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万葉の季節
8 郊外の療養所
しおりを挟む桐原は、南洋の島で、死んだ。名誉の戦死ではない。病死だ。
彼の体を、俺は、駐屯地まで運ぶことができなかった。髪を切り取り、仲間のいる駐屯地まで帰った。
遺髪は、彼が最後まで持ち歩いていた『万葉集』と共に、内地に持ち帰った。
そう。
結局俺にはできなかった。
彼の『万葉集』を、切り裂き、破棄してしまうことが。
俺がどのように、ジャングルから駐屯地へ戻ったか、どんなふうに、内地へ帰ってきたか。
ここで、語りたくはない。人に語るということは、自分の中で、記憶を新たにすることだ。
俺は、もう、当時のことを、思い出したくない。
なんとか本土に帰り着くと、東京は焼け野原になっていた。幸い、母と妹は、母の実家に疎開して無事だった。
彼女らに会いに行く前に、俺は、桐原の弟のところへ行った。
彼は、肺を病んでいた。それが幸いして(幸いとは!)、徴兵は免れたと、桐原から聞かされていた。
また、郊外の療養所に入っていたおかげで、空襲の犠牲にならずにすんだ。
恐ろしい病だが、結核が、彼の命を救った。戦争という、人為的な禍災から。
遺髪と、ぼろぼろの袖珍本(小型本。文庫本)を手に、俺は、東京郊外にいる、桐原の弟を訪ねた。
正座をしたまま、桐原の弟は、深く頭を垂れた。固く握られた両手が、膝の上に乗せられている。
桐原の両親は、空襲で死んだという。
弟は、この村の結核療養所で暮らしていて、空襲を免れた……。
残酷な話だ。
だが、そんな話は、この日本に、ごろごろしている。
俺は、桐原の弟を、気の毒だと思う気持ちに、蓋をした。
遺髪と本を、弟に渡した。
「万葉集……」
絞り出すようにつぶやいて、桐原の弟は、絶句した。
何度か口を開きかけ、咳ばらいをし、俺は言った。
「桐原は、自分にもしものことがあったら、その本を僕に託す、と言っていた」
「兄は、……」
「死ぬ間際まで読んでいたのだろう。俺が偵察から戻ってきた時、ページの間に、彼の指が挟まっていた」
「……」
弟は顔を上げた。まだ、少年のような顔は、深い悲しみに鎖されている。それなのに、黒い瞳には、熱が浮かんでいた。
「兄は、万葉の恋を愛していました。万葉の恋人は、兄の恋人でした」
熱は、弟の希望だったのだろう。
黒く潤んだ瞳は主張していた。
短くして絶たれた桐原の人生は、だが、それなりに豊かなものだったのだ、と。
苦いものを口に含んだ気がした。
だって、桐原の指が挟まれていたページは……。
鉛筆で薄くアンダーラインが引かれていた歌は……。
「兄が、最後に読んでいたのは、どの歌だったのですか?」
「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」
すでに諳んじていたその歌を、低い声で、俺は誦した。覚えてしまったのは、悔しかったから。
大君の為に、後ろも振り向かず、自分を犠牲にする。
しかもその自分を、「醜」と言い切る。
銃後の内地で、両親も空襲で亡くし、桐原の弟は、たった一人になってしまった。
それなのに、兄は、「醜」の楯だというのか。
到底、容認できない歌だった。
「防人の歌ですね?」
桐原の弟は、この歌を、知っているようだった。
にもかかわらず、彼は、冷静だった。
俺は、苛立った。
「『万葉集』を抱いて死んでいる桐原を見た時、この本を破ってしまおうと思った」
告白すると、目を丸くした。
そんな弟に向かい、言葉を絞り出した。
「軍隊で、俺達兵隊は、大君の醜の御楯となるよう、鼓舞されてきた。国に残してきたものを、決して振り返ってはいけない。死んでなんぼの御粗末な楯として、俺らは使い捨てられてきた」
静寂が落ちた。
弟は、静かに首を横に振った。
「吉塚さん。この歌は、違います」
同じ言葉を、桐原も吐いた。
己の恐怖を、部下にぶつけることでしか処理できない、軍曹に向かって。
僕への暴力が、自分に向けられる危険を冒して。
「今日よりは顧みなくて……」
静かに弟は繰り返した。
「ここは、後ろを顧みずにという意味ではありません。この歌は、大君の為に、家族や故郷を捨てる、という歌では、ないのです」
……「違うんだ……」
苦し気な桐原の声が耳に蘇る。
……「このうたは……違う」
あの時桐原は、何を苦しんでいたのだろう……。
「顧みずに、なら、『顧みずして』となります。けれど、これは、『顧みなくて』です」
「それが?」
「カエリミが、ないのです」
「かえりみ?」
「かえりみとは、『顧みるといる人』のことです」
「顧みるといる人?」
俺の頭に浮かんだのは、いつも当たり前のように、僕のそばにいた、家族のことだった。
妹と、母。
父は早くに亡くなっている。でも、父の大きな腕のことは、今でもよく覚えている。
桐原の弟は、大きく頷いた。
「防人には、まだ若い、ほんの子どものような者もいました。彼らは、故郷に親や弟妹、恋人や配偶者を残して旅立たねばならなかった。普段の生活で、当然、そばにいた人々が、この日を境に、いなくなってしまうのです。それが、防人になるということです」
「この歌は、家族との別れを悲しむ歌だったのか?」
「僕はそう思っていました。もちろん、兄も」
静かに、弟の頬を涙が伝った。
かえりみ。
桐原が内地に残してきた家族。
今まで彼を守っていた、父と母。
年老いた二人は、桐原の帰りを待つことなく、死んでしまった。
空襲で殺された……。
そして、病身の弟が、たった一人、残された。
最後の最後に、桐原は、『万葉集』への、俺の誤解を解こうとしたのだ。
そのことに思いが至った時、俺の胸を後悔が過った。
……「文学は、軍に膝を屈した」
何とひどい言葉を、俺は彼に叩きつけてしまったのだろう……。
「防人の歌は、大伴家持による、文学的クーデターです」
黒い真摯な目が、俺を見つめていた。
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