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第一章
宝物殿
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翌日の昼下がり。
白い入道雲が立ち上る青空の下、雑木林に囲まれた境内では蝉の合唱が響き渡っていた。
「オリンピックが延期になったなんて話、俺は聞いたことがないな」
いつもの袴姿で境内を歩きながら、祓川龍臣が言った。
その後ろを、狭野と高原がヒナ鳥のようについてくる。
「やっぱりそうよねぇ。私もネットで調べてみたけれど、延期になったなんて話は全然見つからなかったわ。やっぱり幽霊なんて本当はいなかったんじゃないの?」
「いや、延期と中止を勘違いしたのかも。もし中止のことだったら、過去に五回あったらしいよ。特に一九四〇年のときは、本当なら日本で開催される予定だったんだって」
「一九四〇年って、戦時中? ……もっと前かしら? そんな昔に、ベビーカステラの屋台なんてあるの? やっぱりちょっと無理があるような気がするわ」
あくまでも否定的な姿勢を譲らない高原の隣で、狭野はマイペースに「うーん」と唸っている。
「年代に関してはまだよくわからないけど……。とにかく、『キリシマミコト』っていう女の子の情報さえ見つかればそれでいいんだ。この街の歴史や、祭りのことを調べれば何か手掛かりが掴めるかもしれない」
狭野が言い終えると、祓川は一度足を止めて振り返った。
「歴史について調べるのは結構だが……。本来なら、うちの神社に残る資料を勝手に閲覧するのは禁じられているんだからな。この宝物殿も、ここ十数年ほどは一般公開されてない。今日はたまたま父が留守だから、特別、俺が内緒で案内してやっているんだ」
だから今日のことは絶対に他言するなよ、と釘を刺す祓川の後ろには、平屋建ての古い建造物がひっそりと木陰に立っていた。
入り口の表札に『宝物殿』と大きく書かれたこの建物には、この地域の歴史にまつわる貴重な資料が数多く納められている。
(ここへ勝手に人を入れたことが父に知れたら……おそらく只では済まないだろうな)
想像しただけで、祓川は身震いした。
厳格な父は不正を許さない。
万が一見つかったら、昨夜の神楽以上に痛い目に遭わされるかもしれない――そう思うと、未だに痺れの残る両肩がじんじんと疼く。
だが、他でもない高原の頼みとあれば仕方がない。
彼女は狭野の捜す幽霊の少女について、決定打のようなものが欲しいのだという。
すなわち、幽霊など存在しないという現実を突きつけるための証拠だ。
『キリシマミコト』という名の少女は、過去のどこにも存在しなかった――それを証明するためにも、この街の歴史に関する文献をできるだけ多く読み漁りたいのだという。
「いいか。中に置いてあるものには勝手に触るな。どうしても気になるものがあるときは俺に言え」
祓川は周囲に人がいないのを確認すると、施錠されていた扉を開け、素早く二人を招き入れた。
「わあ……。なんだか博物館みたいね」
建物の中へ足を踏み入れるなり、高原は物珍しそうに辺りを見回した。
壁際にずらりと並んだガラスケースの中には、刀剣類や絵巻物など、古い時代に使われていた品々が納められている。
どれも希少価値のありそうな物ばかりだったが、しかし建物の奥へ行けば行くほど、それらの保存状態は乱雑になっていく。
やがて突き当たりまで来る頃には、まるでレイアウトを変更する途中で投げ出してしまったかのように、ケースの内外を問わず、あちこちに物が散乱していた。
最奥にある棚の上には、ボロボロになった冊子が何重にも積み上げられている。
「昔はここも自由に拝観できるようになっていたらしいが、今はこの有り様だ。ほとんどガラクタの倉庫みたいなものだが、一応、ここにあるのは歴史的価値のあるものばかりだからな。くれぐれも勝手に手を触れるような真似は――」
言いながら、祓川が後ろを振り返ったその瞬間、その目に飛び込んできた光景にギョッとした。
狭野が、部屋の隅に置かれた棚へと手を伸ばしている。
「こっ、こら! 触るなと言っているだろう!」
びくり、と反射的に狭野は手を引っ込めたが、遅かったらしい。
彼の指先がわずかに触れた品が一つ、バランスを崩して棚の上から落下した。
ぱりんっ、と乾いた音が屋内に反響する。
「きゃっ! ちょっと笙悟、何やってんの!?」
「ご、ごめん祓川! つい……。ど、どうしよう」
珍しく動揺する狭野の隣で、祓川は足元で粉々になったそれを呆然と見つめていた。
落下したのは、手のひらサイズの円鏡だった。
かなり年季の入ったものだったが、割れた破片の一つ一つには今もしっかりと三人の顔が映し出されている。
この惨状を父が見たらどうなるだろう。
説教だけでは済むはずがない。
想像するだけで恐ろしい未来が待っている。
けれど、
「……ふっ……」
どうしようもない窮地に立たされたはずなのに。
なぜかその現状が、たまらなく面白いことのように祓川には思えた。
「ふはっ……あはははは!」
「た、龍臣……?」
堪えきれずに笑い声を上げた祓川に、高原は戸惑うような視線を向けた。
「ははっ……。君は本当に可笑しな奴だな、狭野。あれだけ忠告したのに、まさか鏡を割ってしまうなんてっ……くく」
笑いが止まらない。
面白くて仕方がない。
つい先程まで、祓川は息苦しいまでの緊張感を持っていた。
父に隠れて不正を働いている、その後ろめたさに目眩がしそうだった。
けれど、それが今はどうだ。
もう取り返しのつかないところまで来てしまえば、いっそ清々しいほどの開放感が全身を包む。
緊張の緩和、というのだろうか。
それはまるで、幼い頃にくだらないイタズラが成功したときのような、ささやかな喜びに似た、懐かしい感覚だった。
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