ライヒシュタット公の手紙

せりもも

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ナンディーヌ、テレーゼ

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※文中、ライヒシュタット公のことは、「プリンス」「殿下」「フランツ」「ナポレオンの息子」とも呼ばれています
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その晩は来客もなく、質素なディナーで満足するつもりだった。ファニーは6人きょうだいだった。実入りの少ない父を助け、母は洗濯女として働いていた。今だって、パンとスープがあればそれで充分だ。
 蝋燭の元での満ち足りた食事は、しかし、華々しく玄関ドアを乱打する音で邪魔が入った。

 「やあ、美人さん。こんばんは」
悪気もなく言ってのけたのは、中肉中背、少し窪んだ眼をした青年だった。
「僕はモーリツ・エステルハージ。で、こいつは、グスタフ・ナイペルク」
 グスタフは陰気な顔をした青年だった。モーリツより年下で、彼よりも背が高い。どこかの夜会へ行く途中だろうか。二人ともステッキを小脇に抱え、フロックを着用して盛装していた。

 踊り子という職業柄、貴族と会うことも少なくはない。ファニーのファンには、青年貴族も多い。しかし、この国オーストリアでも一、二を争うエステルハージ家の御曹司が訪ねてくるとは。
 グスタフ・ナイペルクの名にも、聞き覚えがあった。彼の父親は、フランスとの戦いで勇敢に戦った軍人だ。オランダで片目を失い、その武勇を買われ、皇帝の娘の護衛官として採用された。
 皇帝の娘……ナポレオンの二度目の妻で、プリンスの母である。夫が遠い南海の島へ流されると、彼女はイタリアに領土を貰い、旅立っていった。ナイペルクを従えて。
 5歳にも満たない息子……後のライヒシュタット公は、ウィーンに置き去りにされた。
 息子の元には、数年に一度しか帰って来ないという。
 当時から、ナポレオンの妻と護衛官の間には、とかくの噂があった。その噂はかなりの確率で真実だったが、グスタフは、ナイペルクの前の結婚で得た息子だ。

 「すらりとした筋肉質で、敏捷そうで。でも、顔は素晴らしく知的だ。なるほどな。こういう感じが、殿下の好みだったか」
モーリツが言って、ぴしゃりと自分の額を叩いた。

「俺の選んだ女優は充分知的だった!」
憤然とグスタフが口を出す。
「テレーズ・ペシェは、ブルク劇場の看板女優だ。ウィーンで今一番、ホットな女性だ!」

「いや、君、グスタフ。彼女は些か年齢がいっていないかい?」
「何を言うか。俺よりたった5つ上なだけだ。つまり、プリンスよりということだ。俺とプリンスは同い年だから。年齢が上なのは、この際、プラスだ。テレーズ・ペシェの場合、それだけ俺達より聡明だってことになる」
「確かに。バカに女優は務まらないからな。彼女のジュリエットは素晴らしかった」

 テレーズ・ペシェは、ウィーンでも評判の女優だ。オーストリア将校の娘として生まれた彼女は、ごく若い頃に、文学者のシュレーゲルにその成功を予言されている。

「うむ。俺は彼女に毎日のように花を贈った。プリンスの名前で! おかげで花屋にひと財産、つぎ込んじまったぜ。努力の甲斐あってようやく彼女の楽屋に通ることを許されたのに、プリンスの奴……」
「おい」
「だってモーリツ、君も見たろう? プリンスったら、彼女をまともに見もしないんだ。つーんって澄ましててさ。気を利かせたテレーズが話しかけても、知らん顔さ。あれじゃダメだ。花屋につぎ込んだ金が無駄になった」

 巷ではこの二人の青年貴族は、遊び人の放蕩息子として有名だ。どうやら二人は、ライヒシュタット公を遊びに連れ出そうと躍起になっているようだ。
 モーリツ・エステルハージが頷いた。

「確かにあれはひどかったなあ。殿下は女嫌いじゃないはずなのに。ナンディーヌとはそれなりにうまくいってたんだ」
「去年の話だろ?」
「うん。殿下ときたら、爪をナンディーヌと同じようにトルコ風に整えたり、彼女の家で朝まで踊ったり」
「君も一緒だったよな、モーリツ」
「まあね。でも、二人はとてもいいムードだったんだ。殿下は、ナンディーヌのことを善良だと感心していたよ。それがこの頃では、彼のカロリィ家(ナンディーヌの家)への訪れは、ばったりなんだって」
「なんで?」
「知らん。こないだ殿下に会ったら、オーストリアの貴公子は、結婚まで純潔を保つことが大切だと言っていたよ。どうやら皇帝に釘を刺されたらしい。惜しいなあ。ナンディーヌは経験も豊富だし、とてもいい娘なのに」

 経験も豊富? 聞き捨てならない言葉だ。ファニーは耳をそばだてた。
 ナポレオンの息子。ただそれだけで、ライヒシュタット公は女好きであると推測される要素がある。その上彼女の母親は、夫の生存中から、護衛官……グスタフの父だ……の子どもを二人も生んでいた。
 父と母、どちらに転んでも、芳しくない噂しか出てこない。

 グスタフがため息をついた。
「惜しいなあ。君の紹介じゃなかったらよかったのに」
「なんだって?」
「だから、ナンディーヌ嬢が、遊び人の君の友人でなかったら、殿下ももっと本気になったんじゃないか?」
「何を言う。誰かが彼女の悪口を言ったのにちがいないんだ」
「誰かって誰だ?」
「君みたいなやつだよ、グスタフ」
「なんだって!?」

 「ちょっと、」
険悪な雰囲気になりかけた二人の青年貴族の間に、ファニーは割って入った。
「お二人は何しにいらしたの?」

 モーリツがぽん、と両手を打ち合わせた。
「おおそうだ! 忘れていた! プリンスが付文をしている娘がいると、彼の付き人から聞いたから。それも、何通も何通も送っているって」
 グスタフも頷く。
「だから拝みに来たのさ。僕らが紹介した選りすぐりの美女じゃダメで、君ならいいという理由を探りにね!」

 二人は顔を見合わせ頷き合った。同時にファニーに向き直る。

「ファニー・エルスラー嬢、君なら安心だ。殿下を頼むよ。よろしくご指導してやってくれ」
「だが、孕んではだめだ。ただでさえ宮廷経済は火の車だからな。これ以上私生児が増えると、皇帝が卒倒される」

 ファニーは肩を竦めた。二人を玄関先に置き去りに、無言で家の中に取って返す。
「これ。殿下からの手紙」
 戻ってくると、例によって、追伸の部分だけを街灯の光に晒す。

「……」
「……」
 二人の放蕩者は絶句した。

「どう思う、グスタフ」
「だからモル(◇1参照)は、詳しいことを教えてくれなかったんだな。あいつ、本気で殿下が好きだから」
「ハルトマンもハルトマンだ。全く、軍人の秘密主義にはうんざりだ」
「どうしよう、モーリツ」
「どうしようって、僕らが頑張るしかないじゃないか。今まで通り」
「今まで通り、殿下を連れ回すのか? この頃、誘ってもついて来なくて……」

「お二人とも、」
ファニーは割り込んだ。
「夜間の訪問と私への侮辱の数々は、プリンスへの友情に免じて許してあげます」

 二人の青年貴族は目を丸くした。
「なんだって? 君はこれを友情だと思うのか?」
「家庭教師や付き人達らには、殿下を放蕩に誘い込もうとしている悪魔の手下呼ばわりされているぞ」

「敵の目を欺くのに、最良の手段です。馬鹿のふりをして遊び回るのは」
ファニーが指摘する。

 一瞬の静寂が訪れた。

「怖いことを言うなあ。僕らはそんな高尚なことは考えてはいませんよ。もちろん、殿下もね」
 相変わらずへらへらと笑いながらモーリツが否定する。傍らでグスタフが色を失っているのがファニーには見て取れた。

 モーリツは軽く帽子を持ち上げた。
「お騒がせしました、お美しいお嬢さん。近いうちに舞台を観に伺いますよ」
「自分も行きます」
慌ててグスタフも申し出る。

「お二人とも、是非いらしてください」
にっこりとファニーは微笑んだ。






ナンディーヌ・カロリィ
(モーリツと同じハンガリー貴族で、母はカウニッツ家出身)





テレーズ・ペシェ
(女優)







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※モーリツ、グスタフ、ナンディーヌ、テレーズ・ペシェの4人は、本編の中で登場します。
「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129






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