神楽囃子の夜

紫音

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第二章

神楽囃子

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 その日を境に、狭野はやはりあの河川敷には姿を見せなくなった。

 あるいは日没後の暗い時間帯に訪れているのかもしれなかったが、あれから門限を厳守するようになった霧島には確かめようのないことだった。

 狭野に会えなくなるのは寂しかったが、何よりも残念だったのは、彼に迷惑をかけてしまったことだった。
 一部の保護者に誤解を招くようなことをしてしまった上、彼のお気に入りの場所まで、彼から奪ってしまった。

 謝っても謝りきれない。
 これから先、彼の前で一体どんな顔をすればいいのかわからない。

 だから、彼が隣のクラスの担任だったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
 たまに廊下ですれ違うことはあっても、それ以上関わり合いになることはない。
 時折互いの視線が合うこともあるが、そのときはすぐにどちらともなく目を逸らす。

 微妙な距離感を保ったまま、季節は少しずつ夏へと近づいていた。
 ジメジメとした梅雨が明け、からりと晴れた空に入道雲が立ち上る。

 やがて夏休みが目前に迫ると、教室での話題は自然と祭りや花火大会のことが中心になっていった。

 その流れで、霧島はクラスメイトたちから地元の夏祭りに誘われたのだった。





       ◯





 二〇一九年、令和元年の夏祭り。

 今日だけは特別に門限を過ぎてもいいという許しを得た霧島は、久方ぶりに、日没後の河川敷を見下ろしていた。

 薄闇の中、川沿いには人工的な灯りが点々としている。
 多くの屋台が並び、祭りを楽しみにやってきた人々で賑わうその場所は、太陽の光を失った今も活気に満ち溢れていた。

「御琴ちゃーん。どうしたの? 置いてくよー!」

 土手の下からクラスメイトに呼ばれて、霧島は我に返った。

「はーい。いま行く!」

 返事をしながら、浴衣の裾が乱れないように歩幅を小さくして、ゆっくりと土手を降りていく。

「御琴ちゃん、その浴衣すっごく似合ってるね」
「ほんとだ。色合いがまさに霧島さんって感じ!」

 いつものメンバーと合流すると、口々にそう褒められた。

 近所のショッピングモールでたまたま見かけた、水色の浴衣。
 所々に花の模様があしらわれたそれは、霧島も一目惚れだった。

 屋台を見て回る間も、浴衣の話題は何度も思い出すようにして繰り返された。

 褒められる度に、どうせなら狭野にも見てもらいたかったな——なんて、つい虫のいいことを考えてしまう。
 けれど、今年はもうそんな機会はないだろうし、来年になったらこの浴衣も小さくなって着られないだろう。
 本当に残念だ、と一人肩を落としていると、

「それ、お店で買ったんだ? 御琴ちゃんのことだから、てっきり自分で縫ったのかと思った」

「確かに! 霧島さんなら浴衣も縫えちゃいそうだよね」

 そんな周りの声を耳にして、霧島はハッとした。

 そうだ。
 店に売っていないのなら、自分で手作りすればいい。

 この色合いの浴衣を着た自分の姿を、狭野にも見てもらいたかった。

 来年も、狭野と一緒に祭りを楽しめるとは限らないけれど。
 それでも、こちらから誘ってみる権利くらいはあるんじゃないかと、淡い期待が胸に芽生える。

「あっ。神楽囃子の音が聞こえる!」

 と、クラスメイトの一人が言って、その場の全員が耳を澄ませた。

 どこからか、笛の音が聞こえる。
 それから太鼓の音も。

「あの音って、『かぐらばやし』っていうの?」

 霧島が尋ねると、他のメンバーは不思議そうに、それぞれの顔を見合わせた。

「そっか。都会の子は、今どき神楽囃子なんて言葉知らないよね」

「えー? そうかなあ。たまたまじゃない?」

「まあ、お祭りのとき以外は日常で使わない言葉だもんね」

 どうやらこの地域では知っていて当たり前の単語らしい。

 霧島も、縁日などで笛や太鼓の音を耳にするイメージ自体はあったが、それが『かぐらばやし』と呼ばれるものだということは知らなかった。

「お囃子が聞こえるってことは、神楽が始まったんだね」

「早く見に行こうよ。今年もあの人が鬼の役をやるんだって!」

「『あの人』……?」

 何やら色めき立っている様子のクラスメイトたちに、霧島は首を傾げる。

「神楽を披露する神主さんがね、もうすんごいイケメンなの!」

「お面を被ってるから顔は見えないんだけどねー」

 きゃっきゃっと盛り上がる彼女たちの隣で、霧島はひとり、神楽囃子の聞こえる方を見つめた。

 土手の上方。
 河川敷から見上げた先にある、雑木林に囲まれた神社。
 その入り口に見える赤い鳥居の、その向こう側から音は聞こえてくる。

 あの夢に似た場所。
 それも、神楽囃子の音が聞こえるというシチュエーションまで同じだった。

 まさかとは思うが、あの鳥居を潜った先で、一人の男性が死んでいるのではないか——なんて、つい不吉なイメージを浮かべてしまう。

 と、そんな突拍子もないことを考えているうちに、霧島のすぐ横を、一組のカップルが通り過ぎていった。

 なんとなくそれが気になって、霧島は視線を向けた。

 瞬間。

 その目に飛び込んできた光景に、霧島は釘付けになった。

(え……?)

 まさかと思った。

 一瞬、見間違いかと思った。

 カップルの片割れ——見覚えのあるシャツとパンツに身を包んだ男性の方は、狭野だった。

 その隣を歩くのは、彼と同年代くらいの美しい女性。
 薄桃色の浴衣を着て、長いブラウンの髪を後頭部に纏めている。
 狭野と親しげに会話するその横顔は、霧島のクラスの担任教師——高原舞鼓だった。

「……せ……」

 先生、と呼び止めようとして、声が出なかった。
 予期せぬ出来事に、頭がついていかない。
 なぜ、この二人が一緒にいるのだろう?

 さらにそこへ追い討ちをかけるように、あの夢の光景がフラッシュバックする。

 暗い森の中で、全身から血を流して倒れている男性。
 いつもは地面に突っ伏しているその顔が、今はなぜかこちらを向いている。

 焦点の合わない目を薄く開いたまま、明らかに絶命しているその男の顔は、見間違えるはずがない。

 血塗れで死んでいるその男は、狭野だった。

「! ……いやああああああ!!」

 恐ろしい光景が脳裏に焼き付き、霧島は錯乱した。

 狭野が死んでいる。

 どうして。

 言葉にならない感情が喉を突き破るように、霧島は絶叫した。

「御琴ちゃん、どうしたの!?」
「しっかりして、霧島さん!」

 ざわざわと周りが騒がしくなっていく。

 その間も、神楽囃子の音は変わらず、優雅に和の旋律を奏で続けているのだった。
 
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