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第2章
ありふれた選択
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呼び出し音が数回鳴った後、留守番電話サービスに繋がった。
「うーん。出ないなぁ、鷹取くん」
機械的な音声案内を耳にしながら、百舌谷はさほど残念そうでもない声でぼやいた。
周囲では夕食の片づけに追われる若手の看護師たちが忙しなく廊下を行き来している。
その横をぶらぶらと歩きながら、百舌谷は時折飛んでくる軽蔑の眼差しに満面の笑みで応えていた。
(せっかく羽丘さんのこと、いっぱい教えてあげようと思ったのになぁ)
眼鏡越しに視線を落とせば、胸元に抱えたカルテが目に入る。
名前の欄には『羽丘雲雀』とフルネームがあり、現在の病状から家族構成に至るまで事細かに個人情報が記載されていた。
本来ならばこれを私的に持ち出すのは厳禁とされているが、院長の娘とあれば周りは見て見ぬフリをする。
別に悪用するわけじゃないから、というのが百舌谷の常套句だった。
と、薄暗い廊下を歩いている途中、あるものを見つけて彼女は足を止めた。
すでに消灯した休憩所の奥――自動販売機の光に照らされた長椅子の上に、一人の少女の姿があった。
病衣を纏った身体は華奢で、髪は長い。
俯いた顔はよく見えなかったが、間違いない。
「あらぁ。羽丘さん? どうしたの、こんな所で」
百舌谷が声を掛けると、少女――羽丘雲雀は、ハッとしたようにこちらを見た。
「……百舌谷さん」
弱々しく発せられたその声は掠れ、わずかに震えていた。
(おや? これはこれは……)
歩み寄ってまじまじと見てみると、こちらを見上げる少女の瞳は涙の膜が張り、自動販売機の光を反射してキラキラと輝いていた。
「もしかして、泣いてた?」
恐る恐る、という体を装って百舌谷が聞く。
「あ、いえ。これは……えっと」
羽丘は慌てて目元を拭ったが、その場を取り繕う言葉は何も出て来ないようだった。
「うふふ。そんな慌てないで大丈夫よぉ? ゆっくり、深呼吸して?」
百舌谷が宥めると、少女は少しだけ落ち着いた様子で、言われた通りにゆっくりと深呼吸した。
(ほんと、素直で可愛いわねぇ)
いつにもまして従順な少女に、百舌谷は満足げな笑みを浮かべる。
どうやら精神的に弱っているらしい今の状態なら、色々と話が聞きやすそうだ。
「屋上、行く?」
優しげな声で誘ってみれば、少女は一瞬だけ迷いの色を見せたものの、こくんと小さく頷いた。
百舌谷はさらに笑みを深め、少女を労わるように背中をさすり、誰もいない屋上へと誘導した。
◯
星のよく見える夜だった。
いつものように鍵が掛かっていた屋上を開け放すと、満天の星空の下には百舌谷と羽丘の二人だけ。
落下防止用の柵に掴まって頭上を仰ぐと、東の空には春の大三角が見える。
「綺麗ねぇ~。ここ、すっごく眺めが良いでしょう?」
視線を空から地上に降ろせば、隣で同じように星を見上げていた少女がこくりと頷く。
「明後日の夜には流星群が見えるらしいわよぉ」
ネットニュースでたまたま得た情報を口にすると、それを聞いた少女は「流星群……」と小さく呟いて、また沈黙した。
「せっかくだから明後日、烏丸くんと一緒に見たらぁ?」
「……えっ?」
それまでどこか上の空だった羽丘は、途端にびっくりしたように百舌谷を見上げた。
「な、なんでそこで烏丸くんの名前が出てくるんですか」
「うふふ。そんな照れなくたっていいじゃない。きっと良い思い出になるわよぉ?」
「別に照れてません。それに烏丸くんとは、別に仲が良いってわけでもないし……」
ぷいっと横を向いたその顔は、しかし何か迷いを含んだような複雑な表情を浮かべていた。
その反応から、やはり、と百舌谷は確信する。
これは烏丸と何かあったに違いない。
(ほんと、わかりやすいわねぇ)
ぺろりと舌舐めずりをしてから、極力優しい声色で尋ねる。
「烏丸くんと何かあったの?」
羽丘はしばらくもじもじと身体を揺すって言いづらそうにしていたけれど、やがて観念したのか、ぽつりと呟くように答えた。
「……私、また嫌われるようなこと言っちゃった」
「嫌われるようなこと?」
羽丘は昼間のやり取りを簡単に説明すると、柵を掴む手にきゅっと力を込め、まるで懺悔でもするように頭を垂れた。
「本当は、ケンカなんかしたいわけじゃないのに。でも……」
そこで一度口を噤むと、今度はその瞳から、大粒の涙をぽろりと零した。
「烏丸くんも、飛鳥も……みんな、私に手術を受けろって言うの。私は、声を失くすくらいなら死んだ方がマシだって何度も言ってるのに。誰もわかってくれなくて。だから私、このまま……誰にも理解されないまま、ひとりで死んでいくのかなって……」
その先はもう、言葉になっていなかった。
不規則に込み上げてくる嗚咽に邪魔をされ、ただでさえ浅い呼吸が苦しげに漏れるだけだった。
百舌谷は何も言わずに羽丘の肩に手を回し、そっと自分の方へと引き寄せた。
時折しゃくり上げる小さな身体は、以前にも増して細くなったように思う。
「……怖がることはないわ」
背中をさすり、幼子をあやすように言う。
「羽丘さんは今、不安なのよね? このまま誰にも理解してもらえないんじゃないかって。でも、一番大事なのは自分の気持ちよ。たとえ誰に何を言われたって、最後に決めるのは他でもない自分自身。だから……たとえどんな道を選んでも、最後にあなたが納得できるのなら、そこに間違いなんてないわ。少なくとも私はそう思う」
羽丘は何も応えない。
おとなしく百舌谷の胸に顔を埋め、小動物のように震えている。
「もっと自分に自信を持っていいのよ。あなたを誰よりも理解しているのは、あなた自身なんだから」
百舌谷がそこまで言ったとき、羽丘はやっと顔を上げたかと思うと、涙目のまま、少しだけ困ったような笑みを浮かべてみせた。
「……ありがとうございます。百舌谷さんって、本当に優しいですよね」
「あらぁ、今ごろ気づいたの?」
おどけた口調で微笑み返せば、腕の中の少女は「ふふっ」と無邪気に笑った。
無垢だなあ、と心から思う。
他人にちょっと肯定されたからって、こんなにも嬉しそうな顔を見せちゃうなんて。
「うふふ。可愛いわねぇ、羽丘さん」
あまりの愛おしさに目を細め、百舌谷は少女の頭を優しく撫でた。
大抵の大人なら、きっと少しでも長く生きられるようにと彼女を説得するのだろう。
しかし、そんなありふれた選択ではつまらない。
たとえ当人の身体が悲鳴を上げたとしても、羽丘には最後まで後悔しないよう、本能のままに生きてほしいと思う。
「烏丸くんも、きっと話せばわかってくれるわ」
だから頑張ってね、と発破をかければ、無垢な少女はすぐその気になって、まるで憑き物が落ちたような晴れやかな顔で頷いてみせるのだった。
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