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第3章
大切なもの
しおりを挟む人の面倒を見るのは、あまり好きな方ではなかった。
相手に構えばその分だけ、自分の時間が削られてしまうからだ。
──ひばりちゃーん! あーそーぼっ。
物心がついたときから、従姉妹の飛鳥はよくうちへ遊びに来た。
もともと母と叔母の姉妹仲が良く、家も近所にあったからだ。
彼女が訪ねて来る度に、羽丘雲雀は人知れず溜息を吐いた。
人がせっかく気持ちよく歌っていたのに、また邪魔をされてしまう。
──こら雲雀。音楽ばっかり聴いてないで、飛鳥ちゃんと遊んであげなさい。
年上が年下の面倒を見るのは当たり前。
本当の姉妹でもないのに、たった二年早く生まれただけで、他人の世話を任されるのは納得がいかなかった。
加えて、飛鳥のあのドジっぷり。
道を歩けばすぐに転ぶため、目を離す隙もない。
少しでも油断すれば、何もない所で躓いて怪我をして、めそめそと泣き始める。
だからそのときはいつも、飛鳥が泣き止むまで胸の中に抱きしめて、そっと頭を撫でてあげる。
それが思いの外、飛鳥にとっては心地が良かったらしい。
──えへへ。あすか、ひばりちゃんのこと、だーいすき!
泣き止んだ後の彼女は、いつもそう言って笑った。
無邪気で屈託のない、安心に満ちた笑顔。
その澄んだ眼差しを向けられる度に、ずるいな、と思った。
あんな顔をされたら、どれだけ世話を焼かされた後でも、つい許してしまいそうになる。
──……わたしはきらいよ。あなたのことなんか。
半ば意地を張るように羽丘が言うと、
──えへへ。あすかはだいすき!
と、まるで人の話など聞かずに、自分の感情ばかり押し付けてくる。
いつもそうだった。
彼女は一方的に、純粋な愛情をぶつけてくる。
こちらの気持ちなどお構い無しで。
むしろ最初から分かり合おうという気すらないのかもしれない。
だからきっと、彼女は最後までこちらに笑いかけるのだ。
呆れるほどにまっすぐで、眩いばかりの愛を込めて。
◯
あれからどれだけ時間が経ったのか。
外はまだ暗いが、そろそろ明け方が近いかもしれない。
壁の時計を見上げる気力もない。
自動販売機の明かりだけが灯る病院の待合室で、烏丸は長椅子に腰掛けたまま項垂れていた。
やがて、廊下の奥から誰かの足音が近づいてきた。
凝り固まった首をもたげてゆっくりと顔を上げると、視線の先に現れたのは飛鳥だった。
「……一命は取り留めました。でも、意識が戻るかどうかはわかりません。癌もすでに転移していて……。喉も切開して管を通していますので、たとえ目を覚ましても、声を出すことはもう……」
今しがた見てきたであろう現実を、彼女は抑揚のない声で語った。
羽丘は今、集中治療室に入っている。
病院から連絡を受けた飛鳥とその両親はすぐに駆けつけたが、身内以外の人間は出入りできないため、烏丸は外で待つ他なかった。
「ごめん。俺、結局何もできなかった」
あんなに側にいたのに。
一緒に星を見て、語り合って。
羽丘の選んだ道を真正面から受け入れようと思ったのに、彼女の赤い鮮血を見た瞬間、無様にも取り乱してしまった。
「……雲雀ちゃんは、最後に歌っていましたか?」
わずかに震えた声で、飛鳥が聞く。
烏丸は泥沼の中にいるような鈍い思考で、ぼんやりと当時のことを思い出した。
「うん……歌ってたよ。すごく、幸せそうに」
まるで遠い昔のことのように思える。
あんなにも満ち足りた笑みを浮かべて歌っていた彼女が、今はもう二度と目を覚まさないかもしれないなんて。
「そうですか……。なら、良かったです。烏丸さんが隣にいてくれたのなら、きっと寂しい思いもしなくて済んだと思いますから」
てっきり泣き出すのかと思えば、飛鳥は意外にも冷静だった。
そのまま烏丸の隣に腰を落ち着けて、ぽつりぽつりと話し出す。
「私、小さい頃からずっと雲雀ちゃんを怒らせてばかりで。昨日も結局ケンカ別れになっちゃったから、分かり合えないままでしたけど……それでも、手術を受けてほしいって最後まで言い続けたことは、後悔してないんです。どれだけ雲雀ちゃんに否定されても、雲雀ちゃんに生きていてほしいっていう私の思いは、本物でしたから」
どこまでもまっすぐな主張だった。
たとえ本人に拒絶されても、けっして折れず、最後まで自分の思いを貫く。
「強いんだね」
思わず烏丸が言った。
「それに比べて、俺は……」
自分の本音を羽丘に伝えることもできず、ましてや彼女の運命を未だに受け入れられないでいる。
不甲斐ない。
羽丘が元気だったうちは、飛鳥の方がよほど感情的に見えたのに、いざこうなってみると、立ち直れないのは烏丸の方だった。
女には度胸があり、肝心な場面で腰を抜かすのは男の方だという話を聞いたことがある。
さすがに偏見も甚だしい意見だと思っていたが、このときばかりはその通りだったと烏丸は痛感した。
「烏丸さんも本当は、雲雀ちゃんに手術を受けてほしかったんでしょう?」
確認するように、飛鳥が聞く。
「……うん」
白状した。
羽丘の前では、結局言えなかったけれど。
本当は、手遅れになる前に手術を受けて、生き延びてほしかった。
「昨日、あの駐車場で、烏丸さんは嘘を吐いていたんですね。あのときはまるで、雲雀ちゃんの死を受け入れたようなことを言っていましたから……あれを聞いたとき、私は最初ショックでした。どうしてそんなことを言うんだろうって。でも、あの後……私も考え直したんです。烏丸さんはきっと、雲雀ちゃんの心に寄り添おうとしてくれたんだろうなって」
いつになく饒舌に話す飛鳥は、すでに心の整理を済ませたように落ち着いていた。
「私は、雲雀ちゃんへの思いをただ伝え続けました。それは後悔していません。でもそのせいで、雲雀ちゃんの心に寄り添ってあげることができませんでした。だから……烏丸さんが嘘を吐いてくれて、今は感謝しているんです。あなたのおかげで、雲雀ちゃんの心はきっと救われたから」
「……感謝されるようなことなんて、俺はしてないよ。だって、これじゃあまるで、雲雀を騙したみたいで」
「嘘を吐いたのは、烏丸さんの優しさでしょう。雲雀ちゃんの心を大事にしたいっていうそれは、まぎれもない真心です。私たちの違いはただ、何を一番大切にしたかったか、ということだけなんだと思います」
一番大切なもの。
羽丘が探し出せと言っていた。
「私は雲雀ちゃんのことが大事だという思いを。そして烏丸さんは雲雀ちゃんの心を、それぞれ一番大切にした。それだけの違いだと思います。私も、あなたも、雲雀ちゃんのことが大好きだった。……だから……」
飛鳥はそこで言葉を詰まらせると、それまで堰き止めていたものを溢れさせるように、ポロポロと涙を流した。
「……お願い、戻ってきて。雲雀ちゃん……」
消え入りそうなその声は、暗い廊下の奥に吸い込まれる。
やがて薄暗い窓の外からスズメの鳴く声が聞こえて、朝がやってきた。
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