76 / 100
第四章 島根県出雲市
第二十九話 証
しおりを挟む◯
「……天満」
声が聞こえた。
水の向こう側から。こちらの名を呼ぶ、聞き覚えのある声。
「天満!」
ざばり、と水が捌け、体が持ち上げられる感覚があった。目を開けば、視界いっぱいに広がったのは赤紫色の空。雲が疎らに広がり、オレンジ色に輝いている。朝方か夕方か、どちらなのかはわからない。
「おい。しっかりせえ。息してるか!?」
ばしばしと容赦なく頬を叩かれて、嫌でも目が醒める。こんな乱暴な起こし方をするのは一人しか思い当たらない。
やめろ、と声に出そうとしたところで、先に咳が出た。ついでにいくらか水を吐き出す。しょっぱい味が口に広がり、それが塩水であることに気づく。
「……なんや。ちゃんと生きてるやんけ」
何か文句でも言いたげなその声は、しかしどこかホッとしたような音を含んでいる。
ようやく咳がおさまった天満は、改めて目の前にある顔を見上げた。予想通り、精悍な顔つきの男がそこにいた。爽やかさのある短い髪が、今は水に濡れている。
「兼嗣……。お前がここにいるってことは、ここは現世なのか?」
全身が水に浸かって冷たい。ここは、海なのだろうか。
「せや。お前はちゃんと生きて戻ってきた。御琴が言ってたんや。お前は海から帰ってくるって」
兼嗣はそう言って、横の方へ視線を送る。釣られて天満もそちらへ目を向けると、遠くに見える砂浜に、御琴と、あの家の者たちが並んでいた。彼らは不安げな眼差しをこちらに送っていたが、兼嗣が親指を立てて合図すると、途端に緊張の糸が切れたように破顔する。
そんな彼らの隣には、大きな岩が立っているのが見えた。波打ち際に立つそれは見覚えがある。おそらくは弁天島と呼ばれる大岩だ。出雲大社から西へ行った先にある海岸に、それは存在する。
「弁天島があるってことは……ここは稲佐の浜か」
天満はそう呟きながら、太陽の位置を確認する。それまで顔を出さなかった白い光が、海とは反対の方角からようやく昇り始める。
東から日が昇る。それは夜が明け、新しい朝が来たことを告げていた。
「結局、最初から最後まで爺さんの思惑通りだったってことか」
してやられた、と天満は肩を落としながら、あの老人が最後に言っていたことを思い出す。
——あまり右京を神格化するでないぞ。あれも所詮は一人の人間。人並みに傷つきやすい心を持つ、か弱い娘だ。……そして、儂もな。
あれは一体どういう意味だったのだろう。今となってはもう確かめようのない時治の真意に、天満は思いを馳せる。そんな彼の隣から、兼嗣が言った。
「あの爺さん。憎たらしい性格しとったけど、ほんまは意外と寂しがり屋やったんやろな」
「え?」
思わぬ指摘に、天満は目を丸くする。
「あんな一匹狼みたいな奴がなんであれだけの人間をそばに置いてるんかって不思議やったけど、あの取り巻きたちが爺さんを慕ってるの見てたら、なんとなくわかったわ。あんな爺さんでも、自分のほんまの部分を曝け出せる相手は必要やったんやろな。本家の人間にはどう思われてもええけど、身近な人間にだけは真実を知っといてほしかった。自分が死んだ後も、自分のことをちゃんと覚えててくれる存在がほしかったんやろ」
その言葉に、天満はかつて右京が言っていたことを思い出す。
——人は死んでも、それで終わりじゃない。誰かがその人のことを覚えている限り、心の中で生き続けるんだ。
彼女は自分が死んだ後、天満に灯籠を流してほしいと言った。死者の魂を慰めるための灯籠流しだ。
そして、彼女は自分の死の真相を、あらかじめ時治に打ち明けていた。おそらくは時治が二十年後にどんな行動を取るかもわかった上で。
「……なんだ。俺たちの身内は、不器用な奴ばっかりなんだな。あの爺さんも、右京さんも」
二人とも、誰かに託したかったのかもしれない。
自分が生きていた証を。
嘘偽りのない本当の姿を。
誰かの心の中に、生き続けると信じて。
12
お気に入りに追加
64
あなたにおすすめの小説
あやかし警察おとり捜査課
紫音
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
神楽囃子の夜
紫音
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
僕《わたし》は誰でしょう
紫音
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。
「自分はもともと男ではなかったか?」
事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。
見知らぬ思い出をめぐる青春SF。
※表紙イラスト=ミカスケ様
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
臣下が王の乳首を吸って服従の意を示す儀式の話
八億児
BL
架空の国と儀式の、真面目騎士×どスケベビッチ王。
古代アイルランドには臣下が王の乳首を吸って服従の意を示す儀式があったそうで、それはよいものだと思いましたので古代アイルランドとは特に関係なく王の乳首を吸ってもらいました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる