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もう一人の売られた花嫁
フランス語しか話さない子ども
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宮殿の広間で、とある伯爵が、暇を持て余していた。彼は、5歳ほどの男の子を見つけた。
男の子は、ひとりだった。窓際のテーブルに座って、ペンとインクではなく、珍しい鉛筆で、しきりと、何か描いている。
金髪に碧眼、ウェストを絞ったフランス風の上着を着ている。
すぐに、誰だかわかった。
伯爵は、傍らの貴婦人に目配せをした。
彼女は、妖艶な流し目で伯爵に応えてから、給仕に何か言いつけた。
給仕は、貴婦人の元へ、ココアを運んできた。前世紀、女帝マリア・テレジアの夫によって齎された、ウィーンの芳しい飲み物だ。
婦人は、給仕を従え、隅のテーブルへ向かった。
大人の椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、男の子は、絵を描いていた。馬に乗った兵隊の絵だ。
貴婦人は、小さく、鼻を鳴らした。
遠慮がちに給仕が、彼の近くに、ココアの入ったカップを置いた。金の縁取りのある、薄い陶器に、なみなみとつがれている。
カカオと、それに混ぜられた薔薇とジャスミンの芳香に、男の子は顔を挙げた。
「さあ、これをお飲み、坊や」
フランス語で貴婦人は言った。
とろけそうな優しい笑顔で、男の子を見つめる。
男の子の顔が、ぱっと輝いた。
彼は、両手でカップをつかもうとした。
微笑み、優しく、貴婦人は呼びかけた。
今度はドイツ語だった。
「人食い鬼の子。この、私生児が!」
伸ばしかけた男の子の手が止まった。
するりと、彼は、椅子から滑り降りた。
彼は、真正面から、しばし、貴婦人の顔を見つめた。
無表情だった。
それから、両手で紙と鉛筆をかき集めると、ぷっくりとした手で、それらを握りしめた。
ばたばたと、小さな動物のように、広間から走り出ていった。
楽しそうに、貴婦人は、ソファーに戻っていく。伯爵の横にしどけなく座り、二人して、声を忍ばせて笑い合っている。
……。
一部始終を、皇女レオポルディーネは見ていた。
体が震えるほどの怒りを覚えた。だが、今はまず、走って逃げていったあの子のことが気がかりだった。彼は、彼女の、大事な甥だからだ。
レオポルディーネは、男の子を追いかけた。
階段の手前で追いついた。
「フランツ!」
彼女は呼びかけた。
「待って、フランツ!」
階段を登りかけた少年の、後ろに垂れた、上着の裾を掴んだ。
つんのめりそうになり、やっと少年は止まった。
振り返り、同じ顔の高さで、彼は、レオポルディーネを睨みつけた。
紅潮した頬をし……、
彼は、泣き出しそうだった。
「僕のパパは、人食い鬼なんかじゃない!」
しかし、彼は泣かなかった。
断固として、フランス語で訴えた。
「僕のパパは、偉い将軍だ。皇帝だったんだ!」
「ええ、そうね」
ドイツ語で、レオポルディーネは答えた。
フランスから来たこの子が、フランス語しか解さないというのは、大嘘だ。
既に、この子は、立派に、ドイツ語を話す。
ただ、人前では、母の国の言葉を、話そうとしないだけだ。
この子は、ナポレオンの息子だ。
レオポルディーネの姉、マリー・ルイーゼは、ナポレオンの妻だった。
連合国により、パリが陥落すると、姉は、3歳になったばかりの息子を連れて、実家であるウィーン宮廷に帰ってきた。
マリー・ルイーゼとレオポルディーネの姉妹は、オーストリア皇帝の娘だ。オーストリアはフランスに負け、マリー・ルイーゼは、まさに人身御供として、ナポレオンに差し出されていたのだ。
姉に連れられ、ウィーンへやってきた時、フランツはまだ、3歳だった。
初めて見た甥の印象は、確かに、父親によく似ている、というものだった。
だが、それでも、彼は、かわいかった。
フランツは、レオポルディーネにとって、始めての、自分の姉弟の子どもだった。身内の子どもというものは、こんなにもかわいいものかと、彼女自身、新鮮な驚きに浸った。
そのうち、ナポレオンの息子は、頑固な子どもだという評判が伝わってきた。
フランス語以外、話そうとしない。侍従はもちろん、ドイツ語しか解さないから、身振り手振りで、意思を押し通そうとする。
服も、フランスのものしか、袖を通さない。ドイツのものは、不格好だと言って、嫌った。
唯一、ウィーンで好きなものは、母親のテーブルから分け与えられるお菓子だけだということだった。
母には、甘えていたのである。
去年、父ナポレオンは、100日天下の夢も虚しく破れ、セント・ヘレナへ流された。
母マリー・ルイーゼも、つい最近、パルマへ旅立っていった。息子にはなにも告げず、朝早く、眠っている彼の枕元に、玩具を忍ばせて。
ウィーン会議で、彼女一代限りの、パルマ領有が認められたからである。ナポレオンとの間の息子は、同行を許されなかった。
フランスから一緒に来た従者たちは、とっくに解雇されている。
フランツは、一人ぼっちになってしまった。
周囲の者は、ナポレオンの名を出さず、聞かれても、父のことは答えなかった。
かんしゃく玉を破裂させたような声で……依然、フランス語で……、男の子は叫んだ。
「レオポルディーネ叔母様は、パパのことなんか、知らないくせに!」
「知ってるわよ」
「嘘つき!」
「嘘じゃないわ」
冷静に、レオポルディーネは応えた。彼女の言葉は、ドイツ語だ。
少年の目が、大きく見開かれた。
青い虹彩が、澄んだ強い光を放つ。
「パパに会ったことがあるの?」
小さな声で、フランス語で尋ねた。
「直接会ったことはないわ。でも、私は、あなたのお父様から、贈り物をもらったのよ」
「贈り物?」
「とても豪華な、心のこもった贈り物よ」
フランス語とドイツ語の、ちぐはぐな会話が続く。
レオポルディーネは、階段に腰を下ろした。
とんとんと、隣を軽く叩く。
口を尖らせ、それでも、フランツは、彼女の横に腰を下ろした。
男の子は、ひとりだった。窓際のテーブルに座って、ペンとインクではなく、珍しい鉛筆で、しきりと、何か描いている。
金髪に碧眼、ウェストを絞ったフランス風の上着を着ている。
すぐに、誰だかわかった。
伯爵は、傍らの貴婦人に目配せをした。
彼女は、妖艶な流し目で伯爵に応えてから、給仕に何か言いつけた。
給仕は、貴婦人の元へ、ココアを運んできた。前世紀、女帝マリア・テレジアの夫によって齎された、ウィーンの芳しい飲み物だ。
婦人は、給仕を従え、隅のテーブルへ向かった。
大人の椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、男の子は、絵を描いていた。馬に乗った兵隊の絵だ。
貴婦人は、小さく、鼻を鳴らした。
遠慮がちに給仕が、彼の近くに、ココアの入ったカップを置いた。金の縁取りのある、薄い陶器に、なみなみとつがれている。
カカオと、それに混ぜられた薔薇とジャスミンの芳香に、男の子は顔を挙げた。
「さあ、これをお飲み、坊や」
フランス語で貴婦人は言った。
とろけそうな優しい笑顔で、男の子を見つめる。
男の子の顔が、ぱっと輝いた。
彼は、両手でカップをつかもうとした。
微笑み、優しく、貴婦人は呼びかけた。
今度はドイツ語だった。
「人食い鬼の子。この、私生児が!」
伸ばしかけた男の子の手が止まった。
するりと、彼は、椅子から滑り降りた。
彼は、真正面から、しばし、貴婦人の顔を見つめた。
無表情だった。
それから、両手で紙と鉛筆をかき集めると、ぷっくりとした手で、それらを握りしめた。
ばたばたと、小さな動物のように、広間から走り出ていった。
楽しそうに、貴婦人は、ソファーに戻っていく。伯爵の横にしどけなく座り、二人して、声を忍ばせて笑い合っている。
……。
一部始終を、皇女レオポルディーネは見ていた。
体が震えるほどの怒りを覚えた。だが、今はまず、走って逃げていったあの子のことが気がかりだった。彼は、彼女の、大事な甥だからだ。
レオポルディーネは、男の子を追いかけた。
階段の手前で追いついた。
「フランツ!」
彼女は呼びかけた。
「待って、フランツ!」
階段を登りかけた少年の、後ろに垂れた、上着の裾を掴んだ。
つんのめりそうになり、やっと少年は止まった。
振り返り、同じ顔の高さで、彼は、レオポルディーネを睨みつけた。
紅潮した頬をし……、
彼は、泣き出しそうだった。
「僕のパパは、人食い鬼なんかじゃない!」
しかし、彼は泣かなかった。
断固として、フランス語で訴えた。
「僕のパパは、偉い将軍だ。皇帝だったんだ!」
「ええ、そうね」
ドイツ語で、レオポルディーネは答えた。
フランスから来たこの子が、フランス語しか解さないというのは、大嘘だ。
既に、この子は、立派に、ドイツ語を話す。
ただ、人前では、母の国の言葉を、話そうとしないだけだ。
この子は、ナポレオンの息子だ。
レオポルディーネの姉、マリー・ルイーゼは、ナポレオンの妻だった。
連合国により、パリが陥落すると、姉は、3歳になったばかりの息子を連れて、実家であるウィーン宮廷に帰ってきた。
マリー・ルイーゼとレオポルディーネの姉妹は、オーストリア皇帝の娘だ。オーストリアはフランスに負け、マリー・ルイーゼは、まさに人身御供として、ナポレオンに差し出されていたのだ。
姉に連れられ、ウィーンへやってきた時、フランツはまだ、3歳だった。
初めて見た甥の印象は、確かに、父親によく似ている、というものだった。
だが、それでも、彼は、かわいかった。
フランツは、レオポルディーネにとって、始めての、自分の姉弟の子どもだった。身内の子どもというものは、こんなにもかわいいものかと、彼女自身、新鮮な驚きに浸った。
そのうち、ナポレオンの息子は、頑固な子どもだという評判が伝わってきた。
フランス語以外、話そうとしない。侍従はもちろん、ドイツ語しか解さないから、身振り手振りで、意思を押し通そうとする。
服も、フランスのものしか、袖を通さない。ドイツのものは、不格好だと言って、嫌った。
唯一、ウィーンで好きなものは、母親のテーブルから分け与えられるお菓子だけだということだった。
母には、甘えていたのである。
去年、父ナポレオンは、100日天下の夢も虚しく破れ、セント・ヘレナへ流された。
母マリー・ルイーゼも、つい最近、パルマへ旅立っていった。息子にはなにも告げず、朝早く、眠っている彼の枕元に、玩具を忍ばせて。
ウィーン会議で、彼女一代限りの、パルマ領有が認められたからである。ナポレオンとの間の息子は、同行を許されなかった。
フランスから一緒に来た従者たちは、とっくに解雇されている。
フランツは、一人ぼっちになってしまった。
周囲の者は、ナポレオンの名を出さず、聞かれても、父のことは答えなかった。
かんしゃく玉を破裂させたような声で……依然、フランス語で……、男の子は叫んだ。
「レオポルディーネ叔母様は、パパのことなんか、知らないくせに!」
「知ってるわよ」
「嘘つき!」
「嘘じゃないわ」
冷静に、レオポルディーネは応えた。彼女の言葉は、ドイツ語だ。
少年の目が、大きく見開かれた。
青い虹彩が、澄んだ強い光を放つ。
「パパに会ったことがあるの?」
小さな声で、フランス語で尋ねた。
「直接会ったことはないわ。でも、私は、あなたのお父様から、贈り物をもらったのよ」
「贈り物?」
「とても豪華な、心のこもった贈り物よ」
フランス語とドイツ語の、ちぐはぐな会話が続く。
レオポルディーネは、階段に腰を下ろした。
とんとんと、隣を軽く叩く。
口を尖らせ、それでも、フランツは、彼女の横に腰を下ろした。
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