引き籠りたい魔術師殿はそうもいかないかもしれない

いろり

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1章

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巨大な竜が苦悶の声を上げている。魔化の苦しみを思うと ぎゅっと心が苦しくなった。

(なかま、ってのは誰のことなんだろ)

魔瘴に浸食されて黒く染まった古代竜の瞳が ゆっくりと濁っていくのを見つめる。

「……君のことだろうか」

精霊達は何かと仲間を助けてと言う割に その仲間が何者なのか言葉で示したことはなく、いつも状況でシルガに判断させる。

背後で転移術式が動いた気配を感じても、シルガは敢えて振り返らずに苦しみにのたうつ古代竜の魔瘴汚染を浄化できるか真剣に考えた。シルガの魔力はほぼ満たされている。
古代の薬草で精製した魔力回復薬――その効果は驚くべきものだった。しかしこの魔法薬はシルガの間違いでなければ……

(ほとんど毒に近い)


魔力が回復する、と言ってもその魔力はどのように回復するのか。そもそも魔力は生命力なので食事と深く関係する。急激に減少した魔力を回復させるためには生命を取り込むことが重要だ。けれど、身体の魔力生成速度は一定なので食べるだけでは急激な魔力減少を補うのに間に合わない。そういうわけでレイブラッサムの花粉のような魔力に干渉する効果があるものを回復効果の付与媒体にする必要があるのだ。
レイブラッサムの魔力と調薬者の魔力が回復術式を通して精製され、魔力干渉の薬効によって使用者の魔力にダイレクトに働きかける。他者の魔力を直接補給し、かつ自身の魔力生成を無理のない自然な範囲で活発にするのが魔力回復薬だ。

だが、古代薬草の薬効はどうも違うようだった。魔力干渉ではあるが 極端な身体強化のような魔力干渉―― 一時的に魔力生成量の限界値を増幅させる、そんな効果だ。精製された薬草の蓄積魔力と調薬者の魔力が 使用者の魔力生成機能に働きかけ、魔法薬に含まれる魔力が尽きるまで使用者の魔力生成能力を大幅に超えた量を作り続けるようになっている。そのツケは使用者に後から請求されるわけで……つまりこれは、生命を前借りして魔力を生成する魔力回復薬なのだ。

(場合によっては焼却処分だ)

シルガの鑑定魔法を頑なに拒絶していた古代の薬草。あの謎の廃村で盛んに栽培されていたようだった古代の薬草は、ひょっとしたら意図的に絶滅させられたのかもしれない。


―― オオオオ”オ”


古代竜は二本足で立ちあがり 翼を大きく揺らしながら前足で胸を掻きむしっている。長い首を左右に振ってえずきながら苦しむ様子は、飲み込んだ魔瘴の発生源を彼の身体の内に留めようとしているようだ。視界の悪い魔瘴の中で滅茶苦茶に暴れる狂乱状態の巨大な竜と魔力を繋げるなんて至難の業だ。それに、竜の汚染を浄化しても発生源をどうにかしないと意味がない。

(ジスは倒したって言ってたな)

長く苦しまないように止めを刺したほうがいいのだろうか。
そう思って攻撃魔法を試みたところ 魔術式は展開前に瘴気に侵食されて発動しない。質量の低い初級魔法なら浸食前に発動できるが、威力はどんぐりを投げてぶつけるようなものだ。

「どうしろって言うんだよ」

なすすべもなく古代竜の身体が腐り落ちる様子を見ているだけの現状に焦りを覚えて呟いた。

―― グゥ…… オ”オ”オ”オ”

酷く苦し気な咆哮を上げ、首を限界まで反らせた古代竜の胸の肉がズグリと剥げ落ちる。落下する腐肉の塊を避けて見上げると古代竜の露わになった心臓が脈打っている。その周りには何かの術式が描かれ、微かな光を帯びて魔力が巡っていた。

(魔術式だな……何の?)

もう少し詳しく見ようと目を眇めたと同時に、無数の黒い腕が古代竜の腹を突き破って蠢いた。

―― ア”オ”オ”オオ!!!!

滅茶苦茶に首を振り乱してひと際高く吼えた後、古代竜はゆっくりと傾き、轟音を響かせて倒れ伏した。腹から生えた黒い腕は更に数を増し、黒い塊が竜の背をぼっこりと盛り上げている。あの不気味な生物が今にも竜の身体を裂いて飛び出しそうだ。
シルガは古代竜に駆け寄って 竜の首と骨を押しのけ、その胸の中――心臓のすぐそばまで身体を滑り込ませた。

(まだ微かに動いてる)

どくどくと脈打つ心臓にはっきりと描かれた魔術式のようなものは未だ淡い光を帯びて動いているようだった。しかし、それが何の術式で今現在どういう働きをしているのかさっぱりわからない。微弱とはいえ魔力が通っているのでシルガの魔力で辿り直すこともできない。

(いや待てよ。なんかジスが……)

ふと思い出した あのゾワゾワした感じ、異空間結界を壊されたあれだ。カウロックスのミルクのせいでジスとグダグダの戦いをしたのはまだ記憶に新しい。

「俺の魔術式に付け足した」

だが、他人の描いた稼働中の魔術式を無理やり描き変えて引き継ぐ方法なんてシルガは知らない。それにあの時は二人の魔力が反発して術式が消し飛んだので、同じことをしたらこの魔術式も消えてしまうかもしれないのだ。
シルガが躊躇している間も謎の生物は膨張し続けている。時折びくりと痙攣する古代竜は、今は意識を失っているが魔化したら打つ手なしだ。

(今ならまだ理性があるんだ)

何か可能性があるのなら試してみるべきだろう。

(魔術式は魔力で描かれてる……ということは、魔力を繋げるのと大して変わらないんじゃないか?)

描き変えは無理でも魔力の補充ならできる気がした。シルガは古代竜の心臓に刻まれた魔術式にそっと触れ、魔瘴を浄化するときのように魔力の流れを探った。
吹き荒れる魔瘴の音が意識から遠ざかる。目を閉じて掌に集中すれば微かな魔力が魔術式を巡り循環しているのがわかる。そして気付いたことは、この魔術式を刻んだのは古代竜自身ではなく ほかの誰かだということ。さらに言えばその魔力は、言いようもない懐かしさでシルガの魔力ととてもよく馴染むのだ。

掌から繋がった魔術式にとくとくと魔力が注がれ 再びシルガへ戻ってくる。まるで魔術式の一部にでもなったような感覚だ。ふわふわと心地良さを感じたシルガがうっかり寝そうになっていると、竜の心臓に刻まれた魔術式が強い光を放って力強く稼働し始めた。術式が大きく展開すると次の術式が現れ展開し、また次の術式が次々と広がっていく。

(すごいな。誰がこんな魔術式を何のために作ったんだろ)

シルガは魔術式を解析するのも忘れてぼんやりと不思議に思った。数えきれないほどの魔術式が展開したころ、魔瘴がどうなったのかも あの不気味な生物がどうなっているのかも何一つわからないのに、優しい安息がシルガを満たして瞼を重くさせた。

(……うた、が…… 聞こえる……)

微かに聞こえていた音が近づき、シルガの意識はふつりと途切れた。








――― なんという僥倖か


突然落ちてきた声にびっくりして飛び起きて、最初に目に入ったものは金色の大きな目だ。黒い瞳孔が縦に伸び、知性の輝きが灯っていた。

「え……」

近すぎて全体が見えないが、たぶん古代竜だ。シルガが後ろ手を突いたまま後ずさると その分だけ顔を寄せてくるので 視界一杯が古代竜の顔のまま変わらない。

(古代竜って人の言葉を話すのか)

そういえば召喚した異界の住人も人の言葉を話すのだから古代竜も話すのだろうと一人で納得するシルガを、古代竜は色々な方向から眺めて頷き感慨深げに独り言を続けた。


――― 盟約により守り続けた古の宝をようやっと、その血に返すことができる。ずいぶんと……待たされたものだ。


「……?」

状況もわからなければ話も全くわからない。座ったままも何なので立ち上がってみれば、やはりずいと顔を寄せてくる。シルガは竜の鼻先を手で押しやって後ずさった。

「誰かと間違えていないだろうか」


――― 金環の瞳、白金の髪、その魔力、間違えようもない。なつかしい……ヴァストリよ。


「…………?」

ヴァストリ。
古代竜が確信を持って呼んだ名を思い出すのに手間取ったのは、普段全く使わない記憶領域を探るのは時間がかかるためだ。ヴァストリとはルーンシェッド大森林の北東、エルドランの最南端のシエカート公爵領を治めていた一族である。


ルーンシェッド大森林を探索し、シエカート公爵が遺した魔術式を集めて解析することはシルガの楽しみのひとつである。その結果 判明したことだが、その魔術式には血統制限が組み込まれていた。ヴァストリの血に連なる者のみが魔術式を開示できるというもので、つまりシルガはヴァストリの血筋ということになる。

(そういえばそうだった)

それはルーンシェッド大森林に引き籠ったここ数年の間に判ったことだ。だからといってどうということもなく、貴重な魔術式を解析できることを幸運に思っただけの、忘れ去っていた事実だ。魔法薬を卸すために街に出て、シエカート公爵領で政変が起き処刑が行われたらしいという噂を聞いても、詐欺教団が今後厳しく取り締られることを願った……その程度の事に過ぎない。

「そういえばそうだった」

他人から言われて初めて、シルガはちょっと考えてみる。
ヴァストリの血に連なるということは、シグレイス伯爵の嫡子アスレイヤともベルメロワ辺境伯とも本来なら敵対関係にあったということだ。が、ヴァストリだったことなど――シエカート公爵の魔術式を解析するときを除けば――ないのだし、戸籍もない。
シルガは困惑して古代竜を見上げた。

「……あいにく、俺は野生のヴァストリなんだ。血統書付きのヴァストリは最近、政変で処刑されて滅びたよ」


――― ふふふははははは……!!


古代竜の笑う声が起こした強烈な風に吹き飛ばされそうになるのを耐える。


――― 可笑しなことを!こうして話をしていることこそ真実、主が正統なヴァストリである。母屋を盗られでもしたのであろう。古くから、ふらふらと……能天気な血であることよ。


そう言うが早いか、古代竜は大きな翼を広げて二、三度羽ばたかせ、全身に力を込めて飛び立つ体勢を整えている。その身体は魔瘴汚染によって黒く染まり、所どころ肉が腐敗し剥げ落ちていた。

「あっ、待ってくれ。あの変な生物……魔瘴の発生源は?君は浄化が必要なんじゃ……」


――― もはや気掛かりは片付いた。確かに返したぞ、ヴァストリよ。


嵐のような風を巻き起こして古代竜は飛び立った。

「っ……!!」

とても目を開けていられない。吹き荒れる風に晒されながら、シルガは頭上の空が開けていくのを感じた。それどころか、今いる空間がほろほろと崩壊している気配すらある。


――― ……は……歪で無様な……の……を…… 

――― ……の 亡者を……  ……しよう


古代竜の晴れやかな声がそう言ったのを、シルガはどこか遠い出来事のように聞いていた。










「――――はッ」

突然目を覚ましたような感覚で我に返ったシルガは、視界一杯に広がる薄暗い森に困惑してきょろきょろと見回した。

「……ルーンシェッド大森林?」

やたら見覚えのある森だが物凄く違和感があるのだ。シルガはローブのフードを深く被ろうとして、それが無いことに気付く。

「あ……? と、ローブを忘れるなんて」

普段なら絶対にしないミスだ。同時に違和感の正体が解った。ローブを身に着けてない状態で、結界も構築せずに夜のルーンシェッド大森林を歩き回れるはずがない。

「魔瘴が消えた」

振り仰げば木々の枝の間に蒼い星空が見える。


――― シルガ、こっち

――― こっちだよ


「うん? ああ……ま、いいや」

突然現れた精霊達がしきりにシルガを誘導する。それに疑問を覚えたものの、そこまで珍しいことでもないので素直に後を追った。光の粒は次々と数を増やしてシルガの周りを飛び回り、絶対に逸れさせまいと頑張っているようだった。








********








激しい風がぴたりと止まった。強風に晒されるのが常であるルーンシェッド大森林の上空で、広域哨戒のために特別編成された竜騎士たちは困惑して足元を見下ろした。大森林を覆っている黒い魔瘴が、潮が引くようにしてどこかへと集まっていく。

「不穏だ」

白い息を吐きながら呟いたアトラトは、ティウォルト側から見たルーンシェッド大森林についてジスから齎された情報を反芻していた。こいつ休暇(謹慎)中も仕事してんのかよと呆れつつ、楽しそうで何よりだと放置しているうちに、その内容は徐々に不穏なものになっていった。
ティウォルト側の地形や植物、瘴気の濃度観測データから始まり、迷宮の踏破状況と拾得物リストなどの情報など。ジスの観測データによるとティウォルト側の魔瘴濃度は日を追うごとに高くなり、特に夜は瘴気溜まりの移動が激しく、噴出孔が活発に移動しているようだった。なにが不穏かというと ティウォルトが公開しているデータとあまりに違うのだ。これだけの相違が出たのは最近で、エークハルク城塞もケヘラン要塞も、単にデータの更新が追いついてないだけかもしれないが、竜騎士ほど機動力がないにしてもあまりに違いすぎる。ルルカ砦とザカ砦での観測データは以前と変化がほぼないので不審に思っていたところ、この状況である。

(迷宮と何か関係あるのかねぇ……)

みるみるうちにルーンシェッド大森林の魔瘴の守りが剥がれていく。


「うお――!!すっげ――!!こんなことってある!?あるんだ!?」

「はしゃぎすぎうるさいですぅ。ちょっと黙っててください」

常にない状況にテンションが爆上がりのシーグルを横目に、アトラトはどうしたものか考え中だ。率直に言って、魔瘴の行方がとても気になる。瘴気に晒される心配がない間に調査しておきたいが、いつまた元に戻るか、そうなった場合 確実に帰還できるか分からない。判断しかねていると相方のフランジがそばへ寄って来た。

「こう見晴らしがいいと逆に不気味なもんなんすねアトラト先パ……じゃなかったアトラト、さん」

「フランジお前ね……いいかげん慣れなさいよ」

「違和感ハンパなくてちょっと。正直ジス先輩も呼び捨てツラいんすよ俺ストレスで死ぬかもデス」

「ケッ、ジスなんてジスで十分ですよ」

続いて来たのはデュランだ。砦で待っててくれ、なんてジスに言われてひと月ほど放置され待ちぼうけをくらっている気の毒な後輩である。

「わぁデュランが荒れてる。何かあった?」

「何もないですが。なにも」

「ジスがアトラトにだけマメに連絡してんの、ヤキモチだよな、な!」

「……」

「シーグル先輩は空気読んでほしいすね」

デュランの冷たい視線をものともせずにシーグルが促した。

「どうする?行っちゃう?どこに集まってんのか気にならない?」

「そうだな」

アトラトは自身の騎竜――ベルタの首を撫でて頷く。

「魔瘴の集合地点まで追いかけよう」


決定と共に 5騎は一斉に前進した。するする引いていく魔瘴を追いかけるのは竜のスピードでも難しい。隊列を率いていたアトラトが後方のフランジに叫ぶ。

「先導しろ!お前のゼフォンが一番速い」

「りょーかいす」

ぐっと姿勢を低くしてフランジが前に出ると、騎竜のゼフォンが勢いよく駆け抜ける。遥か前方でチカチカ点滅する照明をほかの4騎が追った。東へ東へと先導され、以前ルクスを探しに来た時と状況が被る。もう少しでシエカート公爵領というところで 前方のフランジの照明が止まった。
5騎が合流して見渡してみると、地上で澱になった魔瘴の層が一所で渦を巻いているのが見える。

「これ以上は危険ですねぇ」

「噴出孔の集中地域です。ルクスの件で判ったことですが」

「ここに魔瘴が集まってんのそれ関係ってことある?」

「なんとも言えませんね」

3人のやり取りを聞きつつアトラトはジスが巨大竜を倒した時を思い出してみる。ジスの報告によると魔化した巨大竜を倒したあと、竜の心臓が結晶化してどこかに落ちているはずだ。

「あの辺りは巨大竜が暴れてた場所だな」

「そ……すね。あの辺っした。魔瘴渦の中心ぽくなってるすよ」

指された場所を一瞥し、アトラトは微笑んで振り返った。

「そうだね」

「うっわ! なんすか?」

アトラトの人好きのする笑顔は 付き合いの長いフランジとしてはただただ胡散臭い。

「デュラン、リッタとシーグル、よろしく頼んだ。様子見てくる」

「……わかりました。くれぐれも、気を付けて」

「俺も行かなきゃダメすかねー!?」

「フランジ君は道連れだ!行くぞ」

「俺また留守番かよー」

「大人しくしててくださぁい」

二人は魔瘴の渦へ向かって竜の手綱を取った。上空から遠目に見た印象と違って魔瘴の層は薄く 普通の防御壁で事足りる。幾層も突き抜けて中心へ近づくにつれ異様な雰囲気が周囲を満たしている。速度を落として木々の間をゆっくりと飛行すると、何かが擦れ合うような不快な音――まるで虫の大群が這い回るような音が聞こえる。

「何の音すかね?」

瘴気の靄の向こうにうっすらと姿を現したのは黒くて丸い巨大な塊だ。慎重に近付きながら目を凝らして様子を伺う。丸い塊から生えた無数の細い触手が蠢きぶつかり合って音を出しているようだ。

(触手じゃないな)

巨大な塊の周りを守るように渦巻いている厚い魔瘴の切れ目からその姿がはっきりと見えた。

「……人の腕がいっぱい生えてる」

「ぎぇええええなんすかあれはぁ!!俺戻る!戻ります!!」

「見ちゃった以上は調査しないと。そこに居たいなら居てもいいけど」

「行くすよ!置いていかないで!」

速度を上げたアトラトをフランジが半泣きで追いかけた。


――― グルルルルゥゥ……

「「えっ」」

黒い球状の塊は接近した二人に気が付いたのか、びっしり生えた腕の奥から6つの眼をギラリと見開いた。と同時に地面すれすれのおそらく腹に近い部分が大きな口を開いたようにガパリと裂けて、思いっきり魔瘴を吸い込み始めた。周囲の岩も木も地面からもぎ取っていくその勢いは凄まじい。

「生き物なのか!」

「絶対こいつが魔瘴を吸い上げたんすよ!ルーンシェッド大森林の魔瘴ぜんぶ!」

必死に障壁を張りながら耐えた二人が顔を上げると球状の塊に更に異変が起きている。ぶるぶる震え激しく痙攣したかと思うと、ボコボコと身体のあちこちを膨らませて苦悶の悲鳴を上げた。


――― キィィエエエエエエエ!!!!


「ぎぃぃえええええええええ!!!!!」

「フランジ君うるさいよ」

謎の生物の歪な身体から太い足が8本、ずるりと生えてきたのだ。その足元には青白い光が灯っている。

(なんだ?)

目を細めてよく見ればそれは魔術式のように見える。複雑に描かれた術式がボッと青黒く燃え上がり、おどろおどろしい力を纏って二人へ襲い掛かった。

「あ……呪い! 不死者か!」

―― ジュワッ

アトラトが咄嗟に展開した防御壁が呪いの力を相殺する。青黒い呪いが障壁にぶつかると 空中に魔力で描かれた魔術式が黒く染まり、終いにはどろりと溶けてぐずぐずと崩れ落ちた。

「ぅらッ! 食らえ!!」

閃光を放って不死者へと放たれたフランジの魔法は、ボッボッと鈍い音を立てながら青黒い呪いの術式に吸い込まれていく。まるで魔瘴に汚染されたように黒くなって溶けて消えた。

「……呪いてなんかこう、独特すね」

「まともに相手するな、無駄だ。報告に戻るぞ」

「りょーかいす」

出来るだけ距離をとっていた二人が踵を返して本格的に撤退しようとしたとき異変は起きた。

―― キィィィン……

広範囲に広がった術式は不死者が描いた魔術式だ。

「魔法!?」

驚く二人を範囲内に捉え、光を帯びて展開したのだ。

「ッ、間に合わない!」

「先輩!!」

足の速いゼフォンはギリギリ射程距離外へ退避できるがベルタはそうはいかない。

―― カッ!

辺り一面が真っ白に塗り潰される。アトラトが攻撃に備えて展開できたのは中級の初歩障壁だけだ。

(持つか!?)

持つわけがないので同時にもう一つ更に簡単な障壁を展開させる。これを繰り返してだましだまし凌ぎ、悪くても重症で済ませる作戦だ。

―― ギュオオオオオ!!

ゼフォンの低音が空気を振るわせアトラトの頭上を強烈な熱量が駆け抜けた。竜のブレスが謎の生物の魔法を一直線に切り裂いたのだ。
アトラトは もうもうと立ち籠める粉塵から脱出して冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「えらい目に遭った! ありがとうなゼフォン」

咳き込みながら労って二騎並んで引き返す。フランジは よほど早く立ち去りたいのかアトラトの少し前を飛んで速度を上げるよう催促している。

「呪い使って魔法使うとか意味わかんないすよ!」

「つまり不死者ではないが……。 ……案外ヒトだったりして」

「冗談っしょ!!」

実際とても頭の痛い問題だ。報告書にまとめることを考えると気が重くなってくる。ため息を漏らしながらちらりと振り返って、アトラトの目に入ったのは蠢く黒い塊だ。

「フランジ!」

「はい?」

後方から明確な敵意を持って伸びてきた触手は魔瘴そのもののように禍々しい力を纏っている。剣を抜いて叩きつけるように払いのけても二本三本と追ってくる。元を辿り見ると先ほどよりも膨張した黒い塊が目を爛々と光らせ、8本の足を蠢かして物凄いスピードで移動している。

「振り返らず行け!!」

―― グガァアアアア!!!

勢いよく空中に飛び上がった黒い塊が二人に掴みかかろうと、長い触手のようになった腕を伸ばして蠢く。

「うぇええええええ!!!」

猛スピードでゼフォンを駆るフランジに絡みつこうとする腕を片っ端から薙ぎ払い、その度に刃が黒く染まる。アトラトの剣は錆びついて折れてしまった。

(何なんだこの生物は、本当に魔瘴みたいだ。魔瘴の塊みたいなこの……)

カッと周囲を照らしてアトラトの魔法が展開した。触手を叩き落としても無駄なので大元の黒い塊に魔法を放ったのだ。少しでも足止めできればいいという思惑だったが、謎の生物は大きな口をガパリと開いてアトラトの放った魔法を飲み込んでしまった。

「魔法もダメだ!」

あとはもうひたすら逃げるしかない。ベルタの首を下げさせて更に速度を上げて進む。
星明かりの薄蒼い空の中、ふと影が差した。アトラトは必死に手綱をとって背後に迫った不気味な生物の気配を探る。

(来る)

―― ヒュオッ

細い音が鋭くしなるのを耳で捉えて避ける。直撃は防げたが、ベルタの翼をわずかに掠めた。

―― キュアアア!

「ベルタ!」

アトラトを放り出すまいと無理に羽ばたこうとするベルタから飛び降り 風の魔術式を展開させてベルタをゆっくりと落下させる。ほんの少し掠っただけでベルタの翼の半分が焼け焦げたように汚染されている。ベルタを優先して自分のことが疎かになったアトラトの落下速度は少しゆるやかになった程度だ。

(俺は骨折で済ます……!)

「アトラト先輩!!」

再び地を蹴った不気味な生物は二人を跳び越え 森の木を枯らしながらデュラン達のいる方角へ走り去った。アトラトは、先を行っていたフランジがゼフォンの首先をこちらへ向けようとしたのを片手を振って制止する。

「行け!!追いかけろ!!」

言い終わらないうちに魔瘴の厚い層があっという間に広がって二人を隔ててしまった。









姿を露わにしたルーンシェッド大森林を足元に、デュランとリッタとシーグルはアトラト達の向かった方を無言で眺めている。冷たい空気がチリチリと肺を焼く。大森林は不自然なほど静かだ。

「……あれ」

シーグルがどこか一点を凝視している。

「何か変じゃね?」

言われて二人も見てみるが何もわからない。

「変、ですかねぇ?デュランわかる?」

「……タリヤに異変はないようですが」

「ゾワゾワしない? な、」

デュランとリッタが反応するよりも早く、見知らぬ魔術式が突然描かれた。一瞬で展開したその魔法は 3人を檻に閉じ込めるように取り囲んで強烈な質量の熱で炙る――はずだった。

「ほら来たァ……!」

シーグルの魔力を纏った大ぶりの剣が急襲した魔術式に突き刺さって展開を阻んでいる。

「ッらああぁぁぁ!!」

叫びながら更に魔力を注ぎ込んで空中に描かれた魔術式をなぞる。魔力量にものを言わせての上書きに耐え切れず 魔術式は爆発とともに霧散した。

「なんで爆発させるんですか!?」

「どーよ?ジスの脳筋魔法」

「どう見てもシーグルの脳筋バカ魔法ですぅ!」

爆発に巻き込まれるのをどうにか防いだ二人からは非難轟々だ。そんなもの耳に入ってもない様子でシーグルは次々に魔術式を描く。

「ツラ見せろよ、なあ!!」

一瞬ぱっと明るくなって魔術式が一斉に展開した。

―― ド、ドオォォォン!! 

強烈な衝撃波が円状に広がっていく。

「だからなんでこっちまで爆発させるんですか!!」

「ほんっとうにいつもぉ……酷いです!」

木々の天辺を削ぎ落して爆風が跡を残している。随分すっきりした森の上で三人は 巨大な黒い塊が魔瘴を纏って蠢くのを認めた。ヂリヂリと大群の蟲が這うような音をさせる、歪で邪悪な生物のような何かだ。

「やべーもん出てきた」

「……ツラ、見たくなかったかもでぇす」

「ですが、やるしかないでしょう」

臨戦態勢で対峙する三騎に禍々しい触手が伸びる。

「これ触っちゃダメなやつ……!」

「蹴散らしてやりますねぇ!」

鋭い音と共に触手が切り離されて落ちていく。人の腕のような触手は落ちた場所をじゅわりと黒く焼き焦がし、何度斬り落としても再生するのでリッタは触手の相手で手いっぱいだ。
黒い塊の周りに淡い光を纏った小さな魔術式がいくつも描かれた。

「千切れろ!」

デュランの魔法が破裂音を響かせて炸裂する。絶え間なく続く爆発に、黒い塊はぐっと身を縮こませて怯んだかに見えたが、大きな口をガパリと開けて魔術式ごと魔法を飲み込んでしまった。

「魔法を喰った!?んですかね、あれ」

黒い塊がぶるぶると震えながら一回り大きくなったように見える。

「物理ならどうよ!?」

「障壁を3層掛けます!」

障壁を纏ったシーグルが勢いをつけて黒い塊に突撃する。向かってくる触手を魔法で引きちぎり、魔力を纏わせた大振りの剣を6つある目のひとつへと突き刺した。

「おらあぁぁ!!」

そのまま横に切り裂くと、あっけないほど簡単に傷をつけることができた――のだが。

「!?」

ブシュッと黒い靄が噴き出した。咄嗟に距離をとったものの、噴出した靄は止まることなくシーグルの障壁を破り、次第にどろりとした液体に変容していく。その液体はまるで意志を持つかのようにシーグルへ絡みつこうと蠢く。

「うお!」

―― キュオオオオ!!

四方から絡みつく黒い液体をシーグルの竜――ラッツェがブレスで一掃した。けれどとめどなく溢れ出る黒い液体と次々と再生する触手の群れは せっかく懐に入り込んだ獲物を逃すまいとシーグルへ執拗に絡みつこうと藻掻いている。抜け出す隙を作るためにデュランが攻撃魔法を放っても黒い塊の大きな口で吸い込まれてしまう。

「ぐっ!」

どす黒い触手がシーグルの頬を掠めた。

「苦情は受け付けません!」

閃光と共に展開されたデュランの魔法が爆風を起こしてシーグルを吹き飛ばし強制的に離脱させる。ようやく距離をとれたラッツェがよろけながらも体勢を持ち直し猛スピードで後退した。

「シーグル!」

すれ違いざまに見たシーグルは高濃度の魔瘴汚染に罹ったような状態だ。リッタがそれを追って後退したのでデュランが殿を務めなければならない。
デュランはタリヤの手綱を握りしめ、ひりつく空気を感じながら対峙した。

―― 触れると汚染、魔法は喰われる、触手は際限なく再生、斬れば更に厄介。

(帰還できてもこいつまで連れ帰ったら甚大な被害が出る、でしょう)

とにかく一番重要なのはこれだ。

(追わせない)

シーグル達を先に帰らせ、この厄災を撒いて大森林のどこかに置いていかなくては。

「時間稼ぎしかできねえですが!!」

むしろできれば上出来だと主張したいところだ。腹をくくって魔術式を描き、砦と反対方向へ手綱を取る。

「来い!」

派手な魔法で気を引きながら竜騎士の正規哨戒ルートと全く関係のない区域へ誘導する。気が逸れないよう偶にわざと接近しては離れ、かなりギリギリの駆け引きをしながら連れていく。絡みつこうとする触手のような腕を斬り払い、何度も障壁をかけ直してタリヤを守った。ほんの少し掠るだけでも命の危機に陥るだろうことは先ほどのシーグルの様子で理解せざるを得なかった。
デュランの後方で魔法とは異質な力が動くのを感じた。

「……? 何が……」

―― グオオオオォォォォ!!

黒い塊が青白く光ったかと思うと、空中に青黒く焼け焦げたような術式が刻まれた。術式の中心は黒い沼のようになっており、その波打つ中心から禍々しい力が放たれる。

「くっ!」

異質な力を持ったそれは、デュランが咄嗟に展開した障壁をどろりと溶かし、新たに描いた魔術式に絡みついて術式自体を崩壊させた。

「何ですか、これは!?」

不気味な力に動揺し 反応が遅れたデュランの前によく知った魔法が展開する。

「デュランそいつ呪い!!使う!!!」

黒い塊の呪いを受けたフランジの障壁がじゅわっと蒸発して消えた。デュランはタリヤを後退させて間合いのギリギリまで距離を取って様子を伺う。合流したフランジにほっとしつつもアトラトがいないことが気にかかった。

「呪い?でも不死者とは……」

「何れにせよまともにやり合うとアウトなやつだし。逃げるしかないんすわ」

「アトラトは?」

「ベルタが飛べなくて。今なら転移機も動くから最悪それでどうにかできるんじゃないすかね」

「……そうですね」

フランジに頷いて撤退の算段をつけ、二人はじりじりと距離を広げていく。黒い塊は目を爛々と輝かせたまま微動だにせず触手のような腕だけが蠢いている。
ボッ、ボッ、と青い炎が四方八方に灯った。見上げると頭上には何かの術式が描かれ、禍々しい力を増して青黒く焼け焦げた。

「! いつの間に!」

広範囲の射程距離は二人をしっかりと中心に捕えている。

「フランジ、ゼフォンは……!」

「無ー理ー!」

二人とも出来る限りの障壁を展開させたが呪いの威力は凄まじい。なによりこの呪いは魔術式を描く時点で術式を崩壊させるのだ。タリヤのブレスを頼るにも溜め時間が必要だった。

―― グァアアアアアアッ!!!

デュランの横側から熱の塊が通り抜け、展開したばかりの呪いを術式ごと蹴散らしていった。見知らぬ竜のブレスが作った退路に猛然と進んで脱出した二人が見たのは。

「ジスせんぱい……」

竜騎士の装備よりも軽装で、野良みたいな竜に乗ったジスが片手を振っている。

「よぅデュラン! あ、フランジいたの」

「ついででもあっざーす!」

よほど気性の荒い竜なのか、先ほどのブレスは呪いを蹴散らすだけでなく黒い化物まで遠くへと押しやったようだった。見回しても索敵しても あのおぞましい気配がしない。
ひとしきり確認したデュランは 当然のように隣に並んだジスに若干の腹立たしさを覚えつつ、心から安堵して、またそれに苛つきながらとげとげしく礼を言った。

「どうも、助かりました。ひと月ものびのびと過ごさせてもらいましたよ! その竜誰ですか」

「俺も気になってたんだけどよ」

ジスは目を細めて遠くを見ながら指さした。指すままに二人が顔を向けると、その遠く先には何やら巨大な黒い影があった。身構えてよく目を凝らすとその黒い影は二つあり、片方はあの厄災級の化物で、もう一つは翼があって長い尾があるどこか馴染み深いシルエットだがサイズ感がおかしい……つまり巨大な竜だった。


―― オオオオ”オ”オ”オ”!!!


咆哮がジス達のところまで空気を震わせる。次の瞬間、巨大竜が厄災を飲み込んだ。

「あの竜、誰?」

「……知るわけがないですね」

巨大竜は酷く苦しそうに胸を掻きむしっている。しばらくすると、そこから少し離れた場所――以前ジスが古代竜を倒した辺りから魔術式が展開されたようだった。

「あっ! アトラト先輩を置いて来た辺り!」

その魔法は幾重にもなって展開し、膨大な魔力が大森林を覆って真っ白に輝かせた。

「2頭目の古代竜……どこから来たんだろうな?」

ジスはその魔法の出どころに目を向けたまま呟くと、竜の手綱を取って飛び立った。

「ジス、どこへ……!」

「俺は休暇中なんでな!」

あっという間に見えなくなったジスを二人は呆然と見送った。

「どこのバカがルーンシェッド大森林でバカンスするんだっつー話ですが!」

「俺達の二つ上の奴らはどいつもこいつもアタマおかしいんで。諦め大事すね」


―― オ”ア”アアアアア!!!


まるで断末魔のような声だった。
竜の巨体がゆっくりと傾き 白く輝く魔法の中心へと沈んでいく。

ドォォォン……

身体から魔瘴を噴き出しながら、巨大竜は地響きを起こして倒れ伏した。



「デュラン!!」

通信機から聞こえたリッタの呼び声で我に返った二人は急いで引き返した。
合図で展開したリッタの魔法を確認して下降し駆け寄ってみると、ぐったりと横になったシーグルの顔半分から右肩までが黒く汚染されている。あっという間に広がった汚染をどうすることもできず、転移機で帰還しても処置できない状態だったのでひたすら治癒魔法を掛け続けていたらしい。泣きそうになるのをこらえて必死で処置をしていたところ、突然回復し始めたのだ。

「汚染が引いていってるですぅ」

リッタが困惑しながら続けた。

「この魔法?が展開してからぁ……少しずつ良くなって」

3人は無言で見つめた。確かに少しずつ症状が軽くなっていくのを見ながら、この清浄な美しい魔法に縋る思いで仲間の無事を祈っていた。




********




(――え????)

空中に放り出されたアトラトが見たものは金色の光の粒に纏わりつかれた人間だ。落ちながら凝視しているとその人物が振り返ってこちらを見たので ばっちり目が合ってしまった。金色にふち取られた印象的な新緑の瞳が黄金色に輝くと同時に、魔術式がアトラトを包み込んでふわりと着地させた。精緻な魔法を平気で使うその不審人物は数歩進んで立ち止まって腕を組み、何かを思い出すように考え込んだ。

「竜騎士……」

手袋越しでもわかるすらりとした指を口元に添える所作に一瞬目を奪われる。

(絶対これだ。ジスの機嫌が悪くなかった理由)

きらきら輝く白金の髪、白いおもて、華奢すぎず筋肉質すぎないしなやかな身体は硬質な輪郭と絶妙なバランスで調和し、美しさを描き出している。

(たしかに美人だ。美形だ……男だけど)

ルーンシェッド大森林のど真ん中に信じられないほど軽装で現れた青年がアトラトに視線を向けた。真っ直ぐに見られるとドキリとしてしまう。

「君達はアレを回収しに来たんだろ?見つけたら保管すると言ったんだが 残念ながら無理そうだ」

アレとは何だと思いつつ、青年が示した先には黒く染まった大きな結晶があった。触れてはいけないとわかる危険物がそこにある。

「それはジスに?」

「黒髪黒目の竜騎士だ」

「じゃあジスだ。黒髪黒目の竜騎士はルルカ砦のジスしかいない」

「そう……たぶんジスだ。たしかそんな名前だった……。……?」

「ジスとはどういう…… 知り合い?」

「ジスとは……」

青年は口元に手をやって考え込み、慎重に記憶を拾い上げるように重苦しく口を開いた。

「近いうちにもう一度……戦う」

「どういう関係なんだ」

―― キュアア!キュウウウ!

「ベルタ!」

甲高い鳴き声にハッとして振り向くと 片翼を黒く汚染されたベルタが よたよた歩いている。まだ飛べると言うように翼をばたつかせる姿が痛々しく、駆け寄ったアトラトは正面からベルタの首に取りすがって懇願する。

「無理するなよ、頼む……」

つい先ほどまで翼の半分だった汚染が急速に広がり続けている。気休めとは思いつつ治癒魔法を何度も掛けるがさほど効果はない。処分という最悪の二文字がアトラトの頭を過った。

「ちっくしょう!」

「竜と竜騎士ってのは特別な絆があるものなのか?」

「そんなもの、あってもなくてもベルタを失いたくない。当然だろ!」

八つ当たりだと分かっていても声を荒げてしまう。ばつが悪くなって顔を上げると青年はベルタの翼と背中一面、尾まで広がった汚染を注意深く観察している。

「触れてもいいか?」

「汚染に触れるのは危ない」

「うん……こういう場面にはあんまり出くわしたくなかったんだが」

まるで手遅れのような言い方にカッとなりそうなのを抑えて――実際ほぼ手遅れかもしれないのだが、言葉を飲み込んだ。睨みつけるつもりで見れば 離れていた精霊が青年の周りにポツリポツリと集まってアトラトの気勢を削ぐ。手袋をはずして露になったすらりとした白い指が何の躊躇もなく汚染に触れ、青年はひとりごちた。

「よくわからないが……前より出来る気がする」


青年の魔力が動く気配を感じてアトラトは身体をこわばらせた。本当なら勝手に騎竜に何かされるなんてあってはならないことなのだ。けれど不思議と不快ではなく、ベルタも安心させるようにアトラトに首を擦り付けている。
真っ白い光が周囲を包み、青年の指先から魔術式が広がっていく。魔術式は何重にもなっていて幾つも幾つも展開し続け、辺り一面が温かい魔力に満たされた。

(なん、だ、これ)


目を閉じていたのはどのくらいの間だったのかわからない。
翼がはためく音がしたと思った瞬間、アトラトの身体がひょいと持ち上げられてポイと鞍へ投げられた。翼を見ると まるで嘘みたいにベルタの汚染が消えている。

「え? ベルタ…… 待て!」

―― キュウウウウウ!!

制止もむなしく勢いよく飛び立つベルタの首を叩く。あの青年が展開した魔術式は未だに広がり続けているらしく、ルーンシェッド大森林は真っ白に光り輝いて何も見えない。

「わけがわからないが礼くらい……」

―― オ”ア”アアアアア!!!

「なんだ!?」

突然の咆哮に驚くアトラトの横を巨大な黒い影が掠める。次の瞬間、強風がベルタの翼を押しやって、地面を震わせて何かが倒れたようだった。

「今度は何が起きてるんだ!」

周囲が何もわからない今は進路をベルタに任せきりだ。アトラトは視覚以外の感覚を研ぎ澄ませ 前方から近付いてくる翼の音を捉えた。わざわざこちらに寄ってくる気配に警戒しつつも それはよく知ったものの気がした。目視できる距離まで接近したアトラトは、意味不明の事態続きに燻っていた憤りが呆れを通り越し、2週目の怒りへ到達した。


「そこの様子見てくるぜ、たぶん俺の知ってるやつだ」

「ジス!!!てめーは後で尋問だ!!!!」


すれ違いざまに叫んだアトラトに片手を上げて応えたジスは、展開し続けている魔術式の大元へ向かって降りていった。




ゆっくりと翼を畳んで着地し竜から飛び降りたジスは、ローブを着たあの魔術師がいると思っていたのだが、そこにいた人物はローブを纏っていなかったし、なんならちょっと見ないくらいの美しい青年だった。けれどじっとよく見てみると一度だけ見たことのある素顔の面影がある。と言っても、そこまで観察しなくてもジスは彼があの魔術師だと確信して呼びかけた。

「魔術師殿!!」

「……?」

ジスの呼びかけに青年は不思議そうな視線をちらりとよこしただけだ。その素っ気なさに違和感を感じながら素早く距離を詰めた。彼は目の前に横たわる古代竜を撫で、竜は息を引き取る間際のようだった。ふと視線をずらすと黒く汚染された結晶がある。以前ジスが倒した竜の遺した結晶が変質したのか、禍々しいオーラを放つ酷い危険物になっていた。

「それ、前の古代竜の心臓だよな?」

「ここで眠ってた古代竜はノランデーヴァの竜騎士が倒したんだ。その結晶は、たしか……誰かに……」

問いかけに顔を向けることもなく、青年はあやふやな記憶を掴むように言った。

「魔術師殿」

ジスは青年の両肩を掴んで振り向かせた。こちらを見る瞳はびっくりするほど綺麗で、まるで幻を見ているような錯覚を起こさせる。

「何をしたんだ?」

「君は竜騎士だよな」

金環に嵌った新緑の瞳が初めて会ったような余所余所しさでジスを見た。

「ああ」

「あの結晶を竜騎士に渡す約束をしていたはずなんだ。けどさっき、使しまった。すまない」

「べつに構わねえぜ。たぶん、俺達もあんたにはたくさん借りがあるはずだ……で、使ったってのは?」

「俺もよくわからないが」

青年はジスの手をやんわり払いのけ、古代竜に向き直って撫でる手にぐっと力を入れた。

「古代竜が飲み込んだ魔瘴の発生源は、あの結晶に吸い込まれたようだ」

そう言った青年の魔力が動く気配がする。横たわる古代竜の静かな呼吸に合わせて青年の魔力がとくとくと巡っていく。肉の大部分を失い、魔瘴に汚染された竜の身体が本来の姿を取り戻していく。それと同時に、青年の指先はひび割れたような亀裂が走り、顔色は青白く、唇は萎み、ジスが以前見た姿へ近づいた。

「おい!」

ジスは思わず青年の腕を掴んで強引に引っ張った。ポツリポツリと、どこからともなく現れた精霊が二人の周りをふよふよと漂う。

「それ、大丈夫じゃないだろうが!」

「……? 直ちに死ぬわけじゃない」

「……!」

言葉を失ったジスを青年は不思議そうに見上げた。
見つめ合った二人にすっと影が差し、古代竜の長い首が二人を跨いで危険物となった結晶をひょいと咥えた。青年は掴まれた腕を割と強引に振り払ってさりげなくジスから距離を取り、よろよろと巨体を起こした竜へ数歩寄って困ったように微笑んだ。

「もういいのか。俺は君を助けられなかったかな」

―― オオオオオオオ!!

翼を揺らす重たい音とともに古代竜は飛び立った。濃い魔瘴の渦があとに残され、その周りに精霊が次々と集まってくる。

「魔術師殿」

ジスは自分でも驚くほど固い声が出たことに動揺しながら、言葉を止めることができなかった。








魔術師殿、と呼ばれ、おそらく自分のことだろうと見当はついていたのだが、なぜその竜騎士に責めるような目で見られなければならないのかシルガは理解できないでいた。彼が時折、まるで親しいものに向けるような目でシルガを見ることも意味がわからない。

「以前世話になったとき……ルクスとエルメが無事だったのは、あんたが何かしたんだろうとは思っていた」

「……?」

しかも全く理解できない話をしている。シルガはルクスとエルメなんて人物に心当たりはない。そんなことより精霊との契約を果たさなければならないのだが、精霊がシルガに求めるものが何なのかまだ不明だ。

「死にかけの怪我人と魔化しかけの銀色の竜だ」

そんなことがあっただろうか。たしかになんか精霊にお願いされたような気はするが、シルガにとってはどうでもいいことの一つだ。

「それは本当に感謝してる。けど俺は何も知らなかった、あんたが払った犠牲とか、そういう…… クソッ」

何やら酷く葛藤しているらしいがわけがわからなかった。ただ、必死に言い募る竜騎士の黒い瞳と黒い髪になんとなく既視感を感じてシルガは記憶を探った。何か大切なことを忘れている気がしたのだ。

「……そういえば言伝を預かっていたんだった」

「ことづて?」

「コダイサマのことは残念だったけど、感謝してるって」

「誰が?」

「コダイサマと同郷の……いや、うーん。コダイサマとは面識のない知り合いがそう伝えてくれと言っていた」

「何言ってるかわかんねえ」

シルガの背後でじわじわと魔瘴の渦が広がっている。その周りを漂っていた精霊が一斉にシルガに纏わりついた。


――― シルガ、こっち、きて


「うん?ああ。わかった」

精霊は明らかに危険だとわかる魔瘴の渦の中へと呼んでいる。それに躊躇することもなく、するりと踵を返して入っていくシルガをジスは声を張り上げて呼び止めた。

「魔術師殿!」

肩でも腕でも掴んで引き留めようと伸ばすジスの手は空を切るばかりだ。前へ進もうとしても見えない壁に阻まれて近づくことができない。何度呼んでも一顧だにしないシルガに、ふと過った名を呼ぶ。

「ピホポグラッチウォーリア2世!!!」

ジスの呼んだ名に動きを止めてシルガはゆっくり振り向いた。金色にふち取られた新緑の瞳が真っ直ぐにジスを見る。

「ピホ……?」

首を少し傾けて不思議そうにそう言って、

「あはは、何だソレ」

まるで初めて聞いたみたいに、思わずといった感じで無邪気に笑ったのだ。

「……」

ジスは呆然とシルガを見つめた。


――― シルガ、こっち


どこからともなく現れる光の粒は膨大な数だ。それがシルガに纏わりついて魔瘴の渦へと招く。


――― たすけて

――― なかまたすけて

――― シルガ


「ああうん、行くよ」


――― けいやく、シルガ


「魔術師殿!!!」


――― シルガ、こっちだよ

――― おねがい


魔瘴の渦へ入ったシルガはどんどん霞んで遠のいていく。


――― シルガ



「魔術師殿!!!!!」



――― シルガ……





掴もうと伸ばした腕は何も掴めないまま、シルガは魔瘴の渦ごと消え去った。ジスはそこにあったはずのものをぼんやりと見ながら今起きたばかりの出来事を反芻した。

精霊の呼ぶ声には慈しむような眼差しを与え、微笑みながら応えているのに、ジスがどれほど声を張り上げ呼び止めても視線すら向けることはなかった。彼の世界には精霊だけがいて、彼を繋ぐものは何もなく、彼は果てしなく自由な存在に見えた。まるで絵画のようだったあの世界に割って入れる者は誰もいない。
ジスは自分でも無意識に言葉がこぼれた。

「……この悔しさは何なんだ」


押し寄せてくる空虚さがどこから来るのかわからない。虚脱感でふらつきそうになっていると、突然地面が揺れて盛大にふらついた。無様に転ぶのは防いだが変なバランスで身体を支えてしまった。

「チッ、しかりしろ!」

バチンと両頬を叩いて竜に飛び乗り浮上する。

「何が起きてんだ?」

ゴゴゴゴ……

岩が削れるような音だ。薄明るくなり始めた空の東で異変が起きている。



シエカート公爵領とノランデーヴァの境界に――ちょうどシルガの住処がある辺りだとジスだけが知っていたのだが、空を突き刺すように岩が隆起したのだ。岩の尖塔の先には 厳めしい城がどっしりと腰を下ろし、そしてその城を囲う黒い靄はどう見ても魔瘴で、更に悪いことに……ほとんど消えていたルーンシェッド大森林の魔瘴が満ち潮のようにあふれ始めたのだ。









********



暗い森の中をシルガはひとり歩いていた。何故ひとりで歩いているのか全く意味が解らなかったがとにかく行かなければならないことは理解していた。木々が大きく揺れ動き、相当な風が吹いているだろうに しんと静まりかえっている。

(薬草を採りに来たんだっけ?あの人に採って来るよう言われただろうか)

生き物の気配がする。なのに自分だけが別次元にいるようだ。
首を傾げながら歩き続けると、人影が遠く見える。じっと目を凝らしていると黒っぽいこげ茶の瞳と目が合った。
驚愕に目を見開いた青年はあの世界のあの国でどこにでもいそうな普通の青年だ。


―― あ、俺……


魂がそう理解した瞬間、ゴウッと風が吹き抜けた。
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