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アルゴスの献身 2

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 先月、モルの上官、ライヒシュタット公が、亡くなった。
 21歳だった。
 遺体を解剖した医師団は、結核と診断した。


 上官は、元フランスの皇帝ナポレオンと、オーストリアの皇女・マリー・ルイーゼの間に生まれた、プリンスだった。父ナポレオンの没落に伴ってウィーンに引き取られ、祖父のオーストリア皇帝の元で養育された。彼は、一度として、付き添いなしにウィーンの外へ出ることを許されなかった。


 ライヒシュタット公は早くから、父と同じ道を志した。12歳の時、将校の一番下の位である軍曹から、その軍歴を始めた。20歳で実際の軍務に就くに先駆け、ハルトマン、モル、スタンの三人の軍人が、補佐役として配属された。

 就任前、補佐役のトップ、ハルトマン将軍は、皇帝から、親書を受け取った。皇帝は、3人の軍人を、孫の見張り役とはっきりと位置づけ、女性や外国人など、不審人物との接触のないよう、厳しく見張ることを命じた。ナポレオンの息子である孫が、思想的に染められ、陰謀に巻き込まれることを警戒したのだ。

 ハルトマン、モル、スタンら、三人の軍人の使命は、単なる補佐官ではなかった。彼らは、皇帝が、ナポレオンの息子につけた、獄卒アルゴスだったのだ。


 この事実は、モルを、大いに苦しめた。彼は、14歳年下の上官であるプリンスに、忠誠を誓いたかった。しかし、皇帝の命令に逆らうことはできない。プリンスと皇帝、二人の主の間で、均衡を保つことは難しかった。おまけに、祖父の意図を悟ったプリンスから、疎まれるまでになってしまった。

 軍曹の身分のまま、長いこと、プリンスに昇進はなかった。軍功がないのだから、昇進がないのは当たり前だが、彼は、皇帝の孫だ。いつまでも軍曹のまま放置されていた彼を、モルは気の毒に思った。


 しかし、さすがに皇族が軍曹のまま実務に就くのは、問題がある。皇室そのものの、威厳が保てない。軍務開始に際し、祖父の皇帝は、彼を大尉に昇進させた。

 皇族の初任地は、プラハと決まっている。しかし、ライヒシュタット公が配属されたのは、ハンガリー第60連隊だった。この連隊の司令本部は、アルザー通りにある。この期に及んでさえも、彼は、ウィーンから出ることを許されなかったのだ。


 それでも、若い彼は、希望に燃えていた。青い瞳を輝かせ、最初の一歩を踏み出した。

 初めて指揮を執った日。白い軍服は、彼の肌の白さと相まって、輝くばかりに、モルの目に映った。腰を絞ったデザインは、ライヒシュタット公のほっそりとした若々しいスタイルを一層優雅に引き立てていた。

 しかし、彼は、お飾りの将校だった。彼の仕事は、街中での典礼行進の指揮に限られていた。もちろん、一度として、戦争に参加することはなかった(ああ、彼の父は、どれほど戦争が好きだったろう!)。それどころか、ウィーンから出ることさえ許されなかった。


 思えば、軍務に就いた頃、結核は既に、相当進行していたのだ。それでも、病をおして、彼は訓練に励み、ますます健康を損ねていった。年が明けると、プリンスは、気力を失っていた。それでも軍務を続け、冬の寒い日、シーゲンタール将軍の葬儀パレードの指揮を執った後で、喀血した。

 その後、短い小康状態が終わると、容態は雪崩を打つように悪化していった。彼は、郊外のシェーンブルン宮殿に移され、ここで、死を待つ身となった。

 病の進行に伴い、補佐官のモルらは、看護役へと、その職務をシフトした。ライヒシュタット公の最期の日々を共に過ごしたのは、医者を除けば、モルら3人の軍人だったと言っても、過言ではない。

 プリンスには、親しい友人が、3人いた。オーストリア有数の貴族の子息モーリツ・エステルパージと、子どもの頃からそばにいたグスタフ・ナイペルク、そして軍人のプロケシュ・オースティン少佐だ。

 しかし、この3人は3人とも、プリンスの任官に合わせるように、イタリア半島の各国へと遠ざけられていた。

 また、幼いころから、彼のそばにいた家庭教師は、弱っていく教え子を、見守り続けることができなかった。死が避けられないものとなると、彼は、娘の出産を口実に、ウィーンから逃げ出してしまった。


 母親が来ないのは、それ以前からだった。

 北イタリアには、彼女の領土、パルマ公国がある。公主であるマリー・ルイーゼは、ナポレオンとの間に生まれた息子をウィーンに残すことを条件に、この地に封じられた。5歳になる直前の息子を置き去りにした母は、夫ナポレオンの生存中から、父親の違う子を、次々と産み続けた。彼女は、全部で7回しか、ウィーンの息子の元へ帰ってこなかった。


 今年6月。プリンスは、最後の秘跡を受けた。これは、カトリックの死の儀式である。秘跡を受けるよう、彼に勧めたのは、叔母のゾフィー大公妃だった。かつて、バイエルンの薔薇と讃えられた美妃は、皇帝の次男、フランツ・カール大公の妃として、嫁いできた。プリンスより6歳年上の彼女は、彼と、ことのほか親しく、一部の口さがない者たちの間では、愛人であると囁かれていた。

 秘跡を受けるとは、即ち、死が、身近にあると認めることだ。長いこと、プリンスは、秘跡も、神父の訪れも、拒否してきた。しかし、愛する叔母君から勧められ、首を縦に振らざるを得なかった。

 彼はまだ、21歳と3ヶ月でしかなかったのに。


 彼の母親、ナポレオンの2人目の妻が、7度目に、そして、最後に息子を訪問したのは、秘跡を受けた4日後の夕方だった。

 それから1ヶ月、彼は、運命と戦った。瀕死の状態で、一ヶ月も生き抜くことができたのは、母が来てくれたおかげだと、一般には考えられている。

 モルは、そうは思わない。皇女は、一日のうち、わずかな時間しか、息子の病室を訪れなかった。それでよかったのだ。プリンスは、耳が聞こえづらくなっていた。深窓育ちの母親の声は、プリンスには、全く届かない。母子の意思疎通は難しかった。母が帰った後、モルが病室に戻ってみると、プリンスはいつも、ぐったりと疲れ切っていた。





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