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Ⅰ 砂漠とオアシス
プロローグ ―― 陥落
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無言で男は、両腕を拡げた。
無防備だったジウは、意外過ぎる男の動きに、完全に機勢を制されてしまった。逃げることはおろか、防御の姿勢をとるさえ覚束なかった。なすすべもなく両腕で囲われ、抱き締められる。しっかりと抱きかかえられ、足はおろか、指先さえ、動かすことができない。
シャルワーヌ・ユベール。この男は、こんなに大きかったか。こんなに力が強く、強引だったか。
彼の力は、強引な腕力などではなかった。それは、存在の大きさそのものだった。
彼は、いつだって、軍の先頭にいた。黒髪をなびかせ、首元のスカーフを解けたままに馬を駆り、敵陣に切り込んでいく姿は、まさしく軍神そのものだった。
胸が、ずくん、と疼いた。
……愛しい。
「嘘だ!」
思わず、彼は叫んだ。この男は、敵の将校だ。王を裏切った裏切り者だ。
愛しい?
あり得ない。こいつは敵だ。こいつを殺すことが、彼の使命だったはずだ。かつて、エドガルド・フェリシンと呼ばれていた頃の。
抱きしめる力が、わずかに緩んだ。
「嘘? 俺がいつ、嘘をついた?」
「貴方はいつも、嘘ばかりだ!」
ふ、とシャルワーヌが笑った。髭の中に隠した頬の傷が引き攣れる。
「色恋沙汰においては、そうだったかもしれない。よく、軽はずみでこらえ性がないと言われるよ。しかし、立場の弱みに付け込むことは、許されない。俺は、占領国の捕虜に手を出したりはしない。ましてや、ウテナの王子には」
「だったら、この手を離せ! 不敬だぞ!」
低い声でシャルワーヌは笑った。
「本人が望むのなら、話は別だ。合意の上でなら、何の問題もない」
「合意だと?」
ジウは激怒した。
「ふざけるな! この腕を離せ! 誰がお前なんかのっ!」
「おや、そうかな? お前はいつも、俺を熱い目で追っていたじゃないか」
……愛している。
「ほら。その目だ」
「それは俺じゃない!」
叫びは声にならなかった。
髭だらけの口が降ってきた。避ける間もなく、ジウの唇は端から端までシャルワーヌの唇で覆われ、塞がれた。
「……う」
乾いた、温かい唇だった。
……ああ、シャルワーヌ。
……待ってた。ずっと。あなたが振り返ってくれるのを。
うるさい! 黙れ!
心の奥底に湧いた、声ともいえぬ思念に向けて怒鳴りつける。
その間に、ぬるりと舌が滑り込んできた。ジウの顔色が変わった。
「あ、あ、あ……」
必死で首を左右に振って追い出そうとするのだが、後頭部を鷲掴みにされ、動けない。ジウの動きを封じ込め、口づけはより深くなる一方だ。
「うぐっ」
挨拶のように歯列をなぞり、シャルワーヌの舌はおもむろに、口腔内へ忍び込んでくる。頬を探り、上顎を内側から撫でまわし……。
「……あ」
ジウの全身から力が抜けた。噛みしめていた奥歯が緩く開き、蹂躙してくる舌を受け容れる。
……好き。好き。
もはや誰のものともわからない思いが、ジウの全身を駆け巡る。
唾液が注ぎ込まれ、自分のそれと混ざり合う。無我夢中で、ジウは、男の首筋に両手を回した。
抱擁がきつくなった。苦しさに我に返り、ジウは、その手を解こうとした。だが、できない。体がいうことをきかない。
初めて知ったシャルワーヌのキスは、深く巧みだった。舌が口腔中を這いまわり、翻弄する。
ぽつりと、体の一部に火がついた。シャルワーヌの首に回された手に力が込められる。
この男に欲望を?
あってはならないことだ。だって自分は、かつてエドガルド・フェリシンだった自分は、この男を殺さなければならないのだから。
だが、理性の声は、あまりに小さすぎた。
ジウの膝から、力が抜けた。崩れ落ちそうになるのを、逞しい腕が支えた。
シャルワーヌの方が、背が高い。上を向いてるジウの唇の端から、涎が溢れた。
破裂音がして、唇が離れた。
「……いい子だ」
低い声が囁いた。ジウがこれまで聞いたこともないような、深い声。
肩で息をし、ジウは声も出ない。長く深いキスは呼吸を詰まらせ、頭がぼおーっとする。まともにものが考えられない。
すっと指が伸びてきて、ジウの口の端を拭った。羞恥で、ジウの心は張り裂けそうになった。
「愛して欲しい」
あまりにも唐突だった。
シャルワーヌには、強大な権力がある。奴隷を贖うこともできれば、属国から愛妾を召し出すことだってできる。
それなのに彼は繰り返した。
「俺を愛してくれ。俺のことだけを考えて、俺だけでお前の心を満たすんだ」
切なげな声った。傲慢な男に、全くふさわしくない。心細そうな、寄る辺のない……。
……あなたを愛していた。
……ずっとずっと。
ジウの体の奥底から、今の彼のものではないはずの思いが溢れた。
無防備だったジウは、意外過ぎる男の動きに、完全に機勢を制されてしまった。逃げることはおろか、防御の姿勢をとるさえ覚束なかった。なすすべもなく両腕で囲われ、抱き締められる。しっかりと抱きかかえられ、足はおろか、指先さえ、動かすことができない。
シャルワーヌ・ユベール。この男は、こんなに大きかったか。こんなに力が強く、強引だったか。
彼の力は、強引な腕力などではなかった。それは、存在の大きさそのものだった。
彼は、いつだって、軍の先頭にいた。黒髪をなびかせ、首元のスカーフを解けたままに馬を駆り、敵陣に切り込んでいく姿は、まさしく軍神そのものだった。
胸が、ずくん、と疼いた。
……愛しい。
「嘘だ!」
思わず、彼は叫んだ。この男は、敵の将校だ。王を裏切った裏切り者だ。
愛しい?
あり得ない。こいつは敵だ。こいつを殺すことが、彼の使命だったはずだ。かつて、エドガルド・フェリシンと呼ばれていた頃の。
抱きしめる力が、わずかに緩んだ。
「嘘? 俺がいつ、嘘をついた?」
「貴方はいつも、嘘ばかりだ!」
ふ、とシャルワーヌが笑った。髭の中に隠した頬の傷が引き攣れる。
「色恋沙汰においては、そうだったかもしれない。よく、軽はずみでこらえ性がないと言われるよ。しかし、立場の弱みに付け込むことは、許されない。俺は、占領国の捕虜に手を出したりはしない。ましてや、ウテナの王子には」
「だったら、この手を離せ! 不敬だぞ!」
低い声でシャルワーヌは笑った。
「本人が望むのなら、話は別だ。合意の上でなら、何の問題もない」
「合意だと?」
ジウは激怒した。
「ふざけるな! この腕を離せ! 誰がお前なんかのっ!」
「おや、そうかな? お前はいつも、俺を熱い目で追っていたじゃないか」
……愛している。
「ほら。その目だ」
「それは俺じゃない!」
叫びは声にならなかった。
髭だらけの口が降ってきた。避ける間もなく、ジウの唇は端から端までシャルワーヌの唇で覆われ、塞がれた。
「……う」
乾いた、温かい唇だった。
……ああ、シャルワーヌ。
……待ってた。ずっと。あなたが振り返ってくれるのを。
うるさい! 黙れ!
心の奥底に湧いた、声ともいえぬ思念に向けて怒鳴りつける。
その間に、ぬるりと舌が滑り込んできた。ジウの顔色が変わった。
「あ、あ、あ……」
必死で首を左右に振って追い出そうとするのだが、後頭部を鷲掴みにされ、動けない。ジウの動きを封じ込め、口づけはより深くなる一方だ。
「うぐっ」
挨拶のように歯列をなぞり、シャルワーヌの舌はおもむろに、口腔内へ忍び込んでくる。頬を探り、上顎を内側から撫でまわし……。
「……あ」
ジウの全身から力が抜けた。噛みしめていた奥歯が緩く開き、蹂躙してくる舌を受け容れる。
……好き。好き。
もはや誰のものともわからない思いが、ジウの全身を駆け巡る。
唾液が注ぎ込まれ、自分のそれと混ざり合う。無我夢中で、ジウは、男の首筋に両手を回した。
抱擁がきつくなった。苦しさに我に返り、ジウは、その手を解こうとした。だが、できない。体がいうことをきかない。
初めて知ったシャルワーヌのキスは、深く巧みだった。舌が口腔中を這いまわり、翻弄する。
ぽつりと、体の一部に火がついた。シャルワーヌの首に回された手に力が込められる。
この男に欲望を?
あってはならないことだ。だって自分は、かつてエドガルド・フェリシンだった自分は、この男を殺さなければならないのだから。
だが、理性の声は、あまりに小さすぎた。
ジウの膝から、力が抜けた。崩れ落ちそうになるのを、逞しい腕が支えた。
シャルワーヌの方が、背が高い。上を向いてるジウの唇の端から、涎が溢れた。
破裂音がして、唇が離れた。
「……いい子だ」
低い声が囁いた。ジウがこれまで聞いたこともないような、深い声。
肩で息をし、ジウは声も出ない。長く深いキスは呼吸を詰まらせ、頭がぼおーっとする。まともにものが考えられない。
すっと指が伸びてきて、ジウの口の端を拭った。羞恥で、ジウの心は張り裂けそうになった。
「愛して欲しい」
あまりにも唐突だった。
シャルワーヌには、強大な権力がある。奴隷を贖うこともできれば、属国から愛妾を召し出すことだってできる。
それなのに彼は繰り返した。
「俺を愛してくれ。俺のことだけを考えて、俺だけでお前の心を満たすんだ」
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