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第2章
声
しおりを挟む喉に支障が出る前の、羽丘の本来の声を耳にしたのはそれが初めてだった。
「お久しぶりです! ええっと、前回から少し間が空いてしまいましたが……今回はね、私の尊敬するレミー・バトラーさんの曲を歌いたいと思います!」
鈴を転がすような透き通った声。
愛らしくも高すぎず、その一音一音が耳に心地良い。
「……綺麗な声だね。小鳥がさえずってるみたい」
「ふふ。否定はしないわ。私にとって、声は一番の自慢だったもの」
この美しい声を、神様は彼女から奪ったのか。
もともと神仏への信仰心など持ち合わせていない烏丸でも、こればかりは天を呪わずにはいられなかった。
やがて動画の中で曲のイントロが流れ始める。
メロディーに合わせて歌い出した二人の、その歌詞には聴き覚えがあった。
「この歌、前も歌ってたよね。あんたが好きだって言ってた、ええと……」
「レミー・バトラー。そろそろ覚えてよね。さっき動画の冒頭でも言ってたでしょ」
そうだった、と頷く烏丸の隣で、羽丘もまた歌い始める。
か細い声で、時折小さく咳き込みながら奏でられるその歌は、動画の中の彼女のものとはまるで別物だった。
それでも、歌を口ずさむ彼女の、その幸せそうな横顔は変わらない。
あの日、桜の木の足元で歌っていた彼女が浮かべていた、ささやかな喜びに満ちた笑みだった。
「……あっ、流れ星!」
と、烏丸が見惚れているうちに、羽丘はハッと目を輝かせて空を指差した。
釣られて烏丸が目をやると、目的のものはすでに見えなくなっていた。
夜空を駆ける流星は、一瞬でその姿を消してしまう。
願い事をする暇もない──と、烏丸が再び隣を見ると、羽丘は胸の前で両手を組み、静かに瞳を閉じていた。
願い事をしているのだろうか。
星はもうとっくに消えてしまったのに。
(彼女は、一体何を願うんだろう……)
その疑問を口には出さず、烏丸は再び空を見上げた。
もしも今、もう一度流れ星を見つけられたなら、自分は一体何を祈るだろう。
羽丘の病気が治りますように、とでも願うのだろうか。
──手術をしたら、二度と歌えなくなるの。それは『治る』とは言わないわ。
以前、彼女が言っていた。
彼女の病気は治らない。
たとえ手術をして生き延びたとしても、それは病気を克服したことにはならない。
少なくとも彼女にとっては。
「……私の願い事、気になる?」
いつのまにか、再び目を開けた彼女がこちらを見つめていた。
烏丸は、うん、と頷きそうになる衝動を抑えて、おずおずと口を開く。
「願い事って、口にしたら叶わなくなるんじゃないの?」
「あら、意外とロマンチストなのね。でも別にいいのよ。どうせ叶わない夢なんだから。だから、当ててみてよ」
叶わなくても良い夢なんてあるのだろうか。
いくら非現実的な内容だとしても、それでも星に願ったのは、彼女がそれを望んでいるからじゃないのか。
烏丸が目を落とすと、スマホの画面には未だ歌い続ける二人の少女が映っていた。
楽しそうに肩を並べているその様は、まるで仲の良い姉妹のようにしか見えない。
「……飛鳥の願い事だったら、すぐに当てられそうなんだけどな」
ほとんど呟くように烏丸が言うと、途端に羽丘の顔が不機嫌になる。
「前から思ってたけど、飛鳥のことは、下の名前で呼ぶのね」
「え?」
羽丘はわざとらしく咳払いすると、おもむろにこちらへ背を向けた。
「雲雀よ」
「?」
「私の名前」
言われている意味がわからず、烏丸が首を傾げていると、
「私のことも、下の名前で呼んでいいのよ?」
そう言って、彼女は肩越しに視線だけをこちらに送る。
長い髪の隙間から覗く耳は、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
「え……。何の、話?」
思いがけない申し出に、烏丸もまた顔の辺りがじんわりと熱くなっていくのを感じた。
妙に緊張した空気がその場に流れる。
「だ、だから。私のことも下の名前で呼べって言ってるのよ……!」
もはや逆ギレするような勢いで羽丘が言う。
「な、なんで? 別に、苗字呼びのままでもいいじゃん。飛鳥のことはただ、苗字が同じ『羽丘』でややこしいから、呼び分けるために下の名前にしてるだけだし」
素直に承諾すればいいものを、なぜか必死で否定してしまう。
何をそんなに照れることがあるのか。
自然と早口になり、心臓の音はやけにうるさく、柵を掴む手は汗でじっとりと濡れていた。
「……もういい! こんなまどろっこしいことはやめて、単刀直入に言うわ!」
喉への負担などお構いなしで、羽丘は掠れた声を張り上げ、振り向きざまにこちらへ人差し指を突きつけた。
「あなたの名前、私も下の名前で呼んでいいわよね!?」
「へっ……?」
月明かりの下でもわかるほど顔を真っ赤にさせながら、彼女は言い放った。
「私を下の名前で呼ぶのを許してあげるから、私もあなたのこと、下の名前で呼ばせてよ。もうじき、声を出すこともできなくなると思うの。だから、その前に……!」
こちらに突きつけられた指先は、小刻みに震えていた。
今にも泣きそうな顔で、彼女はそんな慎ましやかな許可を求める。
「……す、好きにすればいいじゃん……」
火照った顔のまま、思わず視線を逸らしてしまう烏丸。
もはや相手の顔を直視することができず、妙な胸の高鳴りだけが早鐘のように頭の中で響いていた。
羽丘は承諾を得た途端、急に静かになって腕を下ろした。
そうして数秒の間を置いてから、改めて口を開く。
「……翔くん」
ささやくように呼ばれて、耳がくすぐったいような、そわそわとした気分になる。
「翔くん」
もう一度聞こえた彼女の声は、やはり掠れていた。
あれだけ大きな声を出したのだ。
夜風に当たって身体も冷えているだろうし、そろそろ部屋に戻って安静にした方が良いかもしれない。
「翔くん……」
段々と弱々しく、涙声になっていく羽丘の声。
思わず彼女の方へ視線を戻すと、彼女はその可憐な瞳から、一筋の涙を流していた。
「……翔くん……」
もうじき、声が出せなくなる。
だから今のうちに、一回でも多くとでもいうように、彼女は烏丸の名を何度も呼んだ。
「雲雀」
烏丸は柵から手を離すと、たまらず彼女を腕の中に抱きしめた。
松葉杖も使わず、片足だけで立つ彼の身体は斜めに傾いていて心許ない。
けれど、目の前で今にも消えてしまいそうな儚さを纏う羽丘の姿を見て、手を伸ばさずにはいられなかった。
なぜ、彼女ばかりがこんな目に遭わなければならないのだろう。
「……あのね。声が出せるのって、すごいことだと思うの」
烏丸の腕の中で、羽丘はさらにか細くなった声で言う。
「口で言葉を紡いで、誰かと思いを伝え合えるのよ。それに、歌だって歌えちゃう。歌う人も、それを聴く人も、みんなが癒されたり、勇気づけられたりするの。それって、とっても素敵なことじゃない?」
烏丸は何も言わず、頷く代わりに、彼女を抱きしめる腕に力を込める。
「私、歌を好きになれて良かった。歌のおかげで、私は最後まで自分らしくいられるの。だから、私はこの選択を後悔しない。……翔くんも、自分にとって一番大切なものを早く見つけられるといいわね」
大事なもの。
失いたくないもの。
それがきっと、自分の生きる道標となる。
何よりも大切なものを見失うことさえなければ、きっと彼女のように、後悔しない人生を全うすることができるだろう。
(俺の、一番大切なものは……)
脳裏で雛沢の笑顔が浮かんで、消える。
里親となった烏丸鳴子の顔も、飛鳥の顔も、羽丘の顔も。
そして、あの幼馴染の顔も。
「! ……雲雀?」
突如、羽丘が激しく咳き込み始めた。
ほとんど息を吸う暇もなく、立て続けに。
「雲雀、大丈夫?」
慌てて背中をさするも、全く効果はなかった。
このままではまずい。
すぐに誰かを呼ばなければ、とスマホを手に取った瞬間。
咳を一瞬だけ止めた羽丘の小さな口から、勢いよく、おびただしいほどの赤が溢れた。
喀血だった。
「雲雀!」
途端、バランスを崩した彼女の体重に押されて、烏丸は彼女を抱きしめたまま、背中側から床に倒れた。
「! ッつ……。雲雀、しっかりしろ。雲雀!」
痛みを堪え、仰向けのまま呼び掛けるが返事はない。
咳は止まった。
息があるのかはわからない。
烏丸は自身の胸元が、彼女の吐き出した生温かいモノで覆われていく感覚に身震いした。
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