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2 天空への旅
2.エルナの要求
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荒れ果てた王宮の一室に入ってきた者がいる。
「久しぶりね、サハル」
大理石の卓にうつ伏していたセルネドが、ぼんやりとした目を上げる。卓の上には盃や壺が散乱し、彼が酒に酔っていることを物語っていた。
「エルナ?」
女性の顔を見るなり、サハルの顔が変わった。唇が引き締まり、目に輝きが戻る。
「君か、エルナ。帰ってきたんだな?」
「帰ってきたわけじゃない」
即座にエルナは否定した。
「なぜ? 俺は怒っていない。君がしたことはひどいことだったけど……でも、悪いのはダレイオだ。君は彼の犠牲になっただけだ」
「違うわ。私は私の意志でダレイオと寝たの。ちなみにあなたと同時進行で」
「……」
サハルは絶句した。沈黙が落ちる。再び口を開いたのは、やっぱりサハルだった。
「けれどそれは、俺が君を捨てたからだ。理不尽に君を置いて、ヴィットリーアと婚約したから、」
言いかけた途中で、エルナが遮った。
「貴方は、インゲレ王女との婚儀を受け容れるべきだった」
「なぜそんなことを言う! あの婚約は誤りだった! ヴィットーリアには、既に心に決めた人がいたんだ!」
「だったら、第二、第三の配偶であっても、貴方は彼女と婚儀を挙げ、インゲレに留まるべきだった」
「だからなぜそんな風に言うんだ! 俺にだって君がいたんだぞ!」
サハルは檄したが、反対にエルナは落ち着き払っていた。
「王族の務めでだからよ。両家の婚姻は、エメドラードの平和を守る為に必要だから」
「……」
もともとも青白かったサハルの顔が、漂白されたように真っ青になった。
「婚約破棄は王族の義務に反すると?」
「そう。肌の色の白い貴方には、国を統べる能力がない。それは、緑の肌に生まれた貴方の兄ダレイオの務め。たとえ望まぬ婚姻であろうと、貴方に選択肢はなかったのよ」
「エルナ……」
「でもね。貴方のことを責めているわけじゃないのよ。私にとってエメドラードの平和なんてどうだっていい」
エルナが口調を和らげた。条件反射のように、サハルの表情に期待が浮かぶ。
「ただね。今までのことを精算してほしいのよ」
「精算?」
「貴方とダレイオの間で弄ばれた件について、それなりの慰謝が欲しいの」
「弄ばれた? 俺は違う! 婚約は父から押し付けられたからであって、俺の意志ではない。だから、ヴィットーリア側から婚約を破棄されたのを幸いに、急いでエメドラードへ帰ってきたんだ。エルナ、君の元へ!」
「そう? ならそれでもいいわ。でも、ダレイオが私に手を出したのは、貴方のせいなのよ?」
「なんだって!?」
驚くサハルを、エルナは冷然と見据えた。
「思い出してみて。貴方と恋愛関係にあった女性たちはどうなってしまったかしら。清純だったマリアーナ、あでやかなルチア、妖艶なタチアナ……」
みんな、いつの間にか姿を消していた。どのコも、多少飽きが来ていたので、サハルはあえて探すことさえしなかった……。
「薄情な男ね。私にはわかっていたわ。貴方の愛なんてそんなものよ。言い換えれば、貴方は誰かを真剣に愛したことなんて一度もない。でも、まあいいわ。問題は、そんな貴方に執着し、敵を排除した人間が身近にいたということ」
「敵?」
「貴方が遊んだ女の子達よ。たとえ一時の遊びであっても、彼は許せなかったのね」
「エルナ、何の話をしているのか、俺にはさっぱり……」
「ダレイオよ。彼が貴方の恋人たちを、片っ端から排除したの」
サハルの表から表情が消えた。
何も気がつかないように、エルナは続ける。
「私の場合は、タビサがいたから。ダレイオの妻になった姉がね。貴方と違ってダレイオは、王族の務めをよく弁えていた。私たちのテンドール家は、王家に仇敵する魔術使いの家柄。代々伝わる魔の血が、王家にはどうしても必要だった。ダレイオはタビサと別れるわけにはいかない。もし私が姉に、彼女の夫との関係をぶちまけてしまったら……」
きゅっとつり上がった唇の端が、邪悪に歪む。
「さっき君は、」
言いかけ、サハルは乾いた唇を嘗めた。
「さっき君は、君の意志でダレイオと寝たと言った」
「私達……私とダレイオは、一生、貴方を欺き通すつもりだった。貴方と姉を。それが、貴方たちへの愛情だと思っていたの。けれど、運の悪いことに、生まれた子はダレイオの子だった。ほんと、肌の色って、タチが悪いわ!」
サハルの唇がわなないた。
「欺き通すことが愛情だと?」
「上等でしょ? 貴方は私を愛してなんかいなかった」
「そんなことはない! 俺は君を大事に思っていた!」
「それは愛じゃないから」
ずばりと指摘され、サハルの目に凶暴な光が宿った。
「じゃ、何をどうすることが愛だっていうんだ!?」
「ダレイオが貴方に向ける欲望よ。彼は、私の中の貴方を求めた。それは貴方の愛し方と全く違った。全くね! あれは本物の愛だった。ただし、彼のは、貴方への愛だったけれどね」
「そんなこと、あるわけない!」
「なら、教えてよ。知力・体力、体格差、どれをとってもダレイオは貴方より格上だわ。その兄を、貴方はどうやって打ち負かすことができたのかしら?」
サハルの顔がいっそう青ざめた。エルナの顔を見ていることができないというように、彼は顔をそむけた。
「私、見ちゃったの。ダレイオの寝室で……」
エルナが身を屈めた。反射的にサハルは逃れようとしたが、彼女は許さなかった。追い打ちをかけようとするかのように、彼の耳元で囁く。
「そして知った。ダレイオにとって私は、貴方の代用品でしかなかった」
「……何を言っているのかわからない」
かろうじてサハルは声を絞り出した。エルナは肩を竦めた。
「なら、分かる話をしましょう」
サハルの耳から口を離し、エルナは身を起こした。極めて事務的に話し出す。
「あなた方兄弟につき合ってあげた結果、私は姉の庇護をなくしてしまった。ルーワンがダレイオの子だと知ったタビサは怒り狂った。私を憎み、暴力をふるうようになった。もう姉のそばにはいられない。それに、このような立場では実家を頼ることもできない。でもね。私だって、生きて行かなくちゃならないのよ」
「俺が責任を持つ」
呆れた表情がエルナの緑の目に浮かんだ。
「まだそんなことを。この私が、貴方の愛が欲しくて泣いて縋っているとでも? わからないようだから、はっきり言うね。エルファ領でいいわ。西の国境のあそこなら、私にくれてもいいでしょ?」
サハルが息を呑む。
「まあ、貴方に断る権利はないわけだけど。もし、私が、真実を告げたら?」
「真実だと?」
「そう。前の王に組み敷かれた弟王になんて、この国の人は、誰一人として従わないでしょうね」
サハルが顔を挙げた。蒼白な顔の中で、赤い目だけがぎらぎらと光っている。
「君は、この俺を脅迫するのか?」
「脅迫じゃない。事実を言っているだけ」
エルナは大臣を呼び、手短に指令を下す。王の横暴に怯え切っていた大臣は、無言で押し黙っている王をちらりと見、即座に書類を集めに走り去っていった。
「そうそう、貴方に手土産を持ってきたわ」
立ち去りかけて、エルナは振り返った。
「ルーワンよ。生意気に逃げようとするから、城の地下牢に放り込んでおいた」
「なぜ君は、俺の所へ、不義の子を連れて来るんだ?」
さすがに耐えかねたサハルの声が掠れる。
「だって貴方は必要でしょ? 死骸を刻んでタバシン河に流しても無駄よ。ダレイオの息の根を止めることができるのは、緑の肌を受け継いだ息子だけ。ルーワンにしかできないのよ」
「久しぶりね、サハル」
大理石の卓にうつ伏していたセルネドが、ぼんやりとした目を上げる。卓の上には盃や壺が散乱し、彼が酒に酔っていることを物語っていた。
「エルナ?」
女性の顔を見るなり、サハルの顔が変わった。唇が引き締まり、目に輝きが戻る。
「君か、エルナ。帰ってきたんだな?」
「帰ってきたわけじゃない」
即座にエルナは否定した。
「なぜ? 俺は怒っていない。君がしたことはひどいことだったけど……でも、悪いのはダレイオだ。君は彼の犠牲になっただけだ」
「違うわ。私は私の意志でダレイオと寝たの。ちなみにあなたと同時進行で」
「……」
サハルは絶句した。沈黙が落ちる。再び口を開いたのは、やっぱりサハルだった。
「けれどそれは、俺が君を捨てたからだ。理不尽に君を置いて、ヴィットリーアと婚約したから、」
言いかけた途中で、エルナが遮った。
「貴方は、インゲレ王女との婚儀を受け容れるべきだった」
「なぜそんなことを言う! あの婚約は誤りだった! ヴィットーリアには、既に心に決めた人がいたんだ!」
「だったら、第二、第三の配偶であっても、貴方は彼女と婚儀を挙げ、インゲレに留まるべきだった」
「だからなぜそんな風に言うんだ! 俺にだって君がいたんだぞ!」
サハルは檄したが、反対にエルナは落ち着き払っていた。
「王族の務めでだからよ。両家の婚姻は、エメドラードの平和を守る為に必要だから」
「……」
もともとも青白かったサハルの顔が、漂白されたように真っ青になった。
「婚約破棄は王族の義務に反すると?」
「そう。肌の色の白い貴方には、国を統べる能力がない。それは、緑の肌に生まれた貴方の兄ダレイオの務め。たとえ望まぬ婚姻であろうと、貴方に選択肢はなかったのよ」
「エルナ……」
「でもね。貴方のことを責めているわけじゃないのよ。私にとってエメドラードの平和なんてどうだっていい」
エルナが口調を和らげた。条件反射のように、サハルの表情に期待が浮かぶ。
「ただね。今までのことを精算してほしいのよ」
「精算?」
「貴方とダレイオの間で弄ばれた件について、それなりの慰謝が欲しいの」
「弄ばれた? 俺は違う! 婚約は父から押し付けられたからであって、俺の意志ではない。だから、ヴィットーリア側から婚約を破棄されたのを幸いに、急いでエメドラードへ帰ってきたんだ。エルナ、君の元へ!」
「そう? ならそれでもいいわ。でも、ダレイオが私に手を出したのは、貴方のせいなのよ?」
「なんだって!?」
驚くサハルを、エルナは冷然と見据えた。
「思い出してみて。貴方と恋愛関係にあった女性たちはどうなってしまったかしら。清純だったマリアーナ、あでやかなルチア、妖艶なタチアナ……」
みんな、いつの間にか姿を消していた。どのコも、多少飽きが来ていたので、サハルはあえて探すことさえしなかった……。
「薄情な男ね。私にはわかっていたわ。貴方の愛なんてそんなものよ。言い換えれば、貴方は誰かを真剣に愛したことなんて一度もない。でも、まあいいわ。問題は、そんな貴方に執着し、敵を排除した人間が身近にいたということ」
「敵?」
「貴方が遊んだ女の子達よ。たとえ一時の遊びであっても、彼は許せなかったのね」
「エルナ、何の話をしているのか、俺にはさっぱり……」
「ダレイオよ。彼が貴方の恋人たちを、片っ端から排除したの」
サハルの表から表情が消えた。
何も気がつかないように、エルナは続ける。
「私の場合は、タビサがいたから。ダレイオの妻になった姉がね。貴方と違ってダレイオは、王族の務めをよく弁えていた。私たちのテンドール家は、王家に仇敵する魔術使いの家柄。代々伝わる魔の血が、王家にはどうしても必要だった。ダレイオはタビサと別れるわけにはいかない。もし私が姉に、彼女の夫との関係をぶちまけてしまったら……」
きゅっとつり上がった唇の端が、邪悪に歪む。
「さっき君は、」
言いかけ、サハルは乾いた唇を嘗めた。
「さっき君は、君の意志でダレイオと寝たと言った」
「私達……私とダレイオは、一生、貴方を欺き通すつもりだった。貴方と姉を。それが、貴方たちへの愛情だと思っていたの。けれど、運の悪いことに、生まれた子はダレイオの子だった。ほんと、肌の色って、タチが悪いわ!」
サハルの唇がわなないた。
「欺き通すことが愛情だと?」
「上等でしょ? 貴方は私を愛してなんかいなかった」
「そんなことはない! 俺は君を大事に思っていた!」
「それは愛じゃないから」
ずばりと指摘され、サハルの目に凶暴な光が宿った。
「じゃ、何をどうすることが愛だっていうんだ!?」
「ダレイオが貴方に向ける欲望よ。彼は、私の中の貴方を求めた。それは貴方の愛し方と全く違った。全くね! あれは本物の愛だった。ただし、彼のは、貴方への愛だったけれどね」
「そんなこと、あるわけない!」
「なら、教えてよ。知力・体力、体格差、どれをとってもダレイオは貴方より格上だわ。その兄を、貴方はどうやって打ち負かすことができたのかしら?」
サハルの顔がいっそう青ざめた。エルナの顔を見ていることができないというように、彼は顔をそむけた。
「私、見ちゃったの。ダレイオの寝室で……」
エルナが身を屈めた。反射的にサハルは逃れようとしたが、彼女は許さなかった。追い打ちをかけようとするかのように、彼の耳元で囁く。
「そして知った。ダレイオにとって私は、貴方の代用品でしかなかった」
「……何を言っているのかわからない」
かろうじてサハルは声を絞り出した。エルナは肩を竦めた。
「なら、分かる話をしましょう」
サハルの耳から口を離し、エルナは身を起こした。極めて事務的に話し出す。
「あなた方兄弟につき合ってあげた結果、私は姉の庇護をなくしてしまった。ルーワンがダレイオの子だと知ったタビサは怒り狂った。私を憎み、暴力をふるうようになった。もう姉のそばにはいられない。それに、このような立場では実家を頼ることもできない。でもね。私だって、生きて行かなくちゃならないのよ」
「俺が責任を持つ」
呆れた表情がエルナの緑の目に浮かんだ。
「まだそんなことを。この私が、貴方の愛が欲しくて泣いて縋っているとでも? わからないようだから、はっきり言うね。エルファ領でいいわ。西の国境のあそこなら、私にくれてもいいでしょ?」
サハルが息を呑む。
「まあ、貴方に断る権利はないわけだけど。もし、私が、真実を告げたら?」
「真実だと?」
「そう。前の王に組み敷かれた弟王になんて、この国の人は、誰一人として従わないでしょうね」
サハルが顔を挙げた。蒼白な顔の中で、赤い目だけがぎらぎらと光っている。
「君は、この俺を脅迫するのか?」
「脅迫じゃない。事実を言っているだけ」
エルナは大臣を呼び、手短に指令を下す。王の横暴に怯え切っていた大臣は、無言で押し黙っている王をちらりと見、即座に書類を集めに走り去っていった。
「そうそう、貴方に手土産を持ってきたわ」
立ち去りかけて、エルナは振り返った。
「ルーワンよ。生意気に逃げようとするから、城の地下牢に放り込んでおいた」
「なぜ君は、俺の所へ、不義の子を連れて来るんだ?」
さすがに耐えかねたサハルの声が掠れる。
「だって貴方は必要でしょ? 死骸を刻んでタバシン河に流しても無駄よ。ダレイオの息の根を止めることができるのは、緑の肌を受け継いだ息子だけ。ルーワンにしかできないのよ」
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