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第五章 疾風の帰還者

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『嫌だ! 行かないで!』
 泣き叫ぶ、幼い女の子。
 継ぎはぎだらけの古びた衣をまとっているが、その顔立ちは、幼いながらも気品があり、将来が楽しみな、整ったものだった。
 その端正な顔をゆがませて、涙にくれる幼女を、これまた端正な顔立ちの、やや年かさの少年がたしなめる。
『だめだよ。ムルを困らせちゃ』
『どうして? ムルはここのおうちの子でしょ? どうしてよそのおうちの子になるの?』
『……ムル……ケンタは、もともとこのおうちの子じゃないんだよ。まだミーヤが小さいころに、風が運んできたんだ。遠い東の国から……その国に、帰るんだよ』
『ちがうもん! ムルはムルだもん! ムルガンだもん! ケンタなんて名前じゃないもん!』
『……ミーヤ……』
 泣きわめく幼女を、ギュッと抱きすくめる少年の目から、涙が一粒、零れ落ちた……。


「……夢か……」
 ふと目を覚まし、冷房のものとは違う冷気に、健太は一瞬身震いした。
 ……そっか、ここはインドでも、東京でもないんだっけ。
 時計を見ると、朝の五時。照明を点けなくても十分な陽光がカーテン越しに差し込んでいる。
 打ち合わせのために訪れた高原の田舎町は、残暑とはいえ朝方は十分涼しい。
 薄明るい室内の、見慣れぬ風景に戸惑いながら、まだ寝ぼけている頭を目覚めさせようと、自らの拳で小突いた。半分ほど空いていた窓を全開にすると、陽光にきらめく緑の木々が、寝起きの目に染みる。ホテルではなく、打ち合わせ相手の自宅……遠野家に泊めてもらい、遠慮が勝っていたはずが、熟睡だった……寝心地の良い寝具と気候だけが理由ではではない。「どこでも寝られる」強みは、ここでもしっかり発揮されていた。
 国内でも雨が少ないこの地方の涼やかな風はインド各地を巡り、その中でも格段に過ごしやすかった北部インドの気候に似ている気がする。もっとも、あちらでは初冬の気候だったが。

 もう、十年以上も前になるのか……。
 かつて、ムルガン、と呼ばれていたころ。
 足の速い孤児を、そう名付けたのは、誰だったっけ?
『まるで、韋駄天みたいだったから』
 そう言っていたのは、自分と同じ肌の色をした、日本人……そう、シンヤだ。
 シンヤ……真矢。
 そして、健太、という名も、真矢が授けてくれた。
 ムルガンの異名スカンダを漢字で表記した塞建陀天からとったのだと気づいたのは、かなりたってからだった。
 塞建陀天=韋駄天は暴風雨の神ルドラの子だから、そう名付けたのかもしれない。

 気が付いたら、いつも真矢がそばにいた。真矢がいて、子供たちがいて、おばあナーニーがいて。
 家族というものを知らなかった健太は、そこに母親、という存在がいないことに疑問を持たなかった。時折幼い妹が「アンマー……」とすすり泣くのを慰めながら、「この家には母親マーンがいないから仕方ないよな」と思っていた。美矢が生まれた時に母親と別れたことを、事実として知っていた。
 真矢が自分の父親ピタでないことは、最初から分かっていたが、家族として十分に愛情をもらった。ただ、いわれのない喪失感があった。何かが欠けている、そんな虚無を感じる場面があったが、徐々に薄れていき、理由も思い出せなくなった。

 それが、どんな経緯で、今の両親に引き取られることになったのか。養父母からは、知人の紹介だとしか聞いていない。それが真矢とは別の人物であることは、知っている。
『ムルを守れなくて、ゴメン』
 それが、別れ際の言葉だった。そこにどんな意図があったのか、今はもう知るすべはない。
 真実を確かめるすべは、もう、ない。
 もう、二度と出会えないのだろうと、諦めていたから……。
 でも、まさか。
 このような形で、真矢の忘れ形見に会えるとは思っていなかった。
 真矢の子……カーヤとミーヤに。



 昨夜。
「まさか、日本で会えるなんて、思ってもみなかったよ。会えるとしたら……インドでだろうと思っていた」

 応接間に通されたあと、体調を崩してしまったという新しい仕事のパートナー候補……遠野弓子が姿を表した。
 青白い顔をして、見るからにやつれた、だが儚げな様子がなんとも美しいその女性は、予定変更についてわびを入れると、そそくさと床についた。
 正確には、「あとは僕が話しておきますから、とっとと休んで回復してください」とこれまた美しい甥……遠野和矢に部屋に追い立てられてしまったのだが。




「高校を出たあと、写真家の先生に弟子入りして……弟子って言っても下働きの下働き、仕事がないときは他のバイトで食いつないで、やっと助手もどきの仕事もさせてもらえるようになれたんだけどさ」

「それで、どうしてインドに?」
 お手製のチャイを作って応接間に運んで来て健太に勧めると、和矢は向かい側のソファーに腰を下ろした。
「インドの特集を組んだ雑誌の取材に先生が同行して、俺も一緒に連れていってもらうことになったんだけど……寸前に先生がインフルエンザになっちゃってさ、とにかく予定が押してるから、誰でもいいからカメラマンを用意しろってことになって……俺が撮ることになった」
「すごいじゃないか。いきなり雑誌にデビューってことだろう?」
「いや……」
 困ったように、健太はぼさぼさの髪の毛の下で眼を伏せた。
「実はインドに着いたとたん、ライターさんやスタッフが体調崩してさ、結局企画自体流れちゃって」
「……」
「で、俺は何ともなかったし、せっかくだから少しインドこっちをまわって撮影修行をしたいって言って……気が付いたら、三年経ってた」
「……呑気だなあ。相変わらず」

 韋駄天のように足の速い少年だったが、性格は温厚で、優しかった、ムル。
 そんな穏やかでのんきで優しい少年が、そのまま大人になって目の前にいることに、和矢は可笑しいような、くすぐったいような気持ちを感じていた。
「でも、その間、どうやって生活していたんだい? いくら物価が安いとはいえ、それなりにかかるだろうし」
「まあ、昔とった杵柄というか、どんな所でも寝られるしな……ただ、カメラや機材があるから、実際はどこでもって訳にはいかなくて……そんな時、ある人に出会った」
「ある人……?」
 含みのある言い方に、和矢はつい、探るような物言いで聞き返した。
「ああ……おばあ、に」
 一度言葉を飲み込んで、意を決したように、健太は口を開いた。
「……カーヤ、シンヤは、死んでいたんだな、やっぱり」
 やっぱり。
 突然冷え冷えとした光を宿した眼差しを、和矢はチャイを啜ると、柔らかな微笑みで返した。

 その瞳だけが、健太と同じく、冷たい光を宿らせて、いた。
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