93 / 124
第六章 静岡県伊豆市
第一話 湯回廊菊屋
しおりを挟む緑豊かな日本庭園と、脇の池を泳ぐ錦鯉。その景色を閉じ込めるようにして、周りを取り囲むのはガラス戸の並ぶ回廊だった。
レトロ感の漂う木枠に嵌め込まれたガラスは明治・大正時代に造られたもので、この旅館がいかに老舗であるかを物語っている。
「はぁー。やっぱりええ宿やなぁ、湯回廊菊屋。盆休み前の出張なんて憂鬱やったけど、帰りにこっちまで足伸ばしたんは正解やったな」
うんうん、と満足げに頷くのは二十代後半の美丈夫だった。
落ち着いたチャコールグレーのスーツに、爽やかな印象のある短めの髪。精悍な顔つきに、どこか異国の血を思わせる色素の薄い瞳。すらりとした長身の佇まいは、周囲の宿泊客、特にマダム層の注目の的である。
「あら。素敵な殿方……」
「横顔も綺麗だわ。もしかして俳優さん?」
「スーツ姿が似合い過ぎ。写真を撮らせてほしいぐらい……」
ほう……と熱烈な視線を向けられるも、当の本人は特に気づいた様子もなく、旅館の内装に目を奪われている。
創業四百年を誇るそこはかつて明治の文豪・夏目漱石が訪れたことでも有名であり、本人が宿泊した客室は、当時の面影のまま現存している。
「ん」
と、不意にスーツの内ポケットでスマホが震えた。仕事の電話か? と男がすぐに取り出して見ると、画面には『璃子ちゃん』の文字が表示されていた。珍しいなと思いつつ、応答ボタンを押して耳元へ持っていく。
「もしもし、璃子ちゃんか?」
「ご無沙汰しております。兼嗣さま」
スピーカーの向こうから、まだ幼さの残る少女の声が届く。
「久しぶりやなぁ。元気にしとんか?」
「おかげさまで。兼嗣さまも、お元気そうで何よりです」
その言葉とともに、少女はわずかに微笑んだ気配があった。釣られて兼嗣も口元を緩める。
「そんな風に労いの言葉を掛けてくれるんは、本家の中では璃子ちゃんだけや。璃子ちゃんは、ずっとそっちに居るのしんどくないんか? 本家を抜け出したくなったら、いつでも言いや。俺が手伝ったるで」
冗談っぽく、けれど半分以上は冗談ではない心持ちで兼嗣は言った。東京にある永久本家の屋敷に住むなど、彼にとってはこの上にない罰ゲームである。
「ふふ。お気遣いありがとうございます。でも、私は今のところ大丈夫です。それより、ちょっとお願いしたいことがあるのですが」
「ええで。璃子ちゃんの頼みやったら何でも——」
そう言いかけたところで、ふと嫌な予感が過ぎる。
こんな風に璃子が頼み事をしてくるのは、決まってあの用件の時だけである。
「では、お言葉に甘えて。兼嗣さま、今どちらにおられますか?」
そんな質問を投げかけられて、嫌な予感はどんどん加速していく。
「……えーと。いまは出張が終わったとこで、静岡県伊豆市の……修善寺温泉の方まで来てるけど」
「修善寺ですか? ちょうどよかった!」
そんな彼女の反応に、兼嗣の予感はいよいよ確信に変わった。
「実は、問題児の一人がそちらに向かっているようなんです。お疲れのところ申し訳ないのですが、兼嗣さまのお力で呪いを返してきていただけませんか?」
やっぱりな、と兼嗣は天井を仰ぐ。大正ロマンを感じさせる館内は美しいが、瞳に映る景色は一気に色褪せたように感じられた。
「……暇人の三男坊さまがおるやろ。あいつはどうしたんや?」
「天満さまは今、お腹を壊してダウンしてます。千葉県の方まで出掛けているそうなんですが、梨狩りで梨を食べ過ぎたようで」
「なんじゃそら。ほんまに使えん奴やな」
梨狩りの時期は主に八月から。おそらくは今年のシーズンが始まってすぐに参加し、ほぼ一番乗りで腹を下したのだろう。
「どうかお願いします。兼嗣さまの他に頼れる人がいないんです」
そらそうやろな、と内心毒づく。
永久家の呪いを解決する『呪詛返し』の力を持つのは、一族の中でも本家の血筋の人間だけである。普段から身動きの取れる天満がダウンした今、頼みの綱は腹違いの自分しかいない。
ふう、と深い溜息を吐いた後、兼嗣はようやく腹を括った。
「わかった。永久家のためにってのは嫌やけど、璃子ちゃんの頼みなら引き受けたるわ。俺が呪いを返り討ちにしたる。その代わり、あのボンクラの三男坊さまが帰ってきたら、きついお灸を据えたってや、璃子ちゃん」
11
お気に入りに追加
69
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
神楽囃子の夜
紫音
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
あやかし警察おとり捜査課
紫音
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは
竹井ゴールド
ライト文芸
日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】
【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】
【2023/6/5、お気に入り数2130突破】
【アルファポリスのみの投稿です】
【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】
【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】
【未完】

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる