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第九章 消しえない絆
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「ちーっす! 俊、いる?」
最近になって、放課後の美術室に正彦が姿を現すことが多くなった。
「今、三上さんのお供で図書室に行っているよ」
和矢が答えると、「今日は早く終わるから待っててほしい」、と伝言を頼まれた。
早歩きでサッカー部の練習に向かう正彦の背中を見送り、和矢は美術室の引き戸を閉めた。今日はまだ、一年生が来ていないため、美術室は閑散としている。
「相変わらず、吉村君は過保護よね」
嫌味でなく、微笑ましいものを見るように真実が言うと、「あれだけ弱みを見せるなって教えたのになあ」と斎が相槌を打つ。
俊の襲撃事件の時のことを言っているのだろう。
『いいね。正彦クンは、ホントにサッカーと俊が大事なんだね。でも、そんなにあっさり感情を表すと、いざという時守れないよ。大事な札は、うまく隠しておかないと』
確かにその通りだが、正彦の過保護ぶりは変わらないし、直す気もないだろう。
それでも、最近は、あまり公衆の面前で俊に関わることは少なくなってきている。
以前の正彦は昼休みのたびに教室に顔を出して俊と一緒に昼食を摂っていた。俊の教室で和矢や、たまに斎も交えて食べていたが、次第にクラスメートと過ごすようになっていた。和矢や斎を忌避しているわけではなく、放っておくと一人きりで黙々と食事する俊の姿にいたたまれず、顔を出していたらしい。
俊自身は、孤食に何の抵抗も感じておらず、極めてマイペースに過ごしていたらしいが、俊の席を中心に、何となく教室の雰囲気が寒々としてしまっていた。気が付いたら正彦が毎日弁当持参で訪れるようになり、その緊張感が緩和されたのだと、加奈からこっそり聞いていた。
『入学してすぐの、まだ美術部に入る前のことだけどね。高天君、本人は分かっていないけど、独特の存在感があるから。今は、遠野君たちがいるから、安心して任せているんじゃないのかな?』
その信頼は何ともこそばゆい。正彦は、無邪気であまり深く考えず動いているようでいて、実はかなり周りの空気を読んで、密かに配慮して行動している。
俊にかかりきりのように見えるが、きちんと自分のクラスや部活の交友関係も良好に保っている。「性格がよい」「皆に愛される天然なキャラクター」という言葉にごまかされがちだが、それすらも俊の独特の存在感、有体に言えば威圧感を和らげるための「役作り」なのではないか、とすら感じる。
もっとも、そんな正彦の「擬態」に気付いているのは、加奈や斎といった美術部のメンバーだけで、ほとんどの人々は、それが正彦の素の姿だと疑っていない。
俊を通して観察ることで、初めて気付くことができるのだろう。ほんの半年ほどの関わりでも、正彦がどれだけ俊のことを大切に思っているのか、まざまざと知れる。
昼休みに訪れる回数が激減し、その代償なのか、放課後サッカー部に行く前に、正彦は必ず教室か美術部に顔を出して、俊の「安否確認」をしていくようになった。
もともと部活のない日や早終わりの日などは一緒に帰る姿を見かけていたが、冬が近づき主だった活動が一段落している美術部の下校時間は、運動部よりだいぶ早いため、その頻度は減っている。今年は冬の大会も早々と敗退が決まってしまったため、春の新人戦に向けてウォーミングアップ中だから今は手を抜いているんだ、と笑って話していたが、先日の土曜登校の日も午前中に終わった正彦が、夕方までの日程だった俊を待つ間、ロードワークをしていたのも聞いている。本当に隙間を縫って俊に会う時間を作っている、と実感せざるを得ない。
それほど気にかけてもらっている俊であるが、その割に完全に正彦を受け入れていない様子があった。壁とは言わないが、心の砦の、最後の一線を越えさせてくれない薄い膜のようなバリアが、二人の間にはあったと思う。まあ、正彦の方はそのバリアごと、俊を受け入れていた様子であるが。
その距離感が、ここ数日で変わってきている、と和矢は感じている。少なくとも俊は、ほんの少しだが、正彦に歩み寄っている気がする。薄い膜の、さらに薄皮を一枚二枚めくり、バリアを和らげている。
二人の関係に何か変化があったのか、それとも別の要因か?
例えば、美矢との関係が影響している、とか?
俊と美矢の関係も、少しずつだが近づいている気がする。
俊をせっついて、美矢との仲が進展するように、余計なおせっかいも焼いたけれど、本当は少し寂しい。
美矢を守ることが、今までの自分の役割だと思ってきた。いずれはその手を離さなくてはならないのも分かっている。
兄として、こんな感傷に浸る日が来るとは。美矢を守ることは、美矢への愛情というより、美矢を守るという役割を得ることで自分を守るため、自分の心の拠り所としての共依存だと考えていた和矢にとって、その依存対象を失うことの焦燥感よりも、その手を離すことへの寂寥感が勝るとは、正直思っていなかった。
けれど、相手が俊ならば、申し分ない。
それは、俊への信頼とか、美矢の恋心への配慮というより、もっと打算的な思い。
……やっぱり、これは愛情じゃないな。
妹の恋心すら、自分の思惑のために利用するなんて。
心の中で自嘲気味につぶやいていると、がやがやと一年生が連れ立って美術室に入ってきた。その中には、美矢の姿もある。
「俊君なら図書室だよ」
目線で俊を探す美矢に、こっそり耳打ちすると、真っ赤になってプイっと顔をそむける。こんなかわいらしい反応を見ることができるようになったのは、俊のおかげだろう。
妹をからかうことで兄らしい気分を疑似体験するなんて、自分でも悪趣味だとは思う。……そこに、確かに愛情はあるのに、和矢は目を背けていた。
このささやかな兄妹の戯れの時間が、今だけの小さな幸せであるという事実から、目を背けたかった。
いずれは、すべてを明かす日が来るだろう。
その時には、美矢だけでなく、俊や正彦の信頼を失うかもしれない。
……失いたくない。
そのためには、まず健太を囲いこむ必要がある。そして、暗躍する『シバ』を、排除しなければならない。
あの夏の日以来、『シバ』については音沙汰がない。その沈黙は安堵よりも恐れを感じる。
まず、相変わらず須賀野の行方は知れない。相棒だった志摩は長期休学中で(こちらは他の襲撃犯らと共に唐沢家の管理下で精神修養中らしい)あるが、須賀野も同様に休学の届けがあり、三年生の間で多少噂になった程度で、大きな問題にはなっていない様子である。けれど、須賀野に関しては唐沢家も関わっておらず、接触もできないままである。
志摩らから得た情報により、『シバ』が出入りしていたというバーも、閉店してしまっており、手掛かりがなくなった、と斎がこっそり教えてくれた。ただし「俊や吉村には内緒で」という条件付きだったが。
『平気そうに見せているけど、その話題を避けている節がある。今は伏せておいた方がいい』
斎の観察眼は信頼に値するので、和矢も素直に従った。
なのに、今頃になって、思いがけない人物から、その名前が出た。
『カーヤの周りで「シバ」って、聞いたことあるか?』
知り合いが、そう呼ばれている男を探していて……と、曖昧に誤魔化されたが、「さあ?」と和矢がとぼけると、「そうだよな、ちょっと年上だしな」と漏らしていた。
明らかに、『シバ』その人を見知っている様子だった。
健太が『シバ』に与しているわけではないと思う。ただ、この先健太まで『シバ』の手の内に取り込まれる可能性は否定できない。
その前に、こちらの手中にいれたい。健太の持つ謎めいた力を他に渡すわけには行かない。
和矢の脳裏に、幼い日の、ムルガンの姿がおぼろげに浮かんだ。
あれは、きっと……。
そして、もう一人。
最悪の結果にならないよう、慎重に進めていかなければならない。これ以上、大切な人を失う羽目にならないように。
「あ、みんな揃ってるね」
加奈と俊が戻ってきた。
「お疲れ様」
そんな心の足掻きを和矢は覆い隠すように、艶やかな笑顔で二人を労わる。
足掻き続けて、傷だらけになって血を流し続ける、自分の心から、目をそらして。
最近になって、放課後の美術室に正彦が姿を現すことが多くなった。
「今、三上さんのお供で図書室に行っているよ」
和矢が答えると、「今日は早く終わるから待っててほしい」、と伝言を頼まれた。
早歩きでサッカー部の練習に向かう正彦の背中を見送り、和矢は美術室の引き戸を閉めた。今日はまだ、一年生が来ていないため、美術室は閑散としている。
「相変わらず、吉村君は過保護よね」
嫌味でなく、微笑ましいものを見るように真実が言うと、「あれだけ弱みを見せるなって教えたのになあ」と斎が相槌を打つ。
俊の襲撃事件の時のことを言っているのだろう。
『いいね。正彦クンは、ホントにサッカーと俊が大事なんだね。でも、そんなにあっさり感情を表すと、いざという時守れないよ。大事な札は、うまく隠しておかないと』
確かにその通りだが、正彦の過保護ぶりは変わらないし、直す気もないだろう。
それでも、最近は、あまり公衆の面前で俊に関わることは少なくなってきている。
以前の正彦は昼休みのたびに教室に顔を出して俊と一緒に昼食を摂っていた。俊の教室で和矢や、たまに斎も交えて食べていたが、次第にクラスメートと過ごすようになっていた。和矢や斎を忌避しているわけではなく、放っておくと一人きりで黙々と食事する俊の姿にいたたまれず、顔を出していたらしい。
俊自身は、孤食に何の抵抗も感じておらず、極めてマイペースに過ごしていたらしいが、俊の席を中心に、何となく教室の雰囲気が寒々としてしまっていた。気が付いたら正彦が毎日弁当持参で訪れるようになり、その緊張感が緩和されたのだと、加奈からこっそり聞いていた。
『入学してすぐの、まだ美術部に入る前のことだけどね。高天君、本人は分かっていないけど、独特の存在感があるから。今は、遠野君たちがいるから、安心して任せているんじゃないのかな?』
その信頼は何ともこそばゆい。正彦は、無邪気であまり深く考えず動いているようでいて、実はかなり周りの空気を読んで、密かに配慮して行動している。
俊にかかりきりのように見えるが、きちんと自分のクラスや部活の交友関係も良好に保っている。「性格がよい」「皆に愛される天然なキャラクター」という言葉にごまかされがちだが、それすらも俊の独特の存在感、有体に言えば威圧感を和らげるための「役作り」なのではないか、とすら感じる。
もっとも、そんな正彦の「擬態」に気付いているのは、加奈や斎といった美術部のメンバーだけで、ほとんどの人々は、それが正彦の素の姿だと疑っていない。
俊を通して観察ることで、初めて気付くことができるのだろう。ほんの半年ほどの関わりでも、正彦がどれだけ俊のことを大切に思っているのか、まざまざと知れる。
昼休みに訪れる回数が激減し、その代償なのか、放課後サッカー部に行く前に、正彦は必ず教室か美術部に顔を出して、俊の「安否確認」をしていくようになった。
もともと部活のない日や早終わりの日などは一緒に帰る姿を見かけていたが、冬が近づき主だった活動が一段落している美術部の下校時間は、運動部よりだいぶ早いため、その頻度は減っている。今年は冬の大会も早々と敗退が決まってしまったため、春の新人戦に向けてウォーミングアップ中だから今は手を抜いているんだ、と笑って話していたが、先日の土曜登校の日も午前中に終わった正彦が、夕方までの日程だった俊を待つ間、ロードワークをしていたのも聞いている。本当に隙間を縫って俊に会う時間を作っている、と実感せざるを得ない。
それほど気にかけてもらっている俊であるが、その割に完全に正彦を受け入れていない様子があった。壁とは言わないが、心の砦の、最後の一線を越えさせてくれない薄い膜のようなバリアが、二人の間にはあったと思う。まあ、正彦の方はそのバリアごと、俊を受け入れていた様子であるが。
その距離感が、ここ数日で変わってきている、と和矢は感じている。少なくとも俊は、ほんの少しだが、正彦に歩み寄っている気がする。薄い膜の、さらに薄皮を一枚二枚めくり、バリアを和らげている。
二人の関係に何か変化があったのか、それとも別の要因か?
例えば、美矢との関係が影響している、とか?
俊と美矢の関係も、少しずつだが近づいている気がする。
俊をせっついて、美矢との仲が進展するように、余計なおせっかいも焼いたけれど、本当は少し寂しい。
美矢を守ることが、今までの自分の役割だと思ってきた。いずれはその手を離さなくてはならないのも分かっている。
兄として、こんな感傷に浸る日が来るとは。美矢を守ることは、美矢への愛情というより、美矢を守るという役割を得ることで自分を守るため、自分の心の拠り所としての共依存だと考えていた和矢にとって、その依存対象を失うことの焦燥感よりも、その手を離すことへの寂寥感が勝るとは、正直思っていなかった。
けれど、相手が俊ならば、申し分ない。
それは、俊への信頼とか、美矢の恋心への配慮というより、もっと打算的な思い。
……やっぱり、これは愛情じゃないな。
妹の恋心すら、自分の思惑のために利用するなんて。
心の中で自嘲気味につぶやいていると、がやがやと一年生が連れ立って美術室に入ってきた。その中には、美矢の姿もある。
「俊君なら図書室だよ」
目線で俊を探す美矢に、こっそり耳打ちすると、真っ赤になってプイっと顔をそむける。こんなかわいらしい反応を見ることができるようになったのは、俊のおかげだろう。
妹をからかうことで兄らしい気分を疑似体験するなんて、自分でも悪趣味だとは思う。……そこに、確かに愛情はあるのに、和矢は目を背けていた。
このささやかな兄妹の戯れの時間が、今だけの小さな幸せであるという事実から、目を背けたかった。
いずれは、すべてを明かす日が来るだろう。
その時には、美矢だけでなく、俊や正彦の信頼を失うかもしれない。
……失いたくない。
そのためには、まず健太を囲いこむ必要がある。そして、暗躍する『シバ』を、排除しなければならない。
あの夏の日以来、『シバ』については音沙汰がない。その沈黙は安堵よりも恐れを感じる。
まず、相変わらず須賀野の行方は知れない。相棒だった志摩は長期休学中で(こちらは他の襲撃犯らと共に唐沢家の管理下で精神修養中らしい)あるが、須賀野も同様に休学の届けがあり、三年生の間で多少噂になった程度で、大きな問題にはなっていない様子である。けれど、須賀野に関しては唐沢家も関わっておらず、接触もできないままである。
志摩らから得た情報により、『シバ』が出入りしていたというバーも、閉店してしまっており、手掛かりがなくなった、と斎がこっそり教えてくれた。ただし「俊や吉村には内緒で」という条件付きだったが。
『平気そうに見せているけど、その話題を避けている節がある。今は伏せておいた方がいい』
斎の観察眼は信頼に値するので、和矢も素直に従った。
なのに、今頃になって、思いがけない人物から、その名前が出た。
『カーヤの周りで「シバ」って、聞いたことあるか?』
知り合いが、そう呼ばれている男を探していて……と、曖昧に誤魔化されたが、「さあ?」と和矢がとぼけると、「そうだよな、ちょっと年上だしな」と漏らしていた。
明らかに、『シバ』その人を見知っている様子だった。
健太が『シバ』に与しているわけではないと思う。ただ、この先健太まで『シバ』の手の内に取り込まれる可能性は否定できない。
その前に、こちらの手中にいれたい。健太の持つ謎めいた力を他に渡すわけには行かない。
和矢の脳裏に、幼い日の、ムルガンの姿がおぼろげに浮かんだ。
あれは、きっと……。
そして、もう一人。
最悪の結果にならないよう、慎重に進めていかなければならない。これ以上、大切な人を失う羽目にならないように。
「あ、みんな揃ってるね」
加奈と俊が戻ってきた。
「お疲れ様」
そんな心の足掻きを和矢は覆い隠すように、艶やかな笑顔で二人を労わる。
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