を聞くのは、異国に長くいた者の楽しみだ。
にっこりと笑って、ラルフは同意した。
エ=アリュ条約は反故にされ、ユートパクスとタルキアの和平はおろか、いざ戦闘となれば、アンゲル海軍はタルキアと協力して、ユートパクス軍と戦わなければならない。
なんとも気の重いことだった。
それでも、シャルワーヌ・ユベール、あの不快な害虫をいち早く帰国させることはできるわけで、つまり、エドガルドの身辺から彼を駆除するのには成功したことになる。その点だけは、ラルフも深い満足を覚えた。
エ=アリュ講和条約が復活されないのは辛かったが、これ以上は何の成果も得られそうにない。早々に、ザイードへ戻ることにした。
というより、エドガルドの元へ。
兵を引き上げるよう、タルキアの皇帝の元へ頼みに行った彼が心配だった。
エドガルドを信じていないわけではない。けれど、相手が悪すぎた。知性があり音楽に秀でた皇帝、などというものが、この世に存在すること自体が間違いなのだ。
とにかく一刻も早くエドガルドの元へ帰りたい。彼は(ヴィレルに促されて)、ラルフを愛していると言ってくれた。耳元で囁かれたあの言葉は、万金にも値する。
ラルフには危惧があった。シャルワーヌと対峙した時の、エドガルドの態度だ。
頬が紅潮したり、脈が速くなったり、そういうのは、ジウ王子の残存意識によるものだということは、ラルフにもわかっている。なんといっても、エドガルドの体は、ジウのものだったのだから。
しかし、ジウは、アソムと一緒に天上に旅立っていったはずだ。死に際のアソムが、確かにそう言っていた。
にもかかわらず、それ以後も、シャルワーヌを見るエドガルドの顔は紅潮している。士官候補生たちが、熱があるのではないかと心配するくらいに。
これは、どう解釈したらいいのだろう。
それはジウの意識のなせる業だとエドガルドは言っている。少なくとも彼はそう信じているようだ。とすると、まだ少しは、ジウは体の中に残っているのか。
ラルフはそう思うことにした。だって彼は、エドガルドを信じている。
何の問題もないはずだ。
愚か者のシャルワーヌはオーディン・マークスの召喚を優先させ、アンゲルからの通行許可が届き次第、文字通り尻に帆をかけて、ユートパクスへ向かうだろうし。
そう思うそばから、自分への不甲斐なさを感じる。
剣舞の際、エドガルド(ジウ)から刃を向けられたシャルワーヌは、これをしっかりと受け止めた。もしあの時、彼がエドガルドだと知っていたなら、ラルフだって、決して逃げることはしなかったろう。
つまりラルフは、ジウとエドガルドをはっきりと分けて認識していた。未だに、異国の少年の姿にはっとさせられることがある。
シャルワーヌは違う。あの男の頭の中がどうなっているのか知らないが、彼は、ジウの延長上にエドガルドを見ている。
問題は、エドガルド自身が、ジウを忘れないで欲しいと願っていることだ。ジウと自分と、二人ながら受け容れて欲しいというのが、そもそもの彼の希望だった。
ラルフにはそれが、どうしてもできないでいる。だって自分が愛しているのはエドガルドなのだ。どうして異国の王子を愛することができよう。
しかしそれは、エドガルドの希望に逆らうことなのではないか。もしかしたら……もしかしたら、彼にふさわしいのは、シャルワーヌの方なのかもしれない。
そう考え、激しく首を横に振る。
エドガルドのいない人生など、もう考えられない。彼にふさわしかろうがなかろうが、手放すつもりはない。
一方でラルフは、シャルワーヌに対して負い目があった。
だって、彼は知っている。シャルワーヌは、間違いなく、前世のエドガルドの恋人だった。ラルフより先に彼と出会い、恋に落ちた……。
エドガルドもまた、シャルワーヌを愛していた。ラルフとの仲は体だけの関係でいいかと念を押すほど。ラルフとの情事の最中に、シャルワーヌの名を呼んでしまうほど。
幸い、転生したエドガルドはシャルワーヌに関する全てを忘れてしまっていた。彼は、ラルフこそが、前世からの恋人だと思い込んでいる。前世の彼にとっては、体だけの関係だったなどとは、考えたこともなかろう。
いいや、自分にとって彼は、体だけの関係なんかじゃない。ラルフは、エドガルドの全てが欲しかった。
だから、口を噤んでいる。
前世のエドガルドとシャルワーヌの関係、そして自分の立ち位置など、断じて口にするつもりはない。
エドガルドにもシャルワーヌにも、真実を教えるつもりはない。永遠に。
(そういえば、あのあつかましいシャルワーヌが、この頃、なぜか急に自信を失ったように感じられ、ラルフは不思議に思っている。愛について考察していたシャルワーヌが、自分が前世のエドガルドを強姦した可能性に思い当たったことを、ラルフは知らない)
だが、もし万が一、エドガルドが記憶を取り戻したら? 自分はエドガルドから、何か大切なものを奪うことになりはしないか。何より、知っていて隠したことを、彼に責められるのではないか。
それで、シャルワーヌと「紳士同盟」を結んだ。彼に手を出させない代わりに、自分も手を出さない、というものだ。
エドガルド、というか、ジウ王子が18歳になるまで。
成人云々は言い訳だ。シャルワーヌに一定のチャンスを与える。18歳までとしたのは、それが、自分が我慢できる限界だったから。
エドガルドから、なぜシャルワーヌと同盟を結んだのかと問われた時は、どきりとした。恋人同士でもない男を牽制する必要はないという彼の言い分はもっともだった。その上エドガルドは、彼とシャルワーヌの関係について、ラルフが何か知っていると、推測までしていた。
……「前世の俺は、シャルワーヌとの関係について、君に話したのだろう?」
その時のラルフには、素知らぬ顔をするのが精いっぱいだった。ジウ王子がシャルワーヌの庇護の元にいたことを思い出させてようやく話をそらせたのだが、本当に冷や汗をかいた。
……エドガルドが人を信じやすい性格でよかった。
あの時のエドガルドの輝くような笑顔を、ラルフは思い出した。前世の自分とシャルワーヌの間には何の関係もないと、改めて信じた時の、ほっとした表情。
その単純さ、人の好さも含め、ラルフは彼を愛している。一刻も早く彼に会いたくてたまらない。
……明日早朝にでも出航しよう。
彼の18回目の誕生日が近づいていた。
もう一日だって待てない。その日には、朝から彼と共にありたい。
邪魔なシャルワーヌは、オーディン・マークスの召喚命令を優先し、ユートパクスへ帰るはずだ。ラルフの親戚である戦争大臣の許可が届き次第。
だか、執念深いあの男のことだ。万が一ということもある。
船の点検は終わった。ザイードへ持って帰る武器弾薬の荷積みも済んだはずだ。とにかく一刻も早くエドガルドの元へ帰って、その日を共に迎えよう。
船へ戻る歩調を速めたその時だった。
「ラルフ!」
誰かが名を呼んだ。
「デュドネ!」
王党派の知人だ。彼はユートパクスの貴族で、処刑寸前でアンゲルへ亡命した。亡命には、ラルフも少しばかり手を貸している。
「久しぶりだな、ラルフ。ザイードから帰国したと聞いて、どこかで会えないものかと探していたんだ」
「連絡しなくて悪かった。今回はちょっと、時間がなくて」
「わかってる」
訳知り顔でデュドネは頷いた。
「だが、お茶を飲む時間くらいはあるだろう?」
アンゲルに足を踏み入れた途端、ユートパクス人も紅茶党になったらしい。
「もちろんだよ、デュドネ」
どうせ明日の朝までは身動きができない。古い友人の近況を聞くのは、異国に長くいた者の楽しみだ。
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