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Ⅱ 海から吹く風
大型犬の舌
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「シャルワーヌ。俺も、君に謝罪しなければならないことがある」
シャルワーヌの懺悔は、少なくとも転生した俺には全く覚えのないことだ。
転生後に限って言えば、謝らなければならないのは、むしろこちらのほうだと思う。ジウの体で目覚めた瞬間から、俺はシャルワーヌの命を狙った。オーディン・マークスの忠実な将校を、排除しようと計画した。
一度として成功した試しはないが。
……品位ある侵略者。公正な配分者。
薄々、感じてはいた。地元ザイードの人達の、総督への感謝と敬意を。
最初に気づかせてくれたのは、オットル族キャラバン隊のエスムだ。彼は、タルキアで忌み嫌われるオーディンと、賄賂さえ受け取らない高潔なシャルワーヌの対比を、鮮やかに描き出してくれた。
上ザイードの統治はうまくいっていた。オアシスの村での農業指導は成功し、村は大きな収益を生むようになっていた。
リオン号へ来る前、シャルワーヌは、その全てを、イサク・ベルに譲り渡したという。イサクは、ユートパクス軍をしつこく付け狙っていたムメール族の長だ。上ザイードの富を全て彼に譲り渡すなど、私利私欲を離れ、地元の平安と繁栄を心から願わなければ、絶対にできないことだ。
シャルワーヌはまた、タルキア大使との会談で、ウテナの保全を図ろうと尽力してくれた。ジウの国の安全を守ろうと、真っ先に。
……。
俺は顔を上げた。傷のある浅黒い顔を睨みつけた。
「君を殺そうと狙っていた。ジウに転生してからずっとだ。もちろん、個人的な怨恨じゃない。君が、オーディン・マークスの有能な部下だからだ」
「知ってる。というか、ついさっき、知った」
「さっき?」
「リール代将と話していて、唐突に。いや、本当は随分前から知ってたよ。……それくらいの見栄は張らせてくれ」
何を言っているのかわからない。だが、少なくとも彼からは、怒りは感じられなかった。もちろん、悲しみもない。ただ穏やかで落ち着いた静けさだけが伝わってくる。
「アソムが自害した時に使った短剣は……」
言いかけた俺をシャルワーヌが遮る。
「イサク・ベルからの贈り物だろう? 俺を殺せと、彼が君に命じたのだ」
「命じられたわけじゃない。提案されただけだ。彼は俺の計画を見抜き、その弱点を補ってくれた」
「君の方から、イサクのやつに相談したわけじゃないのだな?」
不意に、大型犬のような眼差しを注がれた。上ザイードにいた頃、しばしばじゃれついてきた時の、あの目だ。
「相談なんかするものか。俺は、さらわれたんだぞ」
「そうだ! そうだよな!」
もはや飛びついてきかねない勢いだった。目に見えない舌が伸びてきて、顔中を嘗め回す気配を確かに感じた。
俺は両手で自分の顔を覆った。
「どうしてだろうな。俺にシャルワーヌ、君は殺せなかった。剣舞の時も、イサクのくれた短剣でも」
「剣舞の時も、俺を殺すつもりだったの?」
「そうだ」
顔を上げ、正直に答える。見返す目が、優しく微笑んだ。
「ダメだよ、エドガルド。君はとても可愛かった」
「かっ!」
忘れていた動悸が一気に早まる。
「君はとても可憐だった。俺に付きつけた剣先を震わせて、身も世もあらぬ風情で。あれは、人を殺す剣じゃない」
見抜かれてた。
俺の無能を。優柔不断を。弱い体を。
不思議と、屈辱は感じなかった。ため息が漏れただけだ。
「君を殺そうと決意しても、俺はいつもためらい、最後の一歩が踏み出せなかった。そうしているうちに、アソムが……」
喉が詰まった。
忠実なウテナの侍従。彼は俺を死なせない為に、自ら命を絶ってしまった。
「あの剣は、アソムが俺から、とり、取り上げて……隠し……自分が……はっ、腹に、」
「エドガルド。もう話さなくていい」
大きな腕が伸びてきた。飾りボタンの取れた袖が、熱く腫れた目元にそっと押し当てられた。粗い生地に、目の縁に盛り上がっていた塊が吸い取られていく。
それで俺は、自分が泣いていることを悟った。
今度は左の目から、涙が流れ落ちている。静かに、際限もなく。
不覚だった。
よりによってシャルワーヌの前で。
俺の涙に気がついても、シャルワーヌは驚かなかった。再び長い腕が伸びてきて、静かに抱き寄せられた。
俺は、逆らわなかった。されるがままになっていた。その方が楽だったから。
もう何も考えたくなかった。考えるのに疲れてしまった。
大きな胸に封じ込められ、唸るほど安堵した。体中の力が抜けていく そこへ、濡れた温かい何かが伸びてきて、目の下にそっと触れた。
……大型犬が涙を嘗めている。
「俺がいなかったら、ジウは死ぬことはなかったのか。俺が最初から転生を打ち明けていれば、アソムは自死しないで済んだのでは?」
気がつくと、口にしていた。心の奥に封じ込めていた後悔。言っても仕方のないことだけど、仕方がないでは片づけられない、辛い出来事。
ユートパクスの王に忠誠を尽くす為に、俺は転生を受け容れた。俺の第二の生は、あくまで、王に捧げられるべきものだ。
その陰で、ジウ王子がひっそりと死に、今またアソムが自死を遂げた。
二人は、犠牲になったのではないか。俺が王へ誓った忠誠の。
「これは、ジウの涙だ。正確にはジウの体の。アソムの死を、俺は悲しまなかった。済まないと思っていても、ジウの死を利用した。そうまでして俺は、自分の主義を貫こうとしている」
涙を嘗め取り、舌が離れた。両腕に力が込められた。優しい力と温かさに喘ぎ、頑張って、俺は続けた。
「同じ地方、同じ時間軸に転生し、俺は改めて王への忠誠を誓った。古くて新しい、そして決して譲ることのできない強い忠誠を。そのことを後悔するつもりはない」
「それでこそエドガルドだ。俺の愛した男だ」
無条件で肯定してくれる優しい声。でも、素直に受け容れてはいけない。
「馬鹿な。俺は君も殺そうとしたんだぞ」
「大丈夫だ。君に俺は殺せないから」
「は?」
俺はシャルワーヌの胸を強く押した。その体から離れようともがいた。
「俺に君が殺せない? だと? どんな自信だ、それは」
今、アンゲル国はユートパクス軍の撤退を援助している。タルキアとの間に入り、休戦を実現させた。
しかしそれは、暫定的な休戦に過ぎない。両国は依然として、交戦状態にある。
「近い将来、確実に、アンゲルはユートパクスと衝突する。かつてない激しい戦闘が行われるだろう。君は俺の敵だ、シャルワーヌ。次に会う時は、お互い、殺し合う時だ」
……それでも君は、祖国に帰るのか。オーディン・マークスの元へと戻っていくつもりか。
シャルワーヌの懺悔は、少なくとも転生した俺には全く覚えのないことだ。
転生後に限って言えば、謝らなければならないのは、むしろこちらのほうだと思う。ジウの体で目覚めた瞬間から、俺はシャルワーヌの命を狙った。オーディン・マークスの忠実な将校を、排除しようと計画した。
一度として成功した試しはないが。
……品位ある侵略者。公正な配分者。
薄々、感じてはいた。地元ザイードの人達の、総督への感謝と敬意を。
最初に気づかせてくれたのは、オットル族キャラバン隊のエスムだ。彼は、タルキアで忌み嫌われるオーディンと、賄賂さえ受け取らない高潔なシャルワーヌの対比を、鮮やかに描き出してくれた。
上ザイードの統治はうまくいっていた。オアシスの村での農業指導は成功し、村は大きな収益を生むようになっていた。
リオン号へ来る前、シャルワーヌは、その全てを、イサク・ベルに譲り渡したという。イサクは、ユートパクス軍をしつこく付け狙っていたムメール族の長だ。上ザイードの富を全て彼に譲り渡すなど、私利私欲を離れ、地元の平安と繁栄を心から願わなければ、絶対にできないことだ。
シャルワーヌはまた、タルキア大使との会談で、ウテナの保全を図ろうと尽力してくれた。ジウの国の安全を守ろうと、真っ先に。
……。
俺は顔を上げた。傷のある浅黒い顔を睨みつけた。
「君を殺そうと狙っていた。ジウに転生してからずっとだ。もちろん、個人的な怨恨じゃない。君が、オーディン・マークスの有能な部下だからだ」
「知ってる。というか、ついさっき、知った」
「さっき?」
「リール代将と話していて、唐突に。いや、本当は随分前から知ってたよ。……それくらいの見栄は張らせてくれ」
何を言っているのかわからない。だが、少なくとも彼からは、怒りは感じられなかった。もちろん、悲しみもない。ただ穏やかで落ち着いた静けさだけが伝わってくる。
「アソムが自害した時に使った短剣は……」
言いかけた俺をシャルワーヌが遮る。
「イサク・ベルからの贈り物だろう? 俺を殺せと、彼が君に命じたのだ」
「命じられたわけじゃない。提案されただけだ。彼は俺の計画を見抜き、その弱点を補ってくれた」
「君の方から、イサクのやつに相談したわけじゃないのだな?」
不意に、大型犬のような眼差しを注がれた。上ザイードにいた頃、しばしばじゃれついてきた時の、あの目だ。
「相談なんかするものか。俺は、さらわれたんだぞ」
「そうだ! そうだよな!」
もはや飛びついてきかねない勢いだった。目に見えない舌が伸びてきて、顔中を嘗め回す気配を確かに感じた。
俺は両手で自分の顔を覆った。
「どうしてだろうな。俺にシャルワーヌ、君は殺せなかった。剣舞の時も、イサクのくれた短剣でも」
「剣舞の時も、俺を殺すつもりだったの?」
「そうだ」
顔を上げ、正直に答える。見返す目が、優しく微笑んだ。
「ダメだよ、エドガルド。君はとても可愛かった」
「かっ!」
忘れていた動悸が一気に早まる。
「君はとても可憐だった。俺に付きつけた剣先を震わせて、身も世もあらぬ風情で。あれは、人を殺す剣じゃない」
見抜かれてた。
俺の無能を。優柔不断を。弱い体を。
不思議と、屈辱は感じなかった。ため息が漏れただけだ。
「君を殺そうと決意しても、俺はいつもためらい、最後の一歩が踏み出せなかった。そうしているうちに、アソムが……」
喉が詰まった。
忠実なウテナの侍従。彼は俺を死なせない為に、自ら命を絶ってしまった。
「あの剣は、アソムが俺から、とり、取り上げて……隠し……自分が……はっ、腹に、」
「エドガルド。もう話さなくていい」
大きな腕が伸びてきた。飾りボタンの取れた袖が、熱く腫れた目元にそっと押し当てられた。粗い生地に、目の縁に盛り上がっていた塊が吸い取られていく。
それで俺は、自分が泣いていることを悟った。
今度は左の目から、涙が流れ落ちている。静かに、際限もなく。
不覚だった。
よりによってシャルワーヌの前で。
俺の涙に気がついても、シャルワーヌは驚かなかった。再び長い腕が伸びてきて、静かに抱き寄せられた。
俺は、逆らわなかった。されるがままになっていた。その方が楽だったから。
もう何も考えたくなかった。考えるのに疲れてしまった。
大きな胸に封じ込められ、唸るほど安堵した。体中の力が抜けていく そこへ、濡れた温かい何かが伸びてきて、目の下にそっと触れた。
……大型犬が涙を嘗めている。
「俺がいなかったら、ジウは死ぬことはなかったのか。俺が最初から転生を打ち明けていれば、アソムは自死しないで済んだのでは?」
気がつくと、口にしていた。心の奥に封じ込めていた後悔。言っても仕方のないことだけど、仕方がないでは片づけられない、辛い出来事。
ユートパクスの王に忠誠を尽くす為に、俺は転生を受け容れた。俺の第二の生は、あくまで、王に捧げられるべきものだ。
その陰で、ジウ王子がひっそりと死に、今またアソムが自死を遂げた。
二人は、犠牲になったのではないか。俺が王へ誓った忠誠の。
「これは、ジウの涙だ。正確にはジウの体の。アソムの死を、俺は悲しまなかった。済まないと思っていても、ジウの死を利用した。そうまでして俺は、自分の主義を貫こうとしている」
涙を嘗め取り、舌が離れた。両腕に力が込められた。優しい力と温かさに喘ぎ、頑張って、俺は続けた。
「同じ地方、同じ時間軸に転生し、俺は改めて王への忠誠を誓った。古くて新しい、そして決して譲ることのできない強い忠誠を。そのことを後悔するつもりはない」
「それでこそエドガルドだ。俺の愛した男だ」
無条件で肯定してくれる優しい声。でも、素直に受け容れてはいけない。
「馬鹿な。俺は君も殺そうとしたんだぞ」
「大丈夫だ。君に俺は殺せないから」
「は?」
俺はシャルワーヌの胸を強く押した。その体から離れようともがいた。
「俺に君が殺せない? だと? どんな自信だ、それは」
今、アンゲル国はユートパクス軍の撤退を援助している。タルキアとの間に入り、休戦を実現させた。
しかしそれは、暫定的な休戦に過ぎない。両国は依然として、交戦状態にある。
「近い将来、確実に、アンゲルはユートパクスと衝突する。かつてない激しい戦闘が行われるだろう。君は俺の敵だ、シャルワーヌ。次に会う時は、お互い、殺し合う時だ」
……それでも君は、祖国に帰るのか。オーディン・マークスの元へと戻っていくつもりか。
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