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第四章 島根県出雲市
第二十八話 未来の選択
しおりを挟む刃渡十五センチほどの小刀だった。現世で御琴から預かったもの。
兼嗣の胸に突き立てられたそれの柄を握っているのは、天満である。
「ありゃ。心臓を狙ったつもりだったんだけど、外したか。悪いな。即死させてやれなくて」
言い終えるのと同時に、天満は手にしたそれを胸元から勢いよく引き抜く。傷口からは鮮血が噴き出し、兼嗣はその場に力なく膝をついた。
「何……してんねん。こんなこと、したら……お前が」
現世へ戻るためには、自分以外の誰かに殺されるか、二人以上で心中するしかない。ここで兼嗣が死ねば、天満は帰る術を失う。
「残念だが、俺はお前と一緒には帰れない。今の俺は、肉体ごとここに来てるんだ」
「なに……?」
兼嗣は口から血を吐きながら、天満の言葉に耳を疑う。
通常、『黄泉の国めぐり』は人の魂だけが体を離れ、ここへやってくる。肉体ごとこちら側へ来る話など、聞いたことがない。
「俺は爺さんの呪いに引っ張られてここへ来たんじゃない。黄泉比良坂って場所から、裏技を使って来てる。だから現世にはもう俺の体は残ってない。体が失われたら、もうあっちには帰れないんだ」
ここへ来る前に、御琴から忠告があった。
——ここから黄泉の国へ行けば、お爺ちゃんと、あの兼嗣って人に会える。でも……一つだけ問題があるの。
彼女曰く、黄泉比良坂からのルートでは肉体と魂との分離ができない。そのため肉体ごと黄泉の国へと赴くこととなり、現世への帰り道は断たれてしまうのだ。
「そんな……。なんでお前が、そこまでして……」
兼嗣は膝をついた状態から、そのまま横へ倒れ込んだ。胸元から溢れ出る鮮血が、地面に血溜まりを作っていく。次第に呼吸は浅くなり、最終的には完全に動かなくなった。
やがて彼の体は白い光に包まれ、空気中に溶けるようにして消えていった。彼の魂が無事に現世へと帰還したのを見届けてから、天満は深呼吸するように深い溜息を吐き、霧に包まれた空を見上げた。
「お前はそれで良かったのか?」
しわがれた声が届く。見ると、霧の向こう、小高い丘になっている場所に時治が立って、こちらを見下ろしていた。
「爺さんも性が悪いねぇ。こうなることも全部、最初からわかってたんだろ」
そう言って、天満は苦笑する。
「いや。未来視の力は万能ではない。未来に起こる出来事には分岐点があり、枝分かれした選択肢の中で、どの道を辿るのかについては確証を持てない。お前があの武藤家の倅を助けに来るかどうかは、賭けだった」
「試されたってわけね。ま、右京さんの思いを踏みにじるようなことはしたくなかったからな。……さすがに、ひい爺さんの弟と一緒にあの世へ行くことになるとは思わなかったけどな。ほんと、昨日までは考えもしなかったよ」
はは、と笑う天満の顔にはわずかに哀愁の色が滲んでいたが、だからといって、誰かを恨んでいるような憎悪の表情は見えなかった。
「儂はな、天満。お前が本当にあの倅を助けに来るのかどうか、直前まで疑っていたのだ。もしもお前がここへ来なければ、あの倅は儂があの世へと連れていくつもりだった。お前にあの倅を助ける気がなければ、たとえ現世に連れ戻したところで、あの倅に居場所はなかっただろう。ただでさえ本家から疎まれているというのに、右京の死の原因を作ったことがお前の口から漏れでもすれば、あやつは今度こそどんな目に遭うかわからない」
「別に告げ口なんて趣味の悪いことには興味ないけどねぇ。何より、さっきも言ったけど、右京さんの気持ちを踏みにじるようなことだけはしたくない。あの人の優しさを無駄にしてしまうくらいなら、俺の命なんて安いもんだからな」
「あまり右京を神格化するでないぞ。あれも所詮は一人の人間。人並みに傷つきやすい心を持つ、か弱い娘だ」
そして儂もな——と、老人はぽつりと呟く。その意味を天満が図りかねていると、時治は手にした杖を持ち上げて、一際強く地面を突いた。
カツン、と波紋が広がるように音が鳴り響く。すると、その音に呼応するかのように、どこからか地響きのような、何かが迫り来るような音が近づいてきた。
「なんだ?」
天満が辺りを見回していると、数秒の後にその目に飛び込んできたのは、津波のごとき大量の水がこちらへ迫ってくる光景だった。どの方角を見ても水の壁ができており、逃げ場はない。唯一、時治の立つ小高い丘の部分だけが安全な場所に見えた。
「この水を通して、お前は現世に帰れ。三男坊の天満よ」
「はっ?」
言っていることの意味がわからず、天満は声を裏返らせる。
「儂を誰だと思っている。お前一人を現世へ帰すことなど造作もないわ」
その声を耳にしたのを最後に、天満の体は津波に飲まれた。暴れる水に全身の自由を奪われ、ボコボコと籠った音だけが耳を支配する。水の底は暗く、何も見えない。
——お爺ちゃんは優しいの。
呼吸ができず、薄れゆく意識の中で、天満は御琴の言葉を思い出していた。
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