黄金の檻の高貴な囚人

せりもも

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2つの貴賤婚

フランツとゾフィー大公妃の……?

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 皇帝が、居住まいを正した。
「ヨーハン。お前は、怒っているだろうか。つまりその……」

「いいえ、兄上。感謝しております」
兄に、みなまで言わせず、ヨーハンは答えた。
あの子マリー・ルイーゼとの秘密の結婚を、ナイペルクが告白してくれたおかげで、私とアンナは、晴れて結婚することができた。また……」

 ヨーハンは、玉座の兄を見た。兄は縮まり、干からびて見えた


 ……玉座というものは、木に布を貼り付けただけの玩具に過ぎない。
 不意に、ナポレオンの言葉が脳裏に浮かぶ。死んでしまったフランツの父、ナポレオンの言葉が。

 ……その玩具に、我々は、どれだけ踊らされてきたか。

 今、眼の前で、その玉座に座っている兄は、少しも幸福そうに見えなかった。


 感情を排し、ヨーハンは続けた。
「また今回も、マリー・ルイーゼの娘アルベルティーナの結婚を契機に、我々の結婚を公表するお許しが出た。違いますか?」

 皇帝は、答えなかった。
 遠い目をした。

「17年前、ナイペルクに、マリー・ルイーゼに近づく許可を与えたのは、私だと……、やつの上官だったシュワルツェンベルクが言っていた」




 その時、ナポレオンはまだ、イタリアのすぐ近く、エルバ島にいた。
 皇帝は、マリー・ルイーゼの護衛官に、片目の将軍、ナイペルクを任命した。

 ……わが娘マリー・ルイーゼを監視し、細かな言動に至るまで報告せよ。ナポレオンと接触させてはならない。その為なら、いかなる手段を講じてもかまわない。

 ……いかなる手段。

 それを、ナイペルクとシュワルツェンベルク上官は(さらにその上役のメッテルニヒも)、皇女マリー・ルイーゼに手を出す許可と、認識したのだ。


 皇帝は、苦笑を漏らした。
ボンベル新しく派遣した執政官は、マリー・ルイーゼと結婚するだろう。そんな気がしてならない」
「……また、貴賤婚ですね?」

 もちろん、亡命貴族のボンベルに、所領などあろうはずがない。

「お前がそれを言うか」
 ふっと、皇帝の口元に笑みが浮かんだ。
 苦い笑みだった。
フランツ・カール下の息子は、即位などまっぴらだと言うし。若い者にとって、皇族であることは、重荷でしかないのかもしれないな」


 皇帝の長男、フェルディナンドは、宮廷の誰からも愛されていたが、自立して生きられる人ではなかった。
 そして、次男フランツ・カールには、全く覇気がないと、皇帝は言う。

「いっそ、お前かカールが、皇位を継いでくれたらいいのに」
「お言葉ですが、兄上。私には、全くその気がありません」

「カールも同じことを言っていた」
極めて官僚的で融通のきかない兄の皇帝は、つぶやくように付け加えた。
「それに、長男即位の原則を曲げるわけにはいかない」

 二人とも、口にしなかった。

 カールとヨーハン両大公皇帝の弟たちの即位には、宰相メッテルニヒが反対しているのだ。
 皇帝は、二人の弟が、新しい皇帝息子フェルディナンドの補佐になることを望んでいる。しかし、それさえも、メッテルニヒは賛成していない。


 細く囁くような声で、皇帝はつぶやいた。
フランツ・カール次男には、ゾフィー大公妃がついている。次の世代に期待するしかないな」

 フランツ・カールの妃、ゾフィー大公妃には、この年までに、3人の男の子がいた。

「兄上。ゾフィー大公妃は……」
ヨーハンは言い澱んだ。

 皇帝は、弟の意図するところを、素早く読み取った。
「大丈夫だ。フランツ・カール息子はまだ、彼女に捨てられていないから」
「そうですか」


 活発で美しい大公妃と、野心というより、やる気そのものがまるでないフランツ・カール。二人はまるで、不釣り合いだった。

 その上フランツ・カールは、とにかく品がなかった。やることなすこと、ひどく露悪的なのだ。


(フランツ・カール)


 皇帝は、ため息をついた。
「不甲斐ない息子だが、ゾフィーには、ぜひフランツ・カール息子についていてやってほしい」
「……」
「だがな、ヨーハン。儂はいっそ、マクシミリアンが、フランツの子であったらよかった、と思うのだよ」
「兄上……」


 夫への不満からだろうか。
 結婚当初から、ゾフィー大公妃は、6つ年下の甥、フランツを、劇場や音楽会などに、公然と連れ出していた。

 初めは13歳だったフランツも、大人びた貴公子に成長していった。彼が大公妃をエスコートする姿は、いやでも、人々の目についた。

 二人の間には、噂があった。
 ゾフィーとフランツ・カールの間の次男、マクシミリアンは、ライヒシュタット公フランツの子だというのだ。

 マクシミリアンは、フランツが亡くなる2週間前に生まれた。


 「いずれにせよ、マクシミリアンは、ナポレオンとは、無関係だ」
 きっぱりと、皇帝が言い放った。
 すぐに、気弱な表情になった。
「それでも、あの子マクシミリアンが、フランツの子だったら、と思わずにはいられないのだ」
 皇帝は疲れ果て、もはや、立ち上がることさえ、覚束なげだった。まるで、玉座に埋もれてしまったかのように、ヨーハンには見えた。


皇帝フランツ








 2年後。皇帝フランツは、没した。
 新しい皇帝には、しきたり通り、フランツ帝の長男、フェルディナントが即位した。




 政治能力のない皇帝の補佐役には、皇帝の弟、フランツ・カール大公と、同じく皇帝の叔父でヨーハンの弟、ルードヴィヒが、名を連ねた。フランツ・カールは無気力だし、ルートヴィヒは、おとなしい。

 軍で活躍し、ともに実力、人望を兼ね備えた、先帝フランツ帝の上の二人の弟、カール、ヨーハン両大公には、声がかからなかった。

 これら人事は、メッテルニヒから出たものだった。宰相は、傀儡としての皇帝を求めていた。宰相は、傀儡としての皇帝を求めていた。人形に、有能な補佐役など必要ない。自分以外は。
 宰相メッテルニヒは、ウィーン体制を守ることに汲々とし、未来を見据えることができなかった。

 しかし、周囲の批判の声が、全く宰相の耳に届かなかったわけではなかったようだ。

 フェルディナンド帝即位の翌年。
 長らく昇進のなかった叔父ヨーハンに、フェルディナンド帝は、軍の最高位、元帥を授けた。
 もちろん、フェルディナンド帝新帝の意思ではない。というか、彼に意思はない。
 国民に人気のアルプス王、ヨーハン大公におもねる、メッテルニヒ宰相の差配だったのだろう。







*~*~*~*~*~*~*~

【蛇足】

「もう一人の売られた花嫁」に登場した、レオポルディーネ(マリー・ルイーゼの妹)の、夫・ブラジルのドン・ペドロは、先妻レオポルディーネの死後、再婚相手を探しました。

しかし、先妻を死なせたと悪評高いドン・ペドロには、なかなか、再婚相手が見つかりませんでした。

ようやく、受諾してくれたのが、アメリー・ド・ボアルネ。ナポレオンの養子、ウジェーヌ・ボアルネ(先妻ジョゼフィーヌの連れ子)の娘です。


ペドロとアメリーの間には、女の子が一人、生まれました。マリア・アメリアです。





さて、皇帝が名前を出したマクシミリアンですが。
彼は、何かにつけ、覇気のないフランツ・カール大公(皇帝の次男)と、ゾフィー大公妃の間に生まれた次男です。


(マクシミリアン21歳)


ですが、マクシミリアンには、実は、ライヒシュタット公(フランツ)の子だという噂があります。フランツとゾフィー大公妃は、叔父の妻と甥の関係であり、とても仲が良かったといいます。年齢は、ゾフィーの方が、6つ、年上です。
(このあたりは、「『ドン・カルロス』異聞」の「2」で、触れています。なお、ゾフィー大公妃の肖像画も載せてあります)


マクシミリアンは、長じてこの、マリア・アメリアと恋に落ちます。
しかし彼女は、21歳で、結核でなくなってしまいました。



ライヒシュタット公(フランツ)は、ナポレオンとマリー・ルイーゼの息子、そして、レオポルディーネがかわいがっていた甥です(「もう一人の売られた花嫁」)。そのライヒシュタット公の子と噂されるマクシミリアン。

彼が惹かれたのが、マリア・アメリア。レオポルディーネを死なせたと噂される夫が、彼女の死後、再婚で得た娘です。
しかも、マリア・アメリアの祖父は、ナポレオンの養子です。(ついでながら、彼女が亡くなった年齢も、病も、ライヒシュタット公と同じでした)


マクシミリアンがライヒシュタット公の子、
というのも、
レオポルディーネが夫に殺された、
というのも、噂に過ぎません。ですから、どうという話でもないのですが……。



その後、マクシミリアンは、ナポレオン3世の口車に乗せられる形で、メキシコに渡り、皇帝に即位しました。しかしわずか3年で、メキシコ自由主義者による蜂起が起こり、銃殺刑に処されてしまいます。

この辺りの因縁が、マクシミリアンが、ライヒシュタット公の子である、という根強い噂の、根拠らしいです。






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