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第3章
別れ
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烏丸が病院に着いたときには、時刻はすでに正午を過ぎていた。
いつもなら腹の虫が鳴る頃だが、今は食欲という概念すら忘れたように何も感じない。
ただ目の前にある現実を受け止めるだけで精一杯だった。
「……これで、良かったんですよね?」
病室のベッド脇に立つ飛鳥が、呟くように言った。
その泣き腫らした瞳の見つめる先で、羽丘は最期の時を迎えようとしていた。
まるで眠り姫のように、安らかな寝顔で眠り続ける少女。
その細い身体に繋げられた心電図のモニターが、ベッドサイドで弱々しく音を刻む。
ほぼ一定の間隔で刻まれるこの音が、いつか平坦で連続した音に変わった時、彼女の命は終わる。
今、この場には飛鳥と烏丸の他には誰もいなかった。
飛鳥曰く、両親の職場にはすでに連絡をしたそうだが、彼らの到着がいつになるかはわからないということだった。
「最初に病気のことがわかった時点で、すぐに手術を受けていれば……今ごろ、雲雀ちゃんは元気になっていたかもしれないのに。……なのに……」
「それをわかった上で、この選択をしたのは雲雀自身だから……俺たちがとやかく言えることじゃないよ」
「もちろん、わかっています。これは雲雀ちゃんの人生で、この選択は、雲雀ちゃん自身が決めたことだから。……だから最期は、笑って見送ってあげたいなって思っています」
そう言って、半ば無理やりな笑みをこちらに向けた彼女の顔は、羽丘が見たらきっと噴き出しそうなほど、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
そして、その鼻の頭には、いつのまにか新しい擦り傷が出来ている。
昨日まではなかった傷だ。
おそらく、危篤の連絡を受けてここへ駆けつける際に、慌てて転んだりでもしたのだろう。
「君は……雲雀のことが本当に好きだったんだね」
烏丸が言うと、飛鳥は目元の涙を拭いながら、再びベッドの方へと視線を戻した。
「そうですね……。ずっと一方的に、私だけが好きなんだろうなっていうのはわかってたんですけど。でも、なんだかんだで雲雀ちゃんは優しくしてくれるから。だから私、ずっとその優しさに甘えていたんです。それで……、できることなら、雲雀ちゃんが楽しめるようなことを一緒にやれたらいいなって考えたことがあって。一緒に歌い手をやらないかって誘ったこともありました」
それを聞いて、烏丸は先日の、羽丘と共に流星群を見ようとしたときのことを思い出す。
あのとき彼女は、かつて飛鳥と二人でネット配信をやっていたのだと言って、動画を見せてくれた。
──飛鳥にせがまれて仕方なく、よ。あの子、一人じゃ怖くてできないって言うから。
さも相手のためだと言わんばかりの物言いだったが、彼女は果たして、飛鳥の思いに気づいていたのだろうか。
こんなにも自分を愛してくれていたことを、彼女は知っていたのだろうか。
「私、雲雀ちゃんは将来歌手になるんじゃないかなって思ってたんです。歌も上手いし、可愛いし。本格派でも、アイドル路線でもいけるなって。だから歌のネット配信で閲覧数が伸びる度に、いつかスカウトが来るんじゃないかってワクワクしてたんです。……結局、声の調子が悪くなって途中で辞めちゃったんですけど」
動画の再生数を上げることにも、意義があった。
それは、ただ惰性で撮り続けていた自分とは天と地ほどの差があるなと、烏丸は自嘲した。
(隼人はどうだったんだろう……)
鷹取もまた、動画の再生数を逐一気にしていた。
烏丸がもう辞めようと言ったときも、彼は想像以上の剣幕で激昂してみせた。
危険なことをしているのはわかっていたはずなのに、辞められなかった。
なぜそうまでして、彼は動画を配信することに拘ったのだろう。
(隼人。今、どこにいるの?)
壁の時計を見上げると、午後一時前だった。
今朝から鷹取の姿を見た者はいない。
今頃どこで何をしているのだろう。
彼の捜索を中断してこの病院へ駆けつけたことを、もし羽丘が知ったら、彼女は怒るのだろうか。
いま何をすべきなのか、自分がどうしたいのか──それを迷っている烏丸のことを、叱咤するのだろうか。
「!」
と、急にポケットのスマホが震えたのに気づいて、烏丸はそれを取り出した。
見ると、鷹取から一通のメッセージが届いている。
すぐさま開けてみると、送られてきたのは何かのURLだけだった。
何だろう、と一瞬考えて、考えている暇はないと思い直す。
躊躇いなくリンクを踏むと、飛ばされた先はどこかの動画配信サイトだった。
そのまま自動的に再生された動画に、烏丸は目を見開く。
「これって……生配信?」
思わず声が漏れていた。
映し出された映像の中で、鷹取がこちらに手を振っている。
カメラの位置から彼の場所まで、ざっと十メートル程はあるだろうか。
見慣れた制服のパンツとワイシャツを纏った全身が、画面の中に小さく見えている。
場所はどこだろうか。
少なくとも烏丸には見覚えがない。
背景に空が見えていることから、屋外であることはわかる。
鷹取のすぐ後ろに看板のようなものがあるが、それだけはどこかで見たような気がしなくもない。
「それってもしかして、駅前のビルですか?」
隣から飛鳥が聞いた。
「駅前……?」
烏丸が顔を上げると、いつのまにかこちらのスマホを覗き込んでいた飛鳥と至近距離で目が合った。
「あっ。ご、ごめんなさい! 人様のスマホを勝手に見たりして……」
「いや、別にそれはいいんだけど。それより、ここって駅前のビルなの? ていうか──」
もしもこれが本当に、彼女の言う通り駅前のビルだとするならば、
「ここって、屋上なんじゃないの?」
言いながら、烏丸は冷やりとしたものを背に感じた。
鷹取の立っている場所は屋外であり、その足元から下に向かってコンクリートのような何かが伸びている。
改めて注視してみると、画面ギリギリのところには窓のようなものが見切れていた。
「この場所、一部のユーチューバーの間では有名なんですけど、知りませんか? 何年か前に、ここで度胸試しをした人気のユーチューバーが、誤って転落して亡くなったんです。確か、屋上の縁で懸垂をしていた……とかだったと思います。かなり高い場所なので、思ったより風が強かったみたいで」
飛鳥の説明を耳にしながら、烏丸は段々と意識が遠退いていくような感覚を覚えた。
駅前といえば、高層ビルが並んでいる。
何十階という階層のあるその建物の屋上から落ちれば、まず助かるはずはない。
五年前のコウノトリの件ですら、たかだか三、四階建ての建物と同じくらいの高さだったはずだ。
今まで散々危険なことばかりしてきたけれど、今回だけはレベルが違う。
ここで度胸試しなんて馬鹿な真似をしたら、今度こそ本当に死ぬかもしれない。
「……この人の着ている制服って、烏丸さんと同じものですよね。もしかして、お友達ですか?」
事態の深刻さを把握した飛鳥が、恐る恐る聞く。
烏丸が頷くと、
「大事な人なんですか?」
再び尋ねられて、烏丸は何と答えたらいいのかわからなかった。
自分にとって、鷹取は大事な存在だったのだろうか。
ただの幼馴染で、いざとなれば替えがきくようなパートナーというだけの間柄だったのに?
「止めに行かなくていいんですか?」
駅まではここからそう遠くない。
今からでも急いで行けば間に合うかもしれない。
けれど、
「でも……雲雀が……」
今ここで病室を離れたら、もう二度と羽丘には会えないかもしれない。
彼女の最期の瞬間を、看取ってやることすらできなくなってしまうかもしれない。
「いま行かないと、後悔しませんか? ……きっと雲雀ちゃんなら、あなたが後悔しない方を選べって言うと思います」
わかっている。
羽丘はそういう子だ。
自分の選択を後悔しない、自分の大切なものを一番に考えて、最後まで貫き通す、そんな女の子だった。
──あなたはまだ、自分のことを全然理解してない。だからもっと知らなきゃいけない。自分が今どうしたいのか、これからどうするのか。ちゃんと考えて、自分と向き合って、いま進むべき道を選ばなきゃだめよ。
今やるべきこと。
今しかできないこと。
そんなものは、考えなくてもわかっている。
「雲雀……」
烏丸はベッドの柵に身体の重心を預けると、羽丘の白く小さな手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
(あんたは、一人で死んでいくのが寂しくないのか……?)
返事はないとわかりつつも、心の中で問う。
だが、彼女の手のかすかな温もりを感じた瞬間、烏丸の脳裏に彼女の声が蘇った。
──手、握って……。
「!」
いつだったか、彼女に手を握れと頼まれたことがあった。
あれは確か、夜の中庭で、彼女が桜の木の足元で倒れていたときのことだ。
呼吸困難に陥っていた彼女は、ほとんど面識のない烏丸に向かって、その細い腕を伸ばしていた。
まるで孤独を怖れる子どものように。
どうかひとりにしないでと縋るように、彼女は烏丸に助けを求めたのだ。
「……なんだ。結局、あんたも寂しかったんじゃないか……」
ほとんど泣きそうになりながら、烏丸は笑った。
誰だってきっと、一人ぼっちは寂しいのだ。
それは、あの幼馴染だって例外ではない。
「……ごめん、雲雀。俺行くよ。手遅れになって、後悔する前に」
烏丸はそう言い残すと、今度は飛鳥の方へ声を掛ける。
「雲雀の手、握っててあげて。きっと少しでも安心すると思うから」
飛鳥は戸惑いながらも、言われた通りに彼女の手を握る。
入れ替わるようにして、烏丸は松葉杖を取ると部屋の出口へと向かった。
そうして扉に手をかけて、最後にもう一度だけベッドの方を振り返る。
「雲雀」
安らかに眠り続ける少女の、その魂の安寧を願って。
断腸の思いで、彼は永遠の別れを告げた。
「……さよなら」
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