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狂気の夜陰

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 尭司が帰宅した後。

 亜夜果は泣く気力すらなく、ぼんやりと1日を過ごした。

 食事も取らず、目は開いていても、そこには何も映ってはいなかった。
 日が沈み、部屋の中が暗くなっても、灯りも付けず。

 けれど、部屋の中が真っ暗に近くなり、ようやくその闇に気が付いた。

(……もう、夜が来たの? もう、来てしまったの?)

 夜になったら、尭司が来てしまうかもしれない。
 優しく尭司ではなく、亜夜果を苦しめ、いたぶる尭司が。

 オートロックなのは分かっているのに、亜夜果は不安になり、ドアを確かめに行こうとする。

「……っう……」

 下腹部に痛みが走る。本格的に生理が進んできたようだ。けれど、こんなに早く痛みが訪れるなんて。

 亜夜果はあまり生理痛を感じることはない。若干の気だるさや重たさは感じるものの、痛みで立てなくなるようなことはほとんどなかった。

 けれど、今回は、軋むような痛みに襲われた。
 立ち上がることもできず、四つん這いで痛みに耐える。何度も深くゆっくり息を吸い、吐き出す。

 何とか痛みを逃し、よろよろと立ち上がる。

 とたん、ツっと、内股に液体の流れる感触を覚えた。

 ポタポタと、床に赤い水滴が落ちる。

「うそ……何で」

 今朝、徵が見えたばかりなのに、1日目でこれほどの出血があるなんて。

 戸締まりのことは忘れて、あわてて亜夜果は手近なところにあったティッシュペーパーを手に取り、血痕を拭き取る。幸いフローリング部分だから後でもう一度水拭きすれば染みになることはないだろう。

 立ち上がる前に、自分の体に付いた血液も拭き取っていると、再び痛みが襲う。歯を食い縛り、這うようにしながら、亜夜果はトイレに向かう。

 血で汚れた衣類を脱いで、手当てしたあと、浴室で予洗いする。思った以上に水が赤く染まり、思わず気が遠くなる。
 何とか血痕を落とし、洗濯機にかける。部屋に戻り、灯りをつけるため、手探りでベッドに向かう。リモコンをベッドサイドに置いたままだったのだ。

 何とかリモコンを見つけて、灯りを付ける。ふと、カラーボックスの上段に畳まれたままの男性ものの衣類を見つけた。

 尭司のパーカーだ。返そうと思いつつ、未だに手元に置きっぱなしになっていた。
 
 亜夜果は、パーカーを手に取ると、両手に持って広げた。ストーカーに襲われた時に、尭司が貸してくれたもの。あれから、まだ1週間も経っていない。
 その数日の間に、亜夜果は恐怖と悦びと苦痛と、様々な出来事とそれに伴う感情に翻弄されている。

 これほどの目まぐるしい状況の変化に、きっと自分の体も心も、ついてこれないでいるのだ、きっと。

 生理の予定からはそれほど外れているわけではないが、疲れはてた心身によってホルモンバランスが崩れているに違いない。常にない月の物の苦しみに理由が付くと、ほんの少しホッとする。

「尭司……」

 別れ際の、悲しそうな顔。
 亜夜果の気持ちを慮り、早々に帰宅していった。

 あれが演技だとは、とても思えない。
 けれど、夜中の出来事も、事実なのだ。

 あれが真実の尭司なのかどうか考え始めると、思考は堂々巡りになり、袋小路に入り込んでしまう。

 パーカーを抱き締める。洗濯はしてあるが、まるで尭司の匂いが残っているように感じる。

「尭司……やっぱり、好き……」

 ベッドに寄りかかり、ことん、と頭を預ける。
 昨日、ここでこうして尭司の寝顔を見て、自分は確かに幸せだったのだ。
 狂おしく亜夜果を求めることはあっても、多少強引なこともあったが、最後の瀬戸際では、必ず亜夜果の意向を確認してくれた。どうしてもこらえきれない時は、謝ってくれた。
 亜夜果にした行為も、亜夜果が同意した上でなら、きっと恋人やパートナーとの営みで、普通にあり得る行為なのだと思う。
 
 自分が受け入れれば、全て丸く収まる……のだ。


 また、腹痛が襲ってきた。
 まるで、この考えを受け入れられないと、無意識に体が拒否をしているかのように。

 頬の痛みのためにもらってあった痛み止めが、まだ残っていた。本来の目的とは違うが、解熱鎮痛剤ならば、効くのではないだろうか?
 薬の袋を取出し、スマホに薬剤名を入力する。
 効能に生理痛とあるのを確認して、後ろめたい気持ちをもちながらも、亜夜果は薬を飲む。
 しばらくして、ようやく痛みが落ち着いてきた。

 けれど今度は胃のムカつきが襲う。そう言えば、鎮痛剤を飲む時には何か食べるように言われていたはず。
 
 自己判断で薬を飲んだ罰を受けたかのような副作用に、亜夜果は反省する。

 何か食べようにも、胃が気持ち悪くて食欲が出ない。
 
 もう、何もかも嫌になってしまう。

「尭司の、ばかぁ……」

 みんな、尭司がいけない。

 八つ当たりめいた怒りに任せて、ここにはいない尭司に向かって罵詈雑言を繰り返す。
 忘れていた涙が、再び目尻を濡らす。

「尭司が、いけないんだから……こんな時に、そばにいてくれないなんて……ひどいよぉ……」

 もはや、矛盾だらけの言葉を繰り返しながら、泣き濡れて、亜夜果は眠りに落ちた。





 ふと目覚めると、スマホが、鳴っている。

 目覚ましではなく、着信だった。
 ディスプレイに表示されているのは、絵巳子の名前。

『あ、ごめんね。もう寝ていた?』

 時計を見れば、まだ20時を回ったところだ。ほんの僅かな時間、眠りに落ちていたらしい。

「大丈夫です。ちょっとうたた寝してました」
『そう? 体調、どう? 明日は、まだお休みするのよね?』

 そう言えば左頬の様子も見ていなかった。けれど、この体調が明日まで続くかも知れないことを考えると、できれば休みたい。

 スマホを繋げたまま、亜夜果は洗面台に行き、左頬を見る。アザはかなり薄くなってきた。正直、これなら化粧で誤魔化せそうだ。

「何とか、行けるかと思います」

 本当は体調に不安はあるが、そこで適当に言い繕えないのが亜夜果の性格だ。

『……そういうふうには聞こえないけど。何だか息が荒いわよ?』
「ちょっと、生理が来ちゃって。いつもより痛みがあって……でも、明日には……きっと」

『……私ね、実は今、マンションの外にいるの。日が暮れた頃通ったら部屋が真っ暗だったから、気になって。それで、また来ちゃったの。今から行っていい?』

 いつになく強引な絵巳子の様子に、亜夜果はすぐに返答できない。

『昼間、保内さんの彼氏に会ったの。とても落ち込んでいて。喧嘩したの? って訊いたら、何だか不思議なこと言っていて』

「……尭司、が?」

『全く記憶にないけど、何か酷いことをしてしまった、って。ふと思い出した神社の昔話をしたら、本気にしてお詣りに行ったみたい。相当、悩んでいるんじゃないのかな、って思って。何か、私、余計なこと言っちゃったかな、って気になって』

「神社の、話? それは、どんな?」
『話してあげるから、家に入れて? 直接顔色見ないと安心できない』

 亜夜果が承諾すると、ものの数分で絵巳子がやって来た。

 亜夜果の顔を見て、「これは明日も休みね」と勝手に決めてしまう。

 その後、尭司に話したという昔話を聞かせてくれた。

 夜になると豹変する恋人、月の兵士に体を乗っ取られた日の兵士。

 まるで、尭司の様子を準えたかのような昔話に、亜夜果は驚きを隠せなかった。

「……こんなおとぎ話、保内さんまで、まともに信じちゃうんだ。そんなことが、本当に起きるだなんて」

「信じているわけじゃないです。でも、あまりにもぴったりで」

「私ね、保内さんの彼と別れた後で思い出したんだけど、実は、この昔話には、異説があって」

 



 絵巳子が帰宅し、亜夜果は先ほどの話を思い返していた。
 あまりにも符牒が合いすぎる。

 単なる偶然とは思えない。

 ならば、これは、必然なのだろうか?



 けれど。

 何も知らずに、自分は、ただ恋人の豹変を嘆いていた月の巫女ではない。
 少なくとも、たとえ昔話、おとぎ話であっても、理由を知ることができた。

 もう、ただ嘆いているのは、止めた。

 完全に信じているわけではない。
 けれど、何もしないよりましだ。

 信じるとすれば、自分の、尭司への思い。
 あんなことがあっても、やっぱり好きだと思わずにはいられない、この思い。


 次に尭司が訪れるとすれば、それは、早くて明後日の昼間か、その夜。
 

 それまで、心を強くして、耐えよう。

 きっと、夜明けは来るから。




【……月のとばりが、我が巫女を隠してしまった……やむを得ない、女は月に一度生まれ変わる。その間は、神の領域……だが、血の穢れが祓われたその時こそ、今度こそ我が手に……!】


 幸いにも訪れた月の巡りに助けられ、ほんのひととき、闇の目から逃れて安らぐことができたとは知らず。

 亜夜果は、ようやく、安らかな眠りを得ることができた。
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