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モル
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ウィーンの踊り子、ファニー・エルスラーの家に、一通の手紙が届けられた。筒状にくるくると丸められ、真ん中を赤いリボンで優雅に結わえられた手紙は、郵便配達人からファニーへ、恭しく手渡された。
ファニーは、踊り子にふさわしい、溌溂とした体つきの若い娘だ。大きな瞳に整った鼻筋をしている。
手紙を受け取り僅かに口元に笑みを浮かべた彼女は、かつかつと歩み寄って来る重いブーツの足音に顔を上げた。
白い軍服姿の帝国軍人が二人、すぐそばに立っていた。驚いた彼女は、大きな目をさらに大きく見開いた。
「失礼、お嬢さん。その手紙を、お渡し願えませんか?」
若い方の軍人が言った。ずけずけとした物言いで、遠慮というものが全くない。
「手紙……いえ、ダメです」
ファニーは、紙の筒をひしと胸に抱いた。
「この手紙は、とても大事なものですから」
「プリンス……ライヒシュタット公からの手紙ですね? 隠しても無駄です。わかっていますから」
ファニーは、一歩退いた。手紙を胸に押し付けたまま、いやいやをするように無言で首を横に振り続ける。
軍人はぐっと前へ踏み出した。
「それは、彼からの手紙ですね?」
きゅっと、ファニーは胸の手紙を抱きしめた。
「お渡しなさい」
首を振り、いやいやをする。
「さあ、早く」
手紙を胸に、ファニーはじりじりと後じさる。玄関ドアの内側まで入ってしまえば……けれど、相手は軍人だ。彼女に逃げ場はない。
「何か言ったらどうですか? 質問に答えなさい。……おい、この手紙は、宮殿から出されたものだな」
あんぐりと口を開けて、成り行きを眺めていた配達人は急に矛先を向けられ、ひどく焦った。反射的に、こくこくと頷く。
「ほら」
配達人から再び、ファニーに視線を戻し、軍人は冷たい声で言った。
「ライヒシュタット公のお立場は、おわかりですね? 彼に迷惑をかけたくなければ、その手紙をお渡しなさい」
「できません」
消え入るような声で、ファニーは答えた。
軍人は舌打ちした。
「静かに言っているうちに渡した方が、身の為ですよ」
「いやです」
「何たる強情な娘だ!」
「おい、モル。御婦人に手荒な真似をするんじゃない」
もう一人の年かさの方の軍人が割って入った。こちらの方が上官らしいのに、部下に対してどこか遠慮がちだ。
この二人は、プリンスに新しくつけられた軍の付き人なのだと、ファニーは理解した。
プリンス、即ちライヒシュタット公フランツは、ナポレオンの遺児だ。同時に、この国の皇帝の孫でもある。父の没落に伴い、子どもの頃にウィーン宮廷に引き取られた。
父の敵の中で育った彼は、軍務を志した。祖父の皇帝は孫の意志を尊重した。
しかし彼は、なかなか実務に就くことはなかった。この年の初夏(1831年6月)、20歳になった彼はようやく、ハンガリー第60連隊大隊長に任じられた。
モルと呼ばれた若い軍人は振り返り、上官に噛み付いた。
「あなたは黙って、ハルトマン将軍。私達には、義務があるのです。あらゆる悪評から、プリンスをお護りするという、神聖な義務が、ね!」
「嘘だわ。貴方がたの任務は、プリンスの監視よ!」
思わずファニーは叫んでいた。
「何?」
モルが憤った。しまったと思ったがもう遅い。こうなったら、突き進むのみだ。
「プリンスが手紙をここに送られたのを知っているのが、その何よりの証よ!」
プライベートな手紙を発送したと、彼が一々、軍の付き人に報告するわけがない。この二人の軍人は、日頃からプリンスの身の回りに目を光らせているのだとファニーは察した。
モルは怒りを全身に滾らせている。久しぶりでファニーは身の危険を感じた。踊り子として名を成してからは久しく忘れていた暴力の危険だ。
怒りにふるふると震え始めたモルを、上官のハルトマンが押しのけた。
「監視とは手厳しい。我々は、皇帝直々の命令を拝命しております。かわいい孫のことが、皇帝は心配でならないのですよ」
「心配ですって?」
子どもではない。任官を済ませた若者なのだ。けれどハルトマンは、自分の任務に少しの懸念も抱いていないようだ。青天白日のごとく続ける。
「ナポレオンの残党はまだまだ残っています。共和派も油断がならない。そうした外国勢力が殿下に接触し、彼に危険な思想を吹き込むことを、皇帝は恐れていらっしゃるのです」
「特に女性からの誘惑を警戒するよう、皇帝は我々に命じられたのだ」
モルが上官を押しのけた。両手を腰に当て、ファニーを睥睨する。
彼の態度からは、単なる任務では済まされない気迫が感じられた。モルというこの男は、本気で、プリンスを「女性」から守ろうとしていると、ファニーは気づき、危ういものを感じた。
「悪評と貴方は言いました」
モルに向き合い、彼女は聞き咎めた。眉間に皺を寄せる。
「この手紙によって、あの方に悪評が立つなどと私には思えません!」
「これだから女は……」
再び、モルは舌打ちをした。
「あなたには、彼のことがわかっていない! そんな女に、彼の愛情を受け取る資格はありません」
「……え?」
ファニーの顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。
一瞬だけ、緊張が緩んだ。
帝国軍人は、それを見逃さなかった。素早く、膨らんだ胸の間から、手紙を抜き取る。
筒状に巻かれた手紙は、簡単に、踊り子の胸の谷間から、モルの手へと移った。
まるで穢れた物を手にしたかのように手袋をした片手で一振りし、モルは手紙を広げた。
険しい目を、広げた紙の上に目を走らせる。
「……」
強張った顔が、強張ったまま固まった。
「おい、モル。何をしているんだ? 手紙は取り返したんだから、早く撤収を……」
背後から覗き込んだハルトマンと呼ばれた上官の目線が、部下の手に握られたままの手紙の追伸部分に注がれた。
「……」
無言で二人は顔を見合わせた。
こほん。
上官のハルトマンが咳払いをする。
「失礼しました。そういうことならいいのです」
固まったままの部下の背を押す。モルと呼ばれた若い軍人の顔には、しかしどこかほっとしたような色が浮かんでいることを、ファニーは見逃さなかった。
たとえて言うなら、奪われかけた宝物を無事、その手に取り戻したかのような。
すぐにその顔は、別の感情に取って代わった。激しい焦りと渇望、そして……嫉妬。
無言で手紙を巻き、モルはファニーに返して寄越した。
踊り子 ファニー・エルスラー
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
モルについては、
短編集「黄金の檻の高貴な囚人」の「画家からの手紙」
でも触れています
https://www.alphapolis.co.jp/novel/268109487/121264273/episode/1820937
モルの若かりし日の画像を FaceApp で作ってみました。上記「画家からの手紙」末尾の画像が元になっています
ファニーは、踊り子にふさわしい、溌溂とした体つきの若い娘だ。大きな瞳に整った鼻筋をしている。
手紙を受け取り僅かに口元に笑みを浮かべた彼女は、かつかつと歩み寄って来る重いブーツの足音に顔を上げた。
白い軍服姿の帝国軍人が二人、すぐそばに立っていた。驚いた彼女は、大きな目をさらに大きく見開いた。
「失礼、お嬢さん。その手紙を、お渡し願えませんか?」
若い方の軍人が言った。ずけずけとした物言いで、遠慮というものが全くない。
「手紙……いえ、ダメです」
ファニーは、紙の筒をひしと胸に抱いた。
「この手紙は、とても大事なものですから」
「プリンス……ライヒシュタット公からの手紙ですね? 隠しても無駄です。わかっていますから」
ファニーは、一歩退いた。手紙を胸に押し付けたまま、いやいやをするように無言で首を横に振り続ける。
軍人はぐっと前へ踏み出した。
「それは、彼からの手紙ですね?」
きゅっと、ファニーは胸の手紙を抱きしめた。
「お渡しなさい」
首を振り、いやいやをする。
「さあ、早く」
手紙を胸に、ファニーはじりじりと後じさる。玄関ドアの内側まで入ってしまえば……けれど、相手は軍人だ。彼女に逃げ場はない。
「何か言ったらどうですか? 質問に答えなさい。……おい、この手紙は、宮殿から出されたものだな」
あんぐりと口を開けて、成り行きを眺めていた配達人は急に矛先を向けられ、ひどく焦った。反射的に、こくこくと頷く。
「ほら」
配達人から再び、ファニーに視線を戻し、軍人は冷たい声で言った。
「ライヒシュタット公のお立場は、おわかりですね? 彼に迷惑をかけたくなければ、その手紙をお渡しなさい」
「できません」
消え入るような声で、ファニーは答えた。
軍人は舌打ちした。
「静かに言っているうちに渡した方が、身の為ですよ」
「いやです」
「何たる強情な娘だ!」
「おい、モル。御婦人に手荒な真似をするんじゃない」
もう一人の年かさの方の軍人が割って入った。こちらの方が上官らしいのに、部下に対してどこか遠慮がちだ。
この二人は、プリンスに新しくつけられた軍の付き人なのだと、ファニーは理解した。
プリンス、即ちライヒシュタット公フランツは、ナポレオンの遺児だ。同時に、この国の皇帝の孫でもある。父の没落に伴い、子どもの頃にウィーン宮廷に引き取られた。
父の敵の中で育った彼は、軍務を志した。祖父の皇帝は孫の意志を尊重した。
しかし彼は、なかなか実務に就くことはなかった。この年の初夏(1831年6月)、20歳になった彼はようやく、ハンガリー第60連隊大隊長に任じられた。
モルと呼ばれた若い軍人は振り返り、上官に噛み付いた。
「あなたは黙って、ハルトマン将軍。私達には、義務があるのです。あらゆる悪評から、プリンスをお護りするという、神聖な義務が、ね!」
「嘘だわ。貴方がたの任務は、プリンスの監視よ!」
思わずファニーは叫んでいた。
「何?」
モルが憤った。しまったと思ったがもう遅い。こうなったら、突き進むのみだ。
「プリンスが手紙をここに送られたのを知っているのが、その何よりの証よ!」
プライベートな手紙を発送したと、彼が一々、軍の付き人に報告するわけがない。この二人の軍人は、日頃からプリンスの身の回りに目を光らせているのだとファニーは察した。
モルは怒りを全身に滾らせている。久しぶりでファニーは身の危険を感じた。踊り子として名を成してからは久しく忘れていた暴力の危険だ。
怒りにふるふると震え始めたモルを、上官のハルトマンが押しのけた。
「監視とは手厳しい。我々は、皇帝直々の命令を拝命しております。かわいい孫のことが、皇帝は心配でならないのですよ」
「心配ですって?」
子どもではない。任官を済ませた若者なのだ。けれどハルトマンは、自分の任務に少しの懸念も抱いていないようだ。青天白日のごとく続ける。
「ナポレオンの残党はまだまだ残っています。共和派も油断がならない。そうした外国勢力が殿下に接触し、彼に危険な思想を吹き込むことを、皇帝は恐れていらっしゃるのです」
「特に女性からの誘惑を警戒するよう、皇帝は我々に命じられたのだ」
モルが上官を押しのけた。両手を腰に当て、ファニーを睥睨する。
彼の態度からは、単なる任務では済まされない気迫が感じられた。モルというこの男は、本気で、プリンスを「女性」から守ろうとしていると、ファニーは気づき、危ういものを感じた。
「悪評と貴方は言いました」
モルに向き合い、彼女は聞き咎めた。眉間に皺を寄せる。
「この手紙によって、あの方に悪評が立つなどと私には思えません!」
「これだから女は……」
再び、モルは舌打ちをした。
「あなたには、彼のことがわかっていない! そんな女に、彼の愛情を受け取る資格はありません」
「……え?」
ファニーの顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。
一瞬だけ、緊張が緩んだ。
帝国軍人は、それを見逃さなかった。素早く、膨らんだ胸の間から、手紙を抜き取る。
筒状に巻かれた手紙は、簡単に、踊り子の胸の谷間から、モルの手へと移った。
まるで穢れた物を手にしたかのように手袋をした片手で一振りし、モルは手紙を広げた。
険しい目を、広げた紙の上に目を走らせる。
「……」
強張った顔が、強張ったまま固まった。
「おい、モル。何をしているんだ? 手紙は取り返したんだから、早く撤収を……」
背後から覗き込んだハルトマンと呼ばれた上官の目線が、部下の手に握られたままの手紙の追伸部分に注がれた。
「……」
無言で二人は顔を見合わせた。
こほん。
上官のハルトマンが咳払いをする。
「失礼しました。そういうことならいいのです」
固まったままの部下の背を押す。モルと呼ばれた若い軍人の顔には、しかしどこかほっとしたような色が浮かんでいることを、ファニーは見逃さなかった。
たとえて言うなら、奪われかけた宝物を無事、その手に取り戻したかのような。
すぐにその顔は、別の感情に取って代わった。激しい焦りと渇望、そして……嫉妬。
無言で手紙を巻き、モルはファニーに返して寄越した。
踊り子 ファニー・エルスラー
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
モルについては、
短編集「黄金の檻の高貴な囚人」の「画家からの手紙」
でも触れています
https://www.alphapolis.co.jp/novel/268109487/121264273/episode/1820937
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