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Ⅰ 砂漠とオアシス

恐怖と誤作動

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 熱が下がると、俺は、外での運動を希望した。

 体を動かすことが必要だ、などと言っていたくせに、最初、アソムは反対した。ザイードの気候は過酷で、運動には不向きだというのだ。
 ここは、砂漠の中のオアシスだ。昼間は暑く、確かに、運動には向かない。

 しかし、鍛えねば。こんな弱々しい体では、目的を達成することはできない。

 剣を振り回し、人を切り倒すには、強い力がいる。
 俺は、シャルワーヌ・ユベールを殺す。
 そして、オーディン・マークスを。
 革命軍の雄であるこの二人が命を落とせば、王党派にとって、どれだけ有利になるだろう。

 アソムの反対を押し切るように、早朝の運動を始めた。
 とはいえ、俺は捕虜だ。健康を維持する為に運動する権利は認められているが、それは内庭に限定されていた。

 早朝、まだ暗い庭は、閑散としていた。
 柔軟体操や、いくつかの動作で体の凝りをほぐすと、さっそく練習用の剣を取り上げた。

「……っ」
剣って、こんなに重かったっけ? 

 よろめく俺を見て、見張りの衛兵が、嘲笑ったような気がした。

 気にしない、気にしない。
 今の俺は、ひ弱なウテナ王子、ジウだ。長い病気がやっと癒えて、気まぐれに練習場にやって来ただけ。誰に笑われても平気。だって俺は、戦わずに育った箱入りの、外国の王子だから。

 構えの型を取り、衝きの動作をしてみる。剣は重く、自分が振り回されているようだ。だが、何度か繰り返すうちに、次第に動きが滑らかになってきたのがわかった。俺は夢中になって、剣を振り続けた。


「うん、筋は悪くない」
不意に声を掛けられ、飛び上がった。

 衛兵だった。
 いや、衛兵じゃない。
 無礼にもこちらをじっと見つめているその顔は、シャルワーヌ・ユベールのものだった。俺の標的、その人だ。
 あまりに地味な格好をして、地べたにしゃがみ込んでいたので、わからなかった。

 彼だと認識できた途端に、胸がどくどくいい始めた。

 衛兵、もとい、シャルワーヌは立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「だが、体の中心が定まっていない。もっとこう、腰を落として、」
遠慮なく手を伸ばし、触れようとする。

 身をよじり、彼の手を逃れた。
 もう、心臓が耐えきれないほどに強く高鳴っている。傍らまで来た男に聞こえるのではないかと心配になるほどだ。
 本当に、なんだってこの男を認識すると、感情がこうまで荒ぶるんだ? 

 自分の手から俺がすり抜けたので、シャルワーヌは苦笑した。
「そうか。君はウテナの王族だったな。うかつに手を触れたら怒られるのだった」
「その通りです」

「惜しいな。もっと脇を締めて」
「……え?」
「上半身の力だけでなく、膝の柔軟性を利用するんだ」
「こうですか?」

言われた通り、剣を突き出すと、それは、彼の鼻先でぴたりと止まった。

「ふうむ。大したものだ」
顔に剣を突き付けられているというのに、顔色一つ変えず、シャルワーヌは頷いた。
「君、なかなかいいぞ。とても素人とは思えない」

 当たり前だ、と俺は思った。
 俺には、エドガルド・フェリシンとして、王の軍隊にいた頃の記憶が残っている。ただ、弱いこの体が、エドガルドの動きについてこれないだけだ。今だって、油断しているこの男を斬り殺すことは容易かったはずだ。
 エドガルド・フェリシンだったなら!

 敵の将校に突き付けた剣先が、がたがたと震えだした。柄を握る指先がじっとりと汗ばむ。息が上がり、俺は、ぽろりと剣を落としてしまった。

「武器を落としたらダメだ。味方に混乱を招く。指揮官がそれをやったら、戦場は大荒れになる」
屈みこんで剣を拾い上げ、シャルワーヌは言った。
「先日も、戦隊長の一人が……、おや、どうした?」

 情けないことに、俺の膝は震えていた。熱い塊が、腹の底で暴れている。
 例の発作だ。
 なんてことだ。こんな時に!

「まだ本調子でないのか。無理をするからだ」
「近寄らないで!」
悲鳴のように俺は叫んだ。
「匂いが……」

 シャルワーヌ将軍の体からは、香料を焚きしめたような芳香が漂ってきていた。
 違う。香料のように、押しつけがましい匂いではない。ずっと密やかで、控えめな匂いだ。彼のすぐそばに近寄らなければわからないほどの。

 一度意識に上ったそれは、今や濃密に、嗅覚を刺激していた。あまりの強い刺激に、くらくらと眩暈を感じた。
 今にも倒れそうだった。立っているのがやっとだ。

「匂い?」
シャルワーヌは、怪訝な顔をした。すぐに間が悪そうな顔になり、自分の腕や脇の匂いを嗅ぎ始めた。
「すまない。ゆうべ、沐浴を怠ったからな。なにせ、陣に戻ったのが遅い時間で、」


「シャルワーヌ将軍!」
庭の外れから、声がかかった。彼の副官がこちらを見ている。
「そんなところで、何を道草喰ってるんです。出発の時間ですよ!」

「今行く!」
副官に向かって叫び返してから、シャルワーヌは、俺に向き直った。幾分震えの治まった俺の手に、剣を握らせた。ほんのわずかな接触だったが、大きなてのひらの感触に、俺の体はまた、細かく震えだす。
「ムメールどもが、また、おいた・・・を始めたようだ。砂漠から出てきて、民家を襲ったという」

 上ザイードを支配していた武装集団ムメール軍は、シャルワーヌ師団に追われ、散り散りになって逃げていった。その残党が、遠くの村で人と物資を補給し、戻ってきたらしい。

 尊大に俺を見下ろしたまま、シャルワーヌは続ける。
「あのな。万が一ということがある。庭に見張りの兵がいない時は、建物の外に出るな。さらわれたら大変だ。あいつらは、美しい少年が大好きだから」
「っ!」

 美しい少年だと?
 なんと侮蔑的な罵倒だろう! 上ザイードの総督は、捕虜をいたぶっているのだろうか?
 だが、シャルワーヌ将軍は、大まじめだった。

「今日は、俺が見張りを務めた。だが、俺もいつもここにいるわけじゃない。約束してくれ。庭に見張りの兵士がいる時でないと、外には出ないと」
 シャルワーヌ将軍が、見張りを?

 俺を見守っていてくれたというのか?
 あまりの意外さに、眩暈がするのも忘れ、彼の顔を見上げた。
 頬に傷のある、浅黒い顔が微笑んだ。

 ずくん。
 激しく心臓が疼いた。耐えきれず、俺は、へなへなとその場に座り込んでしまった。

「大丈夫か? おい」
「ぼ、僕のことは気にしないで」
「しかし……」

「シャルワーヌ将軍! 時間です!」
 再び副官が苛立った声を上げる。
「わかった! 今行く!」

副官に向けて怒鳴り返し、彼は俺の傍らにしゃがみこんだ。
「すぐに人を寄越そう。ここを動くんじゃないぞ。決して無茶をするな」

 体の震えを懸命に抑えつけ、やっとのことで俺は頷いた。眩暈がひどく、頭を上げて彼を見上げることすらできない。

 俺を覆っていた影が消えた。歩き去っていく重いブーツの靴音が聞こえる。
 包みこまれていた彼の残り香も、いつの間にか流れ去ってしまった。なぜかそれが、とても残念で……。
 体の震えが治まらない。ずるずると地面に横倒しに崩れ落ちた。ひんやりとした土が、火照った体に心地いい。

 なんだ。
 いったいなんだっていうんだ。
 なぜ俺は、あの将軍が近づくと、こんな風に……。
 彼の匂い? それが、どうした!


 「ジウ王子!」
 ばたばたと足音が聞こえた。約束通り、シャルワーヌ将軍は、アソムを呼んでくれたのだ。

 再び、胸が、とくんと鳴った。

「ああ! なんてことだ!」
「大丈夫」
言いながら、両手をついて自力で起き上がった。

「いったい、どうしたというのです? まさか総督が……」
 疑惑の眼差しで、アソムは俺を見つめた。体についた土埃を叩き落としながら、俺の回りを回り始めた。

「何をしているの、アソム?」
「調べているのでございますよ。服の乱れはないか、破れてはいないか!」
「なんで?」
「わたくしめは、あの将軍を信用してはおりませんのです」

ずばりとアソムは言い放った。その意味することを悟り、俺は頬を赤らめた。

「そんな人じゃないよ、シャルワーヌ将軍は」
この言葉を言わせたのは、俺自身ではなかった気がする。

 ともかく、俺は、シャルワーヌを弁護した。そういう意味・・・・・・で、彼が何もしなかったのは事実だし、何かあったとアソムに思われるのは、それはそれで屈辱だった。

「よろしい」
 気が済むまでチェックをすると、アソムはようやく納得したようだった。
 俺はほっとした。


 俄かに、門の外側が賑やかになった。武具を携えた物々しい一団が、丘を登っていくのが見える。

 竜騎兵達の先頭で、馬を走らせているのは、シャルワーヌ・ユベール将軍だった。指揮官でありながら、どのような危険な戦闘においても、彼は真っ先に出陣し、軍の一番前で戦うのだ。

 ……あれ?
 なぜ俺は、シャルワーヌ将軍の戦法を知っている? これは、ジウの記憶か?
 よくわからない。
 飾りを一切排した地味な軍服を着用し、無造作に束ねた黒髪の将軍を見ているうちに、治まっていた筈の動悸が、再び蘇ってくるのを感じた。


「ジウ王子? いかがしました?」
「へ、平気……」

俺の視線の先に、アソムは目を泳がせた。
「大丈夫ですよ、殿下。シャルワーヌ将軍はお出かけです。あの様子では、暫くは帰って来ないでしょう」

 ……恐怖?
 不意に俺は気がついた。
 この感情は、恐れなのかもしれない。
 アソムが、必要以上に彼を警戒するのも、俺が怯えるからだ。

 おそらくジウ王子は、かつてよほどのひどい仕打ちをシャルワーヌ将軍から受けたに違いない。さもなければ、彼に近づくたびに感じる、このような激しい動悸と胸の痛み、こみ上げてくる熱の、説明がつかない。
 全ては、彼からの逃避を指し示している。全力で逃げ出せと、体が命じているのだ。

 これら激情の底にある、ざらついた甘さについては無視することにした。甘さを感じるなど、勘違いも甚だしい。
 相手が裏切り者の貴族、革命軍将校である以上、彼は、人間の屑だ。尊敬であれ友情であれ、まして恋愛感情など、全く相容れない感情だ。

 腹の底に沸き上がる激情は、あまりの恐怖に動転した体が起こした誤作動に違いない。






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