3 / 22
南洋の島で
3 家持の歌
しおりを挟むその時、がーがーと、不協な音がした。
蓄音機の雑音だ。
瞬時に、俺と桐原は、ぴたりと笑い止んだ。真顔になり、目を見合わせる。
海行かば
水浸く屍
山行かば
草生す屍
大君の
辺にこそ死なめ
顧みはせじ *
……海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい……
こんな意味の歌なのに、男声の、明るい合唱だ。特に、「屍」という言葉が、必要以上に、からっと歌われている。
兵士を鼓舞する軍歌だ。本土にいた時も、よく聞かされた。ラジオ放送では、朗らかに「屍」などと歌った後、戦死公報が続いた。
遠く異国の地で、お国の為に死んだ男たちの名が、読み上げられるのだ。
冗談もたいがいにしてほしいと罵ったのは、芳江だった。そんな彼女の口を、俺は、接吻で塞いだ……。
「大伴家持の長歌だ」
ぼそっと、桐原がつぶやいた。
前に彼が、教えてくれた。この軍歌は、『万葉集』から取られている。
その日も、大伴家持作詞の、古式ゆかしい軍歌に続いて、大本営発表が行われた。
例によって、日本軍は、アメリカさんに対して、連戦連勝なんだそうだ。
草を踏む音が聞こえた。生い茂るヤシの葉をかき分けて、軍曹が戻ってきた。最前、俺を殴り倒し、自分のストレスを発散した上官だ。
俺は身構えた。
「ここにいたか」
軍曹は、じっと僕を見つめた。蛇のようにいやらしい目だ。
「一週間後、わが師団は、航空地上部隊と合流するため、密林を南下する。お前をその斥候に命じる」
敵兵がどれだけ潜んでいるかわからないジャングルの中を、偵察してこいというのだ。
敵兵だけではない。ジャングルの中には、毒蛇や毒をもつ植物、また、どのような獣がいるか、知れたものではない。
ただでさえ危険なジャングルに、栄養不足の弱った体で偵察に入るのは、命がけだ。
軍曹の目は、残酷な喜びに輝いていた。
これは、懲罰人事だと、俺は確信した。純粋に、私怨だ。彼は俺……自分に批判的な部下……を、死に、直面させたいのだ。
ついで、というふうに、彼は付け加えた。
「だが、一人というわけにもいくまい、桐原、お前も一緒に行け」
汚い黄色い歯をむき出して、桐原に笑いかけた。
「いつも、こんなやつと一緒にいるからだ。桐原、お前のことは、気の毒に思うよ。だが、これは、命令だ」
俺と桐原は、起立し、敬礼した。
そうしなければ、ならなかった。
背後では、まだ、あの「海行かば」が、繰り返し歌われていた。
軍曹の目が、桐原の手に向けられた。
「『万葉集』か。まあ、せいぜい、天皇陛下の醜の御楯となるんだな。お前らのような半端者は、死んでなんぼの、御奉公だ」
「それは、違います」
桐原だった。
彼が、上官に口応えしたのは、後にも先にも、これが、初めてのことだった。
絶対に逆らわないと思っていた男に刃向われ、軍曹は、一瞬、ひるんだ。
その一瞬の間に、俺は素早く、軍曹と桐原の間に割り込んだ。
「こらぁ! 上官に逆らうかぁー!」
振り上げられた手は、俺の頬を、鈍い音をたてて殴った。
軍曹は、はっとしたように、自分の手を見た。
「俺は何もしていませんよ。今はね」
俺は、にやりと笑った。
「何もしていないのに、あなたにぶん殴られた。もし、大尉殿がこのことを知ったら……」
この男と違って、大尉は、無益な暴力をひどく嫌っていた。
軍隊において、上下関係は絶対だ。
「覚えてろよ」
軍曹は、悔しそうに唇を噛み、くるりと背を向けた。
「ぼ、僕のことなど、放っておけばよかったのに」
軍曹が行ってしまうと、桐原は、おろおろと謝った。
「僕の為に、君が……。すまない。本当に申し訳ない」
「なに、いつもよくしてくれる、お礼さ」
努めて何気ない口調で言った。だが、殴られて頬が腫れたせいか、我ながら、くぐもった声に聞こえた。
桐原は恐縮しきっている。
「こんなことがあって、いいわけがない。君が、僕の身代わりになるなんて、そんな……。僕のことなど、放っておけばよかったのに」
「気にするな。あいつを脅してやれて、せいせいした」
「だって、君が……」
桐原の顔が、ぐしゃと歪んだ。
このままでは、泣かせてしまう、と、俺は思った。何か言わねばならぬと、焦りまくった。
「俺は、君を見直したぞ。軟弱な文学青年じゃ、なかったんだね」
「あの歌は……」
桐原は、ためらった。それから、するすると口にした。
「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ我は **
(今日からはすべてを顧みず、天皇の御楯の末になろうと、出発する、私は)
「なんだ、今の俺らの状況そのままじゃないか」
桐原が詠じるのを聞いて、俺は呆れた。
「サル山のサル軍曹にも、少しは教養があったのか」
「違うんだ……」
桐原は、苦しそうに言った。
「このうたは……違う」
「違うのか?」
よくわからなかった。
「そもそも、大本営発表の時に流される軍歌だって、大伴家持の歌だろう? 『万葉集』には、俺ら若者を、戦地に送る歌があるってことなんだろ?」
「大伴氏は、軍人の家系だった。それに家持は、本当に、聖武天皇が好きだったんだ。聖武帝や、彼の血を引いた息子のことが。だから、彼の歌は、職業軍人としての献身なんだ」
「だが、俺達は違う」
桐原の目を見据え、ゆっくりと言った。
「俺達は、赤紙一枚で、戦地へ呼ばれた。俺達は、職業軍人なんかじゃない」
「そうだ」
俺の目をしっかりと見返し、桐原は頷いた。
「そして防人達も、違う」
「防人?」
「九州大宰府に派遣された、庶民たち。『醜の御楯』の歌は、下野の国から派遣されてきた、防人の歌だ」
「へえ、そうなんだ……」
ぶうんと、音を立てて、蚊が飛んできた。
僕は、舌打ちした。熱帯の蚊に刺されたら、大変なことになる。
「行こうぜ。任務の前に、少し、体を休ませておこう」
俺は、ためらった。だが、今言っておかないと、手遅れになるかもしれない。思い切って、口を開いた。
「俺のせいで、君まで、斥候に巻き込んでしまって……。すまない」
「すまないなんて。馬鹿なことを言うと、怒るぞ」
頬を紅潮させ、唇を尖らせ、桐原は、本当に怒っているようだった。
「自分の言いたいことを言う君は、僕の憧れだった」
「だが、生きて帰れるかわからんのだぜ……」
「ああ、僕は、生命力が弱いからな。君は、そう、思ってるんだろう?」
図星をさされ、俺は、へどもどした。
桐原は、ふと、まじめな顔になった。
「もし、僕になにかあったら……この本だけは、本土に連れ帰ってほしい。この本を、君と一緒に」
「そんな、大君の為に死ぬ、とかいう歌の載ってる本をか?」
半分、冗談のつもりだった。
もちろん、他人に聞かれてはならぬ冗談だったのだけれども。
だが、桐原は、まじめだった。
「君が、文学が嫌いなのは、よく知ってるよ。だが、覚えておいてくれ。僕は、防人の歌が、大好きだったのだよ」
自分のことを「醜」いと言ったり、他人(天皇だって、他人だろ?)の「楯」になるだとか、そんな歌が好きだとは。
桐原は変なやつだと、俺は思った。
☆―――――――
*巻一八 4094
**巻二十 4373(訳も)
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
銀の帳(とばり)
麦倉樟美
歴史・時代
江戸の町。
北町奉行所の同心見習い・有賀(あるが)雅耶(まさや)は、偶然、正体不明の浪人と町娘を助ける。
娘はかつて別れた恋人だった。
その頃、市中では辻斬り事件が頻発しており…。
若い男女の心の綾、武家社会における身分違いの友情などを描く。
本格時代小説とは異なる、時代劇風小説です。
大昔の同人誌作品を大幅リメイクし、個人HPに掲載。今回それをさらにリメイクしています。
時代考証を頑張った部分、及ばなかった部分(…大半)、あえて完全に変えた部分があります。
家名や地名は架空のものを使用。
大昔は図書館に通って調べたりもしましたが、今は昔、今回のリメイクに関してはインターネット上の情報に頼りました。ただ、あまり深追いはしていません。
かつてのテレビ時代劇スペシャル(2時間枠)を楽しむような感覚で見ていただければ幸いです。
過去完結作品ですが、現在ラストを書き直し中(2024.6.16)

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる