黄金の檻の高貴な囚人

せりもも

文字の大きさ
上 下
11 / 42
アルプスに咲いた花

出会い

しおりを挟む
 ホーファーの処刑から少しして、彼をヨーハンに紹介したホルマイラー男爵から、新たな決起の相談がもちかけられた。
 南ドイツとイリュリア地方で、反フランス蜂起を計画しよう、というものだ。




 これは、しかし、極秘裏に動かねばならなかった。
 外相メッテルニヒが牛耳るオーストリアは、外交力を強化し、厳正な中立を保つことを第一義としていた。
 日の出の勢いのナポレオンに逆らうことは、メッテルニヒも、兄の皇帝も、望んでいなかった。

 フランツ帝は、事務仕事の好きな、四角四面の、凡庸な皇帝だった。弟のカールやヨーハンの方が、よほど、才気がある。
 だが、メッテルニヒには、凡庸な皇帝の方が、都合がよかった。それに、長男の即位が、ハプスブルク家の鉄則だ。




 メッテルニヒは、常に、カールとヨーハンの動向に神経を尖らせていた。
 廷臣たちに唆そそのかされ、二人の弟が、長男である皇帝の地位を脅かすことのないよう、監視を緩めなかった。

 カール大公が公務を全て退いたのは、ナポレオンに敗北したことだけが理由ではない。常に兄帝への造反を疑われ、監視される息苦しさから、解放されたかったのだ。

 しかし、ヨーハンは、軍を退かなかった。カールより11歳若い彼は、まだ、20代の若者だった。彼は、愛国心に燃えていた。





 ほどなくしてメッテルニヒは、ヨーハンとホルマイヤー男爵の密談を突き止めた。
 ……ヨーハン大公に、蜂起煽動の動きあり。
 メッテルニヒの報告を受け、フランツ帝は、即座に、弟ヨーハンを、ウィーンの自宅に軟禁した。


 「傭兵では、もはや、戦えません!」
 兄の皇帝に、ヨーハンは必死になって、国防の必要性を説いた。
「傭兵たちは、金のために戦っているに過ぎない。だから、危険が迫れば、武器を投げ捨てて逃げ出してしまう。彼らは、国の為に戦う国民兵には、絶対に、敵わないのです! 国民兵は、自分の身が危険に晒されようと、必死になって戦います。祖国を……愛する家族や生活を……守ろうとするんです! 傭兵が、勝てるわけがない! どうか兄上陛下! 国防の意識を!」

 実際に、フランス革命軍と戦った経験から出た改革意識だった。今までの戦争の在り方は、フランスの民兵には通用しない。戦場でヨーハンも、また、兄のカールも、痛いほど感じていた。

 「お前は何を言っているのだ?」
しかし、兄帝には、伝わらなかった。
「国民が忠誠を誓うのは、国オーストリアに、ではない。わがハプスブルク家に、だ!」

 頭の固い兄には、偉大なる先祖から受け継いだ規律を蔑ろにすることはできなかった。
 自宅監禁は、血気にはやる弟を、ハプスブルクというシステムから守るための措置でもあった。


 ヨーハン大公は、この時から、1833年までの20年間、兄の皇帝により、チロル立ち入りを禁じられている。
 ホルマイヤー男爵の方は、メッテルニヒにより、逮捕された。




 この国オーストリアを信じ、この国ハプスブルク家の為に戦ったのに、処刑されたアンドレアス・ホーファー。
 頓挫した蜂起の計画。屈辱的な自宅軟禁。そして、チロルとの悲しい別れ。

 シェーンブルンの庭園で出会った男の子……姪の息子……と話していて、ヨーハンの胸を襲った憂愁とは、まさにこのことだった。


 ウィーン会議後も、戦争はあった。
 上アルザスのフューニンゲン(ユナング)では、フランス軍が要塞に立てこもった。ナポレオンが、エルバ島から脱出したからだ。
 ……再び、戦争の時代が蘇るのか。
 ヨーハンの胸に、苛立ちが芽生えた。

 フューニンゲンは、フランスの、ドイツへの玄関口だ。ヨーハンは、要塞を包囲し、爆撃攻撃を仕掛けた。都市の外にある要塞への砲撃は、実に、11日間に及んだ。
 敵の防戦は見事だった。負けたフランス軍は、誇り高く、勇敢で、高潔だった。そのフランス兵を殲滅させ、要塞を血に染めて、オーストリア軍の砲撃は終わった。
 ヨーハンは、つくづく、戦争への嫌悪を感じた。


 彼は、シェーンブルンで声をかけた子どもを、この時の戦いと結びつけて考えることはしなかった。子どもは、ナポレオンのただ一人の「正当な跡継ぎ」であったのだけれども。







 やがて、ワーテルローでナポレオンは破れた。メッテルニヒが辣腕を振るい、ヨーロッパに、再び、平和が訪れた。
 時間を巻き戻した、古い体制による平和だ。

 だが、ヨーハンは、鬱々として楽しまなかった。

 ナポレオン戦争の頃、敗戦が続く極限状況の中では、将校も兵卒もなかった。軍隊で彼は、身分の低い兵たちと一緒になって、重い大砲や武器を運んだ。
 みんないっしょに、泥まみれになった。

 ヨーハンは、兵士たちが過酷に扱われ、ひどい刑罰を受けている現場を、何度も目撃した。
 ……人が、このように扱われていいものなのか。
 次第に、民衆への共感が、彼の心に芽生えてきていた。


 彼はまた、宮廷というものに、嫌悪を感じた。
 目上の者の機嫌を取り、根回しをする。
 王や王子の結婚が、国の外交や文化を左右する。堅苦しい儀式。虚礼。
 ゴシップに飢えた連中が、常に、宮殿の廊下で聞き耳を立てている……。

 チロルの件は、ヨーハンの「前科」となって残った。軍務だけでなく全ての役職を退いた兄のカールと違い、ヨーハンは、未だ、軍籍にある。
 メッテルニヒの猜疑深い眼差しは、決して、ヨーハンからそらされることはなかった。

 息苦しかった。
 宮廷に、彼の居場所はなかった。




 ヨーハンに、山の澄んだ空気と、遥かな景観を教え、山歩きの楽しさに導いたのは、ヨハネス・フォン・ミュラーだった。
 ミュラーはスイスの歴史家で、彼の著作にインスピレーションを得て、シラーは戯曲、『ウィリアム・テル』を書いている。


(ヨハネス・フォン・ミュラー)



 ヨーハンは、アルプスの山を愛した。
 そして、山に住む、純朴な人々を。

 アルプスの人々の飾り気のない好意は、宮廷政治で傷ついたヨーハンの心を、優しく癒やしてくれた。
 彼は、アルプスの麓、シュタイアーマルク州の産業の振興に尽力するようになった。


 ウィーン会議が終結してすぐの頃、この地方を、飢饉が襲った。
 ヨーハンは彼らに、じゃがいもの苗を渡し、その作付を奨励した。
 農作物の収穫方法の合理化や、家畜の育成についても、尽力した。

 鉱工業では、叔父から相続した私財を投じ、炭鉱を買い取った。それを基盤に、鉱石採掘の近代化を断行した。
 また、イギリスでジェームズ・ワットに会った経験から、早くから、鉄道の重要性を見抜いていた。
 今日、グラーツ(シュタイアーマルク州の州都)を通る鉄道の青写真を初めて描いたのは、ヨーハン大公であるといわれている。


 こうした産業育成の一方で、ヨーハンは、アルプスの人々の啓蒙に務め、また、その生活や風俗習慣を、記録に留めさせたりもした。







 出会いは、1819年のことだった。

 山の奥まったところにある、トプリッツ湖畔で、ヨーハンは、笑いさざめいている、一群の少女たちを見かけた。
 白いブラウスに、金の縁飾りの付いた緑色の胴衣は、若くはつらつとした彼女たちに、とてもよく似合っていた。

 中のひとりが、ヨーハンの目を引いた。
 つややかな髪、切れ長の瞳、きれいに通った鼻筋。

 アンナ・プロッフル。
 地元の郵便局長の娘だった。

 話しかけると、彼女の目が、ヨーハンの目を捉えた。
 大きな瞳が、柔らかくへこんで、ヨーハンの目線を受け止める。

 何を話したのか、よく覚えていない。
 ただ、ヨーハンは、夢中だった。

 話している間中、彼女は、決して、ヨーハンから目をそらさなかった。
 印象的な瞳で、優しくヨーハンを見つめながら、いちいち、丁寧に頷いている。

 受け容れられている、と、ヨーハンは感じた。
 この娘に、自分は、受け容れてもらっている。

 心が、丸く癒やされていくのを感じた。
 今までの自分の人生は、無駄ではなかったと悟った。全ては、この娘と出会うための、必要な布石だったのだ。

 ヨーハンは37歳、アンナは15歳だった。




 ヨーハンは、自分の山荘に、娘たちを招いた。
 本当は、アンナと二人っきりになりたかった。だが、いくらなんでも、性急過ぎた。

 娘たちと食事をしたり、冗談を言い合ったり、時には、楽器を奏で、歌い踊ることもあった。
 アンナは、機智に富んでいた。それでいて、ヨーハンを言い負かすことは、決してない。控えめで、優しい性格だった。

 ヨーハンは、アンナのことばかり考えるようになった。
 こんな風に誰かのことを思うことは、今まで、決してなかったことだ。
 ヨーハンは、自分が優しい人になったように感じた。
 アンナが、自分を造り変えてくれたのだ。

 もはや、アンナと別れて暮らすことは、ヨーハンには、耐え難かった。
 彼は、アンナの父の郵便局長に、娘との結婚を申し込んだ。



(アンナ・プロッフル)






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て

せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。 カクヨムから、一部転載

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

新撰組のものがたり

琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。 ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。 近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。 町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。 近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。 最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。 主人公は土方歳三。 彼の恋と戦いの日々がメインとなります。

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

処理中です...