悪魔を惑わす喪女の甘言

南野うり

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 寒さが厳しくなってきた冬の夜、ストーブの側でお気に入りのロッキングチェアに腰掛け、妻お手製の膝掛けを掛けて、ルイは緩やかに揺られている。
 彼の右手を優しく包み込む両手は、細く、皺だらけで、温かい。
 今日まで二人は、笑い合い時にぶつかりながら、種族の違いを乗り越えて愛を育て、慌ただしくも幸せな日々を過ごして来た。二男一女の三人の子宝にも恵まれ、昨年は三人目の孫も誕生した。
 あの時交わした契約の時まで、後十年。だが、ルイにはもう、妻との別れが近い事が分かっていた。この所酷く眠く、目を閉じて過ごす日が増えて来たからだ。もう角を隠す力さえ残っていない。

「……そろそろだと思う」

 彼がゆったりと呟くと、妻の紬は穏やかに微笑んだ。

「そう……やけに気が早いのねぇ。約束は、まだ後十年も残っているのに……」
「そうだったか? ……お前との日々が楽しくて、月日を数えるのを忘れていた」

 ルイはクスクスと小さく笑う。彼はこの五十年で、とてもよく笑うようになった。

「……最後の晩餐はいかが? 私を食べる約束でしょう?」

 紬が静かに問うと、自分の手を包む彼女の小さな手を、ルイは左手を重ねて握る。そんな妻に穏やかな視線を向けたルイは、ゆっくりと首を横に振った。

「だって、約束でしょう? …………私を、連れて行ってはくれないの? 私の魂は、もう美しくはなくなってしまった……?」

 涙を滲ませる妻を、ルイは優しい眼差しで見詰めていた。

「いいや? お前の魂は、今まで見た誰よりも、強く美しいよ。以前も今も、ずっと変わらず、綺麗なままだ……だからこそ、あの初めの時も、我に惑わされる事が無かったのだろう」
「だったらっ……私を、食べてよ……」

 紬の瞳から、ボロリと大粒の涙が零れ落ちる。彼女の皺だらけの手を撫で、ルイは本心を口にした。

「もう、充分に食べたよ……」

 ルイは本当にそう思っている。晴れやかに笑う彼の胸は、幸せで満たされているのだ。

「お前の、その美しい魂の輝きを、最後の瞬間まで、ずっと眺めていたいのだ……」

 うっとりと満足げな夫の顔に、紬は息を吐く。

「じゃあ、待っていて……迎えに来て? 私もきっと、そう遠くない内に逝くでしょうから」

 紬にとって、『死が二人を分かつまで』では足りないのだ。それはきっとルイも同じだと思うのは、彼女の自惚れでは無いだろう。それほどに、彼は紬を大切にしてくれた。

「……ああ、約束しよう。今は、死が二人を分かつとしても……必ずまた……」
「ええ、ええ……」

 夫の新たな誓いに、年老いた妻はぽろぽろと喜びの涙を流す。

「お前と過ごした時間は、ニ千年の中のほんの僅かな時間だが……我の長過ぎる生の中で、この五十年が、一番、幸福だった……」

 ルイが、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「こんなにも、誰かを愛しく思う感情を、体験出来るとは、思って、いなかった……お前は人間の身で我を愛し、可愛い子供達を与えてくれ、孫を抱く事も出来た……」

 走馬灯のように、これまでの温かな思い出の数々がルイの目の前に浮かんでは消える。同じように、紬の脳裏にもルイと過ごした日々が再生されていた。

 結婚してすぐに子供を授かり、二人で涙を流して喜んだ事。
 長男は角、次男は翼、末娘は尻尾を持って産まれ、お産に立ち会ったルイが慌てて周囲に幻術をかけて誤魔化した事。
 初めての人間の子育てに戸惑うルイを、紬が力強く叱咤した事。
 眠る子供達を起こさないようにドキドキしながら、こっそりと睦み合った事。
 末の娘が可愛くて可愛くて、ルイの人格が年々崩壊して行った事。
 溺愛する娘の結婚式が終わった夜、久しぶりにルイが紬を抱き潰し、年なんだから加減してと紬が怒った事。
 長男に子供が産まれ、初孫に大喜びした事。

 どれもこれも、幸せで幸せで幸せな、二人の大切な思い出だ。

「紬……我の愛しい人……ありがとう……何よりも、誰よりも……愛しているよ……」

 二人は確かにあった幸せな記憶に包まれながら、互いを愛しげに見詰め合う。

「私も……貴方を、愛してる……ずっと……」

 やがてルイは笑顔のまま、静かに目を閉じる。ただ眠りに落ちただけに見える夫の手を握り、紬がじっと見詰めていると、次第に彼の身体は黒い砂粒になり、サラサラと崩れて行く。
 やがて砂粒もふわりと空気に溶ける。紬の左手に輝く指輪だけを残し、ルイの身体は跡形も無く消え去った。



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