黄金の檻の高貴な囚人

せりもも

文字の大きさ
上 下
13 / 42
アルプスに咲いた花

幸福と有頂天

しおりを挟む
 シェーンブルンの庭園を、ヨーハンは、気もそぞろに歩いていた。

 ウィーンでの雑務は、大方、済ませた。あとは、兄の皇帝に挨拶するだけだ。
 一刻も早く、シュタイアーマルクへ帰りたい。
 早馬の背の上で、走り出したい気分だった。

 この小道は、両側の木をアーチ状に刈り込み、まるで、緑のトンネルのようになっている。
 夏も、終わろうとしている頃だった。斜めに傾ぐ夕陽が、小道を覆う木立に、複雑な陰影を投じていた。
 一迅の風が駆け抜けた。
 さわさわと、一斉に、葉がざわめく。それは、過ぎゆく命の季節を惜しむように、また、近づく落葉を予感し、打ち震えているようにも聞こえた。



 長く真っ直ぐなトンネルの向こうから、すらりとした人影が歩いてきた。小さな声で、詩句のようなものを口ずさんでいる。


 厚い血潮が、わが身の内を駆け巡る
 無益に過ごしし23年を経て、
 われは、わが裡なる力を感じる
 そは、王座への道
 怒れる債権者が揺り起こす
 若き時間の浪費を思う時
 名誉を挽回せよと命ずる声が、耳元で途切れることがない
 今こそ、天より授かりしその才覚に、利子をつけて返済するのだ
 世界の歴史、過去の名声を受け止めよ
 栄えあるトランペットの響きが、われを奮い立たせる
 時の扉が揺らいで
 名誉の舞台へ向けて、広く開く


 詩が、途絶えた。
 孤独な姿が、凄絶なまでに、凛として佇んでいる。すらりとした美貌の青年は、寂寥と憂愁に、色濃く縁取られていた。



 「フランツ」
ヨーハンは呼びかけた。
「あ。おじさん!」
途端に、声が、子どもの頃の響きに変わった。

 正確には、ヨーハンは、フランツの叔父ではない。フランツは、兄の孫だ。だが、めんどうな呼称を、ヨーハンは嫌った。「おじさん」というのは、フランツが、小さな子どもだった頃からの呼び方だ。

ウィーンこちらへ、いらしてたのですね!」
「うん。ホーフブルクにいた」
「教えてくださればよかった。そしたら、すぐに会いに行ったのに!」

「だって、ルイーゼが来ていたんだろ」
からかうように、ヨーハンは姪の名を出した。
「久しぶりにお母さんに会ったんだ。俺のとこへ来たら、ダメだろ」
「母上なら、帰られました」
上目遣いに、ヨーハンを見る。

 ぞくりとするような美しさだった。声に深い感情を滲ませ、フランツは言った。
「ナイペルク将軍のお加減がよくないようで……僕は、心配です」

「ナイペルク……」
 たしかそんな名前の将軍が、マリー・ルイーゼについてパルマへ下ったことを、ヨーハンは思い出した。オランダで片目を失った将軍だ。勇敢さを買われ、マリー・ルイーゼの護衛官となった。
 まだ、ウィーンへ帰って来られないで、姪に仕えているのか。
 ウィーンには、彼の家族がいるだろうに。
 顔も定かでない男に、ヨーハンは、同情した。


 「そうだ。大尉に昇進したそうだな。おめでとう」
フランツの顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます、ヨーハン大公。チロル連隊所属の大尉に任命されました」
改まって、フランツは答えた。

 不意に、その顔に、暗い影が落ちた。
「でも、いつになったら、軍務に就くことができるのやら」


 ナポレオンの息子が、宮廷から出られないことは、ウィーンの、誰もが知っていた。

 ヨーロッパのあちこちには、未だに、ナポレオンの残党が残っている。
 ひとたび、フランツが彼らの手に落ちたなら……。
 彼はたちまちフランスの王に祭り上げられるだろう。

 ……ナポレオンの息子ライヒシュタット公は、父親譲りの才能と残虐さで、ヨーロッパを、あっという間に、戦争の渦に叩き込むだろう。
 ……そうなったら、わが畢生のウィーン体制は、瞬く間に崩れ去るに違いない。

 それが、ヨーロッパの御者、メッテルニヒの抱いている恐れだった。
 宰相メッテルニヒは、ナポレオンの息子の、卓越した能力と、人を惹きつける魅力を、正確に見抜いていたのだ。
 

 フランツ自身は、幼い頃から、父親と同じく、軍務を志していた。
 だが、一向に、昇進も、実務さえも与えられない。
 それどころか、未だに、ウィーンから出してもらえないでいる。
 オーストリア皇帝の孫でありながら、囚人なのだ。彼は、黄金の檻に捕らえられている……。

 この先、軍人として活躍を許される日が、果たして、訪れるだろうか。
 ナポレオンの息子に、オーストリアの精鋭部隊を託す。
 そんな危険なことを、あのメッテルニヒが許すとは思えない。



 「おじさんが、僕くらいの年齢の時は、もう、実戦に出ていらしたのでしょう?」
再び上目遣いになって、フランツが尋ねた。
 ヨーハンは記憶を辿った。
「バイエルンに侵攻したのは、18歳の時だったかな」
「僕より、1歳、上の年齢だ」
フランツがつぶやいた。

 頷き、ヨーハンは続けた。
「アムフィングでは、勝利を収めたのだが、どうやら、初心者の幸運ビギナーズラックだったようだ。ホーエンリンデンで、モロー将軍に、滅多打ちにされたよ(*1)」
「……」

 なにか言いたそうな顔を、フランツはした。その複雑な表情を見て、ヨーハンは笑った。

「君のお父さんの、戦友だった男だ。最終的には、敵方に回ったけど。実際、旧体制王党派に与したのはまだしも、ロシア軍に加わったと知った時は、俺も、どうかと思ったよ」


 ナポレオンが、ロシア兵の中に、かつての戦友、モローの姿を見つけたのは、1813年、ドレスデンの戦いでのことだ。
 ロシア軍の先頭にいたモローを遠眼鏡で見つけたナポレオンは、即座に、その辺りに向けて砲撃を集中するよう、命令を下したという。かつてライン・モーゼル軍の総司令官だったモローは、この戦いで被弾し、護送されたプラハで没した。


 ヨーハンは、肩を竦めた。
「オーストリアはロシアの同盟国だったから、俺も、ロシアの悪口は、言えないわけだけどね」
「言ってるじゃないですか」

 フランツの顔が綻んだ。まるで、アネモネの蕾が花開いたようだと、ヨーハンは思った。邪気の全くない、瑞々しい笑顔だ。

 ふっと、柔らかな笑みが、消えた。
「でも、おじさんは、随分若い頃から、実際に、軍務についていらしたんだ」
「そうだよ。いきなり、実戦というわけにはいかないからね」
「それなのに僕は!」
 低く地を這うように、フランツは叫んだ。
 声が喉に引っかかり、彼は、ひどく咳き込んだ。
「おいおい、大丈夫かい?」

 この冬、彼は体調を崩し、兄の皇帝がひどく心配していたことを、ヨーハンは思い出した。
 それで、「来なければ銃撃部隊を差し向ける」などと物騒なことまで書いて、姪のルイーゼを、パルマから呼び寄せたのだ。
 こんなに咳き込むとは、まだ、本調子ではないのだろうか。

「焦ることはないさ」
 彼は言った。
「焦ることは、ちっともない」

 できることなら、この子に、アルプスの雄大な景色を見せてやりたい、と、ヨーハンは思った。
 高い山の頂から、澄んだ空を背景に、外界を見下ろせば、大概の悩みは、ふっとんでしまうだろう。

 あの静けさ。
 鋭い、鳥の鳴き声。
 だが、それさえも、メッテルニヒは許そうとしない。

 「戦いの為に、戦うのではないのだよ」
ぼそりと、ヨーハンは言った。
「戦いには、犠牲が伴う。敵にも、味方にも。だから、どうしても守らねばならぬものを侵略された時しか、戦ってはならないんだ」

 フランツは肩を怒らせた。
「僕は、この国の為に戦います。おじさんだって、そうだったんでしょう?」
「いいや。今となっては、それも違う気がする……」
「?」
不思議そうな顔を、フランツはした。

 きょとんとしたその顔を見て、ヨーハンは、思わず吹き出した。
「恋をしろよ、フランツ」
「……? なんですって!?」
「恋をするんだ。かわいい娘を見つけろ。純朴で優しい恋人は、君に、大切なことを教えてくれる。人生で、最も大切なことを!」
「そんな理想を言ったって……。いったいどこで、そんな都合のいい恋人を見つけてくるというんですか!?」
「町なか。それか、山。湖のほとり
「おじさん……」

「皇族や貴族の娘は、ダメだ。お前も知っているだろう? ハプスブルクの結婚では、丈夫な子どもが生まれないことが多い。おそらく、血の近さが、神の逆鱗に触れるのだ。世の富を、血族で囲い込もうなどというのは、さもしい考えだよ」
「……」
「第一、顔も見知らぬ女と添い遂げられる気がしない。娶るなら、民の娘に限る」

「……僕にその自由があるとお思いですか?」
静かな声だった。

 はっと、ヨーハンは息を呑んだ。
 自分の半分ほどの年齢の若者に、たしなめられた気がした。
 美しいアンナと過ごす幸福を。その、有頂天を。

「俺が、アンナに出会ったのは、37歳の時だ」
ぼそりとヨーハンは言った。
「機会は、いつか、巡ってくる。必ず」
我ながら、浮ついた言葉に聞こえた。

 フランツは、無言で頷いた。







 ヨーハンが、兄の皇帝から、正式な結婚を許可されたのは、その年のうちのことだった。
 翌1829年、2月28日。マリアゼル(シュタイアーマルクの北部)の教会で、結婚式が行われた。
 深夜に行われた式には、司祭と新郎新婦の他には、証人となる2名が出席したきりだった。
 それでも、ヨーハンとアンナは、静かな喜びと、深い安心に包まれていた。








 同じ月の22日。
 パルマで、アダム・アルバート・フォン・ナイペルク将軍が亡くなった。
 彼は、驚くべき遺書を、ウィーンの皇帝に宛てて、認めていた。
 ……。







fin







・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

*1 
チャットノベルがございます。「三帝激突」37話「ホーエンリンデンの戦い」




フランツの口ずさんでいた詩は、英語版『ドン・カルロス』二幕二場のカルロスのセリフを、岩波文庫(佐藤通次 訳)を参考にして訳してみました。なお、原文は散文ですが、敢えて詩の形にしてみました。



ヨーハン大公のお話は、連作短編になります。次の「片目の将軍」及び、3つ先の「2つの貴賤婚」に、ご期待下さい。





しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

無色な価値観

青春 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

ズルいズルいっていつも言うけれど、意味を知っていて?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:561

【完結】うちの家の玄関はたまに異世界に繋がります。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:276

ど天然で超ドジなドアマットヒロインが斜め上の行動をしまくった結果

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:95

【完結】回復魔法だけでも幸せになれますか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:171

処理中です...