神楽囃子の夜

紫音

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第一章

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「……ちょっと、笙悟!」

 と、いきなり後ろから怒ったような声が届く。
 見ると、どこか居心地が悪そうに眉根を寄せた高原の顔がすぐそばにあった。

「あなた正気? 一人で何ぶつぶつ言ってるのよ。周りの人にめちゃくちゃ見られてるわよ……!」

 声量を抑えながら、彼女は必死に訴える。
 その様子から、やはり幽霊の姿は他の誰にも見えていないことが窺えた。

 そこへ突如、近くで歓声が上がった。

 釣られて目をやると、隣の屋台の前で、店番らしき中年の男性が大きく背を反らせてブリッジの真似事のようなものを披露しているのが見えた。
 体勢がつらいのか、全身をぷるぷると震わせながら、かすれた声で「イナバウアー」とのたまっている。
 それを周りの身内らしき人々が囃し立てていた。

「……呆れた。まだやってる人がいるのね。もう流行は終わった感じなのに」

 隣で同じように眺めていた高原が、冷めた声で言った。

「あれは、何をやってるの?」

 と、幽霊の少女が首を傾げた。

「イナバウアーのこと、知らないの? ほら、このあいだのオリンピックで――」

 狭野はそう言いかけてから、ハッと口を噤んだ。

 『イナバウアー』というのは、今年の初め頃に流行した言葉だ。

 今年――二〇〇六年、イタリアのトリノで行われた冬季オリンピックで、フィギュアスケートの日本人選手が金メダルを獲得した。
 その選手が披露した技が『イナバウアー』だ。
 上体を後ろへ大きく反らし、立ったままブリッジをするような体勢が話題となり、少し前まではテレビやラジオ、人々の会話などで耳にしない日はなかった。
 今やイナバウアーを知らない日本人などほとんどいないと言っていいだろう。

 けれど、この幽霊の少女は違う。
 彼女はすでに亡くなっているため、今年の流行など知るはずがない。
 一体いつごろ亡くなったのかは定かではないが、少なくとも去年の夏には幽霊となっていたのだから、おそらくはそれより前にどこかで命を落としたのだろう。

 狭野がどう説明したものかと口籠っているうちに、少女は不思議そうな顔をして再び口を開いた。

「このあいだのオリンピックって、延期になったでしょう? 今年もどうなるかはまだわからないけれど」

「……え?」

 彼女の発言に、狭野は面食らった。

 オリンピックが延期。
 そんな事例が過去にあったのだろうか。

 しかし考えてみれば、昔は世界規模の戦争などの理由で開催が難しい年もあったのかもしれない。
 だとすれば彼女は、それほど古い時代を生きていた人なのだろうか。

「……あの。カステラの列、並んでます? ちょっと邪魔なんですけど」

 不意に横から声を掛けられて、狭野は我に返った。

「あ、すみません」

「ほら、笙悟。もう行きましょうよ。恥ずかしいからっ……」

 反対側から、高原に腕を引っ張られる。

「あ、待ってよ。この子も一緒に……」

「そろそろ神楽も始まる時間よ。今年も龍臣が頑張ってるんだから、早く見に行かないと」

 そんな高原の言葉に、幽霊の少女が反応した。

「神楽を見に行くの?」

 どこか不安げなその声を聞いて、狭野はヒヤリとした。

 彼女は神楽を好まない。
 このまま神楽殿に向かうなら、彼女はおそらくついてこないだろう。

 その不安は的中し、少女はその場に留まって、離れていく狭野を見送ろうと小さく手を振る。

 去年と同じだった。

 また、彼女が消えてしまう。

「ま、待って。せめて、キミの名前を教えてよ!」

 高原を無理やり引き留め、狭野は幽霊の少女に向かって叫んだ。

「あら。人に名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るのがマナーよ」

 ふふっと悪戯っぽく笑いながら少女が言う。

「僕は、狭野笙悟!」

 なりふり構っている余裕もなく、間髪入れずに返した狭野の声に、少女は目を見開いた。

 少女の笑みが消える。

 まるで人形のように固まってしまったその表情に、狭野は妙な胸のざわめきを覚えた。

「もうっ。笙悟、いい加減にしてってば!」

 先ほどよりも強い力で高原に引っ張られ、狭野の身体がぐらつく。

 視界が揺れ、幽霊の少女の姿が見えなくなる、その刹那。

 彼女のささやくような声が、神楽囃子の音に紛れて、かすかに耳に届いた。

「私は……ミコト。キリシマミコトよ」
 
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