33 / 42
2つの貴賤婚
スウィート・フランツェン
しおりを挟む
ヨーハンとアンナには、なかなか、子どもが授からなかった。
ヨーハンは、すでに50代も後半になっていた。
ある晩、何気ない口調で、ヨーハンはつぶやいた。
「お前には、とうとう、子どもを抱かせてやることができなかったな」
「あなた……」
アンナは目を見張った。
初めて会った時は、15歳だった妻も、年齢を重ねていた。
目尻の皺が、愛しい。
「だが、お前が気に病むことはない。全ては、私の責任だ。お前と会った時、私はすでに、37歳だったからね」
「……結論は、まだ出ていないわ」
アンナの声は、落ち着いていた。
「あのね。イーダおばさんが言ったの」
イーダおばさんというのは、シュタイアーマルクの、主婦である。アンナ達妹弟は、幼い頃に母を亡くした。その彼らの世話を、何くれとなく、焼いてくれた人だという。
「新婚夫婦のようになさいって。もし、あなたがおいやでなければ……つまり……顔を合わせるたびに……」
ぽっと顔を赤らめた。
「あなたは、ご存知だったかしら。それで、子どもができるんですって。今まで、少なすぎたんじゃいの、って、おばさんが。だから、単純に、回数を増やせばいいんじゃないかしら」
もちろん、ヨーハンは、知っていた。
だが、彼には、ためらいがあった。
……他国は戦え。幸いなるかな、オーストリア。汝はまぐわえ。
その血により、版図を拡げてきたオーストリア、ハプスブルク家。
しかしそれは、女性の犠牲の上に成り立っていた。
後継者問題にぶつかる度に、ヨーハンは、自分の母親を思わずにはいられなかった。
神聖ローマ皇帝レオポルド2世の妃だった母は、ほぼ毎年のように、子どもを生んでいた。ヨーハンは、ゆっくりと母と過ごした記憶がない。
兄の皇帝の2番めの妻も、同じだった。彼女は、12人目の子を流産した時、産褥で亡くなっている。
2番めの兄、トスカーナ大公だったフェルディナント大公の妻も、6番目の子を死産した後、死去している。
姪のマリー・ルイーゼもまた、ヨーハンと同じく、母との思い出が極端に少ないのに違いない。彼女の場合は、同じ女性だから、より、複雑な思いであったろう。
だから、姪は、息子を一人ウィーンに残して、パルマへ行けたのだ。
母の愛を知らずに育ったから。
だが、彼女の場合は、葛藤は、乗り越えたようだ。パルマで、何度も妊娠している。ナポレオンとは違う男の、子を。
ウィーンに残された息子は、終生、母親を慕い、愛していたというのに。
出産は、女性の体に、大きな負担となる……。
ヨーハンは、女性を、子どもを生む機械のように扱うことに、反対だった。
若く美しい妻を、ハプスブルクの女の掟で縛りたくはなかった。彼女より遥かに年上である自分の子を産ませることで、傷つけたくはなかった。
子どもが、欲しくなかったわけではない。
ただ、ヨーハンは、恐ろしかった。
自分のせいで、彼女を損なうことが。もしかしたら、自分より早く死なせてしまうことが。
アンナがにじり寄ってきた。
「私のことを、軽蔑されるかしら。あなた。あなたには、まだ、チャンスはあるかもしれない。でも、女の私には、この辺りが最後だと思うの。私、赤ちゃんが欲しい」
妻が、子どもを欲しがっているのは、なんとなく感じていた。
自然に任せればいいと、ヨーハンは言っていた。ヨーハンは、妻より、22歳、年上だ。衝動に身を任すには、最初から、年を取りすぎていた。
彼自身、この頃だいぶ、衰えを実感していた。大好きな山上りの回数も、減っている。
……このままいったら、自分は確実に、妻より先に死ぬ。
しばしば、ヨーハンは、思う。
妻より先に死ぬのは、夫として、幸福といえた。だが、一人残された妻は、どうなってしまうのだろう。
悪意溢れる宮廷……かつて彼女のことを、「田舎娘」「村の情婦」と罵った……に、一人、置き去りにされた妻は……。
ヨーハンの腕を掴んだ妻の手に、力が入る。
「私、あなたとのあいだの子どもの顔を、どうしても、見てみたいの」
8年前のことを、ヨーハンは思い出す。
マリー・ルイーゼの治めるパルマで、動乱が起きた。
彼女の息子フランツ……ウィーンに置き去りにされたナポレオンの息子……は、真っ先に、母を救いに、パルマへ駆けつけようとした。
それは、彼の死の、1年と少し前のことだった。すでに、彼は、体の変調を感じていたはずだ。胸を病んで死んだから、息をするのも、苦しかったろう。
結局は、彼の参戦は混乱を助長するだけだからと、皇帝に禁じられたわけだが。
その後のフランツの落胆ぶりは、見るも気の毒なほどだった。
……子どもは、母を守ろうとする。
青く澄んだ、真っ直ぐな瞳が、脳裏に甦った。
……父親が、いなくなった後も。
静かに、ヨーハンは、妻を抱き寄せた。
*
1839年。
ヨーハンとアンナの間に、男の子が生まれた。
まるまると太った、健康な赤ん坊は、フランツ・ルードヴィヒと名付けられた。
「フランツ」は、もちろん、兄の皇帝の名だ。かつてその名は、孫に受け継がれていた。祖父より早く死んでしまった、孫に。
「フランツェン。かわいいフランツェン」
生まれたばかりの赤子を、妻があやしている。
亡くなったナポレオンの息子も、幼い頃、同じ名で、呼ばれていた。
「スウィート・フランツェン」と。
(数年後、ヨーハン大公一家)
fin
ヨーハンは、すでに50代も後半になっていた。
ある晩、何気ない口調で、ヨーハンはつぶやいた。
「お前には、とうとう、子どもを抱かせてやることができなかったな」
「あなた……」
アンナは目を見張った。
初めて会った時は、15歳だった妻も、年齢を重ねていた。
目尻の皺が、愛しい。
「だが、お前が気に病むことはない。全ては、私の責任だ。お前と会った時、私はすでに、37歳だったからね」
「……結論は、まだ出ていないわ」
アンナの声は、落ち着いていた。
「あのね。イーダおばさんが言ったの」
イーダおばさんというのは、シュタイアーマルクの、主婦である。アンナ達妹弟は、幼い頃に母を亡くした。その彼らの世話を、何くれとなく、焼いてくれた人だという。
「新婚夫婦のようになさいって。もし、あなたがおいやでなければ……つまり……顔を合わせるたびに……」
ぽっと顔を赤らめた。
「あなたは、ご存知だったかしら。それで、子どもができるんですって。今まで、少なすぎたんじゃいの、って、おばさんが。だから、単純に、回数を増やせばいいんじゃないかしら」
もちろん、ヨーハンは、知っていた。
だが、彼には、ためらいがあった。
……他国は戦え。幸いなるかな、オーストリア。汝はまぐわえ。
その血により、版図を拡げてきたオーストリア、ハプスブルク家。
しかしそれは、女性の犠牲の上に成り立っていた。
後継者問題にぶつかる度に、ヨーハンは、自分の母親を思わずにはいられなかった。
神聖ローマ皇帝レオポルド2世の妃だった母は、ほぼ毎年のように、子どもを生んでいた。ヨーハンは、ゆっくりと母と過ごした記憶がない。
兄の皇帝の2番めの妻も、同じだった。彼女は、12人目の子を流産した時、産褥で亡くなっている。
2番めの兄、トスカーナ大公だったフェルディナント大公の妻も、6番目の子を死産した後、死去している。
姪のマリー・ルイーゼもまた、ヨーハンと同じく、母との思い出が極端に少ないのに違いない。彼女の場合は、同じ女性だから、より、複雑な思いであったろう。
だから、姪は、息子を一人ウィーンに残して、パルマへ行けたのだ。
母の愛を知らずに育ったから。
だが、彼女の場合は、葛藤は、乗り越えたようだ。パルマで、何度も妊娠している。ナポレオンとは違う男の、子を。
ウィーンに残された息子は、終生、母親を慕い、愛していたというのに。
出産は、女性の体に、大きな負担となる……。
ヨーハンは、女性を、子どもを生む機械のように扱うことに、反対だった。
若く美しい妻を、ハプスブルクの女の掟で縛りたくはなかった。彼女より遥かに年上である自分の子を産ませることで、傷つけたくはなかった。
子どもが、欲しくなかったわけではない。
ただ、ヨーハンは、恐ろしかった。
自分のせいで、彼女を損なうことが。もしかしたら、自分より早く死なせてしまうことが。
アンナがにじり寄ってきた。
「私のことを、軽蔑されるかしら。あなた。あなたには、まだ、チャンスはあるかもしれない。でも、女の私には、この辺りが最後だと思うの。私、赤ちゃんが欲しい」
妻が、子どもを欲しがっているのは、なんとなく感じていた。
自然に任せればいいと、ヨーハンは言っていた。ヨーハンは、妻より、22歳、年上だ。衝動に身を任すには、最初から、年を取りすぎていた。
彼自身、この頃だいぶ、衰えを実感していた。大好きな山上りの回数も、減っている。
……このままいったら、自分は確実に、妻より先に死ぬ。
しばしば、ヨーハンは、思う。
妻より先に死ぬのは、夫として、幸福といえた。だが、一人残された妻は、どうなってしまうのだろう。
悪意溢れる宮廷……かつて彼女のことを、「田舎娘」「村の情婦」と罵った……に、一人、置き去りにされた妻は……。
ヨーハンの腕を掴んだ妻の手に、力が入る。
「私、あなたとのあいだの子どもの顔を、どうしても、見てみたいの」
8年前のことを、ヨーハンは思い出す。
マリー・ルイーゼの治めるパルマで、動乱が起きた。
彼女の息子フランツ……ウィーンに置き去りにされたナポレオンの息子……は、真っ先に、母を救いに、パルマへ駆けつけようとした。
それは、彼の死の、1年と少し前のことだった。すでに、彼は、体の変調を感じていたはずだ。胸を病んで死んだから、息をするのも、苦しかったろう。
結局は、彼の参戦は混乱を助長するだけだからと、皇帝に禁じられたわけだが。
その後のフランツの落胆ぶりは、見るも気の毒なほどだった。
……子どもは、母を守ろうとする。
青く澄んだ、真っ直ぐな瞳が、脳裏に甦った。
……父親が、いなくなった後も。
静かに、ヨーハンは、妻を抱き寄せた。
*
1839年。
ヨーハンとアンナの間に、男の子が生まれた。
まるまると太った、健康な赤ん坊は、フランツ・ルードヴィヒと名付けられた。
「フランツ」は、もちろん、兄の皇帝の名だ。かつてその名は、孫に受け継がれていた。祖父より早く死んでしまった、孫に。
「フランツェン。かわいいフランツェン」
生まれたばかりの赤子を、妻があやしている。
亡くなったナポレオンの息子も、幼い頃、同じ名で、呼ばれていた。
「スウィート・フランツェン」と。
(数年後、ヨーハン大公一家)
fin
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て
せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。
カクヨムから、一部転載
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる